桓武天皇の蝦夷 ( えぞ ) 征伐に関する氏の説明を、紹介します。
「奥羽の先住民族である蝦夷と朝廷との関係は、時代によってさまざまであるが、桓武天皇が皇太子になられた頃から、蝦夷の騒乱がしばしば記録に出てくる。」
漢詩にある胆沢 ( いざわ ) は、現在の岩手県水沢市の近郊と言われていますが、広い沃野だったそうです。当時は「賊奴の奥区」と呼ばれていたとのことで、蝦夷が最も頑強な抵抗を示した地域でした。出先機関として陸奥の軍勢が置かれていましたが、まともに太刀打ちできる相手ではなかったようです。桓武天皇以前の蝦夷征伐の記録を、氏が紹介しています。
・宝亀七年 ( 西暦776 ) 、陸奥軍が胆沢・蝦夷騒動を討つ
・宝亀八年12月、出羽国の蝦夷が反乱し官軍 ( むつぐん ) を破った
・翌年伊治公 ( いじのきみ ) あさ麻呂が反乱、朝廷に服し伊治郡の大領に任ぜられていたので、朝廷は愕然とした
・中納言藤原継綱 ( つぐつな ) を征東大使、大伴真綱 ( まつな ) を陸奥鎮守副将軍、安倍家麻呂 ( いえまろ ) を出羽鎮狄 ( ちんてき ) 将軍に任じた。
・ものものしい陣立てで数万の官軍が奥州へ向かったが、数ヶ月経っても何の成果も上がらなかった。
・改めて藤原小黒麻呂 ( おぐろまろ ) を持節征東大使として派遣したが、何の成果もなかった。
・百済王・俊哲が進撃したが、敗退した。
堂々数万の大軍が、四千人余りの蝦夷を一年以上をかけても討伐しそこね、戦果はたった70余人を倒しただけだったそうで、官軍が弱かったのか、蝦夷軍が強かったのか、散々な目にあっています。
「桓武天皇が即位されると、それまでの失敗を反省し、二年もの準備期間を持ち、十分体制を整えた上で、延暦七年 ( 西暦788 ) 7月、紀古佐美 ( きのこさみ ) を征夷大使にに任命し、本格的な蝦夷征伐をおこなわしめた。」
これが桓武天皇の第一次蝦夷征伐ですが、五万二千余人と言われたこの大軍も、胆沢に攻め入るどころか、平野の入り口にある衣 ( ころも ) 川のあたりで大敗しています。
第二次蝦夷征伐は2年後の延暦九年 ( 西暦790 ) に準備が始められ、大伴弟麻呂 ( おとまろ ) が征夷大使、他に三人の副使が任じられています。この中に坂上田村麻呂 ( たむらまろ ) がいて、彼が実戦の指揮を取ったと言われています。
「そして平安遷都がなされた延暦十三年 ( 西暦794 ) に、征夷の成功が報告されてきた。首を切った者475人、捕虜にした者150人、捕獲した馬が65頭ということである。戦果と言えないこともないかもしれないが、10万の大軍を動員してこれだけというのは、はなはださみしい。」
敵の首領の阿て流為 ( あてるい ) は健在で、胆沢地方を征服したのでもありませんでしたから、氏のいう通り〈はなはださみしい戦果〉です。この乏しい戦果の中で、一人光っていたのが坂上田村麻呂だったと言います。第三次蝦夷征伐軍を指揮できるの彼しかいないと、誰の目にも明らかだったそうです。
「延暦十五年 ( 西暦796 ) 頃から、すでに準備が始まった。田村麻呂はその頃多賀城にいて、蝦夷地の統治に当たっていたが、桓武天皇の信任は厚く、近衛少将のまま鎮守将軍に任じられたほか、陸奥守と陸奥・出羽の按察使 ( あぜち ) も兼任した。要するに奥州のことは、軍事、行政、監察など、全ては田村麻呂に任せたという意味である。」
翌年にわが国最初の征夷大将軍の称号が与えられ、彼はまだ40才でしたが、日本の第一代征夷大将軍に相応しい人物だったそうです。尺貫法が通じないと思いますが、氏の説明をそのまま紹介します。
「彼は身長五尺八寸、胸の厚さが一尺二寸、顔は赤みを帯び、目は鷹の如く鋭く、あご髭は黄金の糸を垂れたようである。勇気も膂力 ( りょりょく・腕の力 ) も常人をぬきんで、怒れば猛獣もたちまち倒れるが、笑えば赤子もなつくといった、まことに大将軍の器であったという。」
氏もさすがに照れ臭くなったのでしょうか、根拠にした本を注記しています。( 高橋崇『坂上田村麻呂』昭和34年出版・吉川弘文館 )
前置きが長くなりましたが、ここで頼山陽の漢詩の解説が始まります。次回はいつもの手順通り、頼山陽の「書き下し文」と徳岡氏の「大意」を紹介します。