135ページ、第九闋 ( けつ ) はあと2ページで終わります。漢詩の解説が終わっていますから、お終いにして良いのですが、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々には残りを紹介しようと思います。
「今から考えると、頼山陽のように、唐臣となった二人を非難するのは酷であると思う。二人とも帰国の意思は十分にあったのだから、安南まで漂流し、従者らは賊に殺され、命からがら長安に戻ったのである。地図で見ても、その距離の大きいことに驚く。」
つまり氏は、二人の弁明をしています。漢詩を紹介するだけでは済まされないものがあるのだと思います。
「しかもその時、仲麿の年齢は五十を超えていた。平均年齢が短かった時代であるから、今なら七十くらいの老人に相当しよう。その後帰国しようとする気がなくなっても無理はない。」
七十でも八十でも体が動くのなら、自分は国へ帰るだろうと思いますが、氏の思いを優先します。
「仲麻呂が漂流した時、彼は溺死したという噂が唐の都に伝わった、仲麻呂と親しかった李白は、七言絶句を作って、友人仲麻呂の死を悼んでくれた。」
日本の晁卿 ( ちょうけい ) 帝都を辞し
征帆一片 ( せいはんいっぺん ) 蓬壺 ( ほうこ ) をめぐる
明月帰らず 碧海 ( へきかい ) に沈み
白雲愁色 蒼梧 ( そうご ) に満つ
この詩については、氏が大意を説明しています。
「日本の仲麻呂は帝都長安に別れを告げ、去りゆく一片の帆は東の海にあるという、蓬莱の島を巡り行くはずであった。しかし明月の君は帰らず、青海原に沈んでしまった。白い雲は君の死を悲しむかの如く、蒼梧 ( 南シナ海沿岸地方の地名 ) の海岸の空に満ちている。」
「李白のような大詩人に死を悼む詩を作ってもらった日本人は、仲麻呂だけであろう。」
おそらく氏は、このことが言いたかったのではないでしょうか。
「私は仲麻呂に同情する。彼は在唐40年近かったにもかかわらず、大和言葉だけの名歌を作ることができるほどの日本人であり続けながら、唐の大臣たちに尊敬され愛惜される、国際人でもあったのであるから。」
清河と仲麻呂については、きちんと氏が説明しましたので、二人に劣らない鑑真の偉大さについて、私が調べた事実を紹介します。鑑真は清河に招かれて渡日する10年前にも、遣唐使に要請され日本へ渡ろうとして、5回も失敗していました。氏の著作を手にしなかったら、鑑真のことは知らないままになったと思います。詳しくは述べませんが、別途調べた渡日の記録だけを紹介します。
・1回目西暦743年 渡航に反対する弟子の密告で失敗
・2回目西暦744年 出帆するが暴風のため失敗
・3回目西暦744年 安否を心配する弟子の密告で失敗
・4回目西暦748年 高僧を日本に取られたくない弟子の密告で失敗
・5回目西暦748年 暴風のため海南島へ漂着 気候の変動と激しい疲労のため失明
・6回目西暦753年 副使の大伴古麻呂の乗る第二船で、渡日に成功
日本の朝廷の要請を受け承諾して以来10年に渡り、鑑真は約束を果たすため命をかけていました。このことについても、私たちは心に刻み感謝しなければならないと思います。李白のような名句は作れませんが、私なりの気持ちを最後に付け加え、第九闋 ( けつ ) の紹介を終わります。