ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

学びの「ねこ庭」からの提案 - 6 ( 87年間と79 年間の違い )

2024-02-02 21:36:14 | 徒然の記

 シリーズが長くなると、自分の立ち位置が分からなくなります。第一回目に述べました通り、ブログのテーマ「アメリカからの独立」で、何を根拠に主張するかの説明がサブテーマです。

 このためには、次の2つを明確にしておく必要があると述べました。

   1.  学びの庭である「ねこ庭」では、アメリカという国をどのように考えているのか。

      2. 学びの庭である「ねこ庭」では、先の大戦をどのように考えているのか。

 予定通り1.2.の説明が、林房雄氏の『大東亜戦争肯定論』の紹介と共に終わりました。本来なら、ブログのテーマ「アメリカからの独立」に進むべきなのですが、ここで森の横道に入りました。

 ・次回は、武力で脅されながら締結させられた条約 ( 法律  ) の歴史が、敗戦後の日本で繰り返されていた事実を、氏の説明を中心として紹介します。

 前回このように述べて終わりましたが、森の横道とは言え、テーマから外れた道ではありません。魂の抜けた歴史を教わっている息子や孫たちを思うと、敗戦後の日本の無念な現実を先に紹介する方が手っ取り早いのではないか、と考えました。

 「アメリカからの独立」がなぜ大事なのか、江戸時代のご先祖の苦労を紹介すれば理解が早まる気がします。そんなことはとっくに知っていると思われている方は、時間の無駄を避けスルーして下さい。

 武力で脅迫されて結んだ条約のため、ご先祖がいかに苦労したかを林氏が説明しています。

  ・不平等条約の撤廃について 、明治維新政府は成立の当初から腐心した。

  ・しかしイギリスを先頭とする欧米列国は、頑として日本の要求を認めず、日清・日露の役を経て、朝鮮併合を敢行した後に初めて、日本の改正要求に応じたのである。

  ・しかも条約の尻っぽとしての、「外国人の永代借地権」は、昭和17年まで残った。

 不平等条約の出発は1854 年の「神奈川条約」で、列強が改正に応じたのが1910年の「日韓併合」時と言いますから、この間に56年が経過しています。魂の抜けた歴史とは言え、天皇と将軍が国民と共に激動の時代を乗り越えた事実は消せません。

 ・勤王・佐幕の戦いで血を流した後の、徳川慶喜による「大政奉還」

 ・列強による植民地化を危惧した、「欧米に追いつけ、追い越せ」の大号令

 ・大号令を実現するための、「殖産興業」「富国強兵」策の実施

 ・近代国家の仲間入りのための大日本帝国憲法の発布と、帝国議会の設置

 全ては、中国や他のアジア諸国のように植民地とされないため、欧米列強と肩を並べる強国となるための、死に物狂いの努力でした。天皇を中心とした一矢乱れない頑張りの根底にあったのは、「日本を守る」という一点でした。

  ・太平洋戦争を起こしたのは、明治以来の軍国主義教育が原因だ

 「ねこ庭」では、歴史を考えない石川達三氏の意見を重要視しません。先の大戦の根底に流れていたのは、幕末以来の危機感と祖国防衛の愛国心です。戦車隊への腹いせから、昭和を否定する司馬氏の意見は論外ということになります。

 二人について述べるより、本題へ戻り林氏の紹介を続ける方が大事です。

  ・修好通商条約という美名のもとに、ハリスは次のような重要項目を内容とする、一方的条約を押し付けた。」

        1. 開港場に外人居留地 ( 租界 ) をつくること。 

      2. 日本側に自主権のない関税制度とすること。

          3.  治外法権を設けること。( 外国人の犯罪に、日本側の裁判権なし )

  ・これは、日本の領土の一部占領に等しく、極言すれば、「貿易通商の利益は、外国人のみに帰し、裁判では常に外国人が無罪になる。」という条約だった。

  ・世界情勢にも、国際法にも暗かった幕府の当局者には、これが後に、日本の独立と自由と、産業の発展に破壊的影響を与えることに気づかなかった。

  ・アメリカに続いて、オランダ、イギリス、ロシア、フランス、ポルトガル、ドイツ、スエーデン、ベルギー、イタリア、デンマークとも、同じ条約を結んでしまった。

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、地球儀を眺めながら、政 ( まつりごと) をしており、西洋人からの情報も得ていたので、世界情勢に暗かったというのは言い過ぎの感があります。「ねこ庭」では、武力による威嚇を受け一歩下がらざるを得なかったのだと解釈します。朝野を上げての「欧米に追いつけ、追い越せ」は、国際情勢を知っていたからの姿勢と考える方が、自然でないかと思います。ここでは異を唱えず、氏の説明を優先します。

  ・新政府は幕府を打倒したが、安政条約は、引き継がざるを得なかった。

  ・居留地の整地、道路、水道、兵営、火薬庫、病院など、建設費は全て日本側の負担だった。

  ・行政権も警察権も外国にあり、無料同様の土地の借地権と所有権は、永久の権利だった。

  ・公園、競馬場も外国人専用であり、日本人の立ち入りが禁止されていた。

 圧倒的な差がある列強の武力を前にして、屈辱の条約を結ばされた幕府も朝廷も武士も町人も、「臥薪嘗胆」の思いを共有していたと思います。

  ・横浜のみをとってみても、欧米列強の駐留軍は時には万を越え、港は彼らの鋼鉄船によって制圧されていた。

  ・現在の読者は、これを簡単な問題として考えているかもしれぬが、日本は実に56年間、厳密に言えば87年間不平等条約の支配下にあった。

  氏が87年間と言っているのは、外国人の永代借地権の撤廃がやっと昭和17年になされたことを指しています。日本が大東亜戦争に負ける、3年前のことです。昭和17年も弱肉強食の国際社会で、欧米列強がアジアを食い荒らしていたのですから、「先の戦争」を語るのなら、こうした歴史を肝に銘じなくてなりません。

 3年後の昭和20年に日本が敗戦国となり、米国から現在の日本国憲法を押し付けられました。武力で脅されながら締結させられた条約 ( 法律  ) の歴史が、敗戦後の日本で繰り返されていた事実と言ったのは、このことです。

 ご先祖が涙をこらえ血を流しながら頑張り、不平等条約の撤廃に87年間を費やしました。亡国の「日本国憲法」と知りながら、政治家は涙もこらえず血も流さず、79年間を費やしました。国政を担ってきた自由民主党の議員諸氏に送る言葉は、「不甲斐無し」の一言しかありません。

 次回は氏の「大東亜戦争肯定論」を踏まえ、「ねこ庭」で調べた事実を紹介したいと思います。

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学びの「ねこ庭」からの提案 - 5 ( 「東亜百年戦争論」 )

2024-02-02 14:06:33 | 徒然の記

  〈 林房雄氏の「東亜百年戦争論」 〉

  学生時代にはカント、ニーチェ、ヘーゲルの著書を本棚に飾り、『三太郎の日記』や『学生に与うる書』に夢中でしたから、中間小説家である林房雄氏には注目していませんでした。正直に言いますと、軽い小説を書く人物として無視していました。

 それだけに年金暮らしとなり「温故知新の読書」を始め、偶然氏の著書『大東亜戦争肯定論』を手にし、書き出しの部分を読んだ時の不思議な気持が忘れられません。

  ・私は自身にたずねる。明治大正生まれの私たちは、「長い戦争 」 の途中で生まれ、その戦争の中を生きてきたのではなかったのか。

  ・私たちが平和と思ったのは、次の戦闘のための小休止ではなかったか。徳川260年の平和が破られた時に、「長い一つの戦争」が始まり、それは昭和20年8月15日にやっと終止符を打たれた・・のではなかったか。

 敗戦後の日本が、どうして今も米国の属国に甘んじているのか、なぜ世界の除け者となり、責められ続けているのか。答えを求めていた私に、氏が幕末の日本から説き明かしてくれました。石川達三氏の「太平洋戦争を起こしたのは、明治以来の軍国主義教育が原因だ。」と言う、そんな短期間の単純な視点ではありませんでした。

 導かれるまま、秋の夜長を『大東亜戦争肯定論』と過ごし、氏の言葉を、いつかブログを読んでくれる息子や孫たちに残したいと考えるようになりました。日本を思う気持が伝わると、氏を軽視してきた自分を反省させられました。

 氏は先ず、京大名誉教授の上山春平氏の「三っの史観」について語りました。

  ・上山春平氏によれば、敗戦後の日本人は、」「アメリカの立場からの太平洋戦争史観」「ソ連の立場からの帝国主義戦争史観」「中共の立場からの抗日戦争史観」を、次々に学習させられて来たそうである。

  ・確かにそうであった。あの戦争は、アメリカに従えば、「デモクラシーのファシズムに対する勝利」であり、ソ連に従えば、「米英帝国主義対日独帝国主義の衝突」であり、中共に従えば、「日本帝国主義による中国侵略の惨めな挫折」である。

  ・が、いずれにせよ、上山氏は、この状況を次のように述べている。

   「あの戦争をこれほど主体的に、これほど多元的角度から反省する機会を持った国民が、他にあるだろうか。」

   「こうした独自な国民的体験を、私はかけがえなく貴重なものと思う。」 

 林氏は上山氏の言う「独自な国民的体験」の上に立ち、日本人自身の「大東亜戦争史観」を築く時が来ていると述べ、ここで主張していたのが、「東亜百年戦争」という考え方でした。

 つまり「大東亜戦争は、東亜百年戦争の一部であり、終局でもあった。」という捉え方です。予想しない思考方式だったため戸惑いましたが、謎解きにも似た氏の説明には、知らずに引き込まれる真摯さがありました。

  ・では、その百年戦争はいつ始まったのか。さかのぼれば、当然明治維新に行き当たる。

  ・が、明治元年では、まだ足りない。それは維新の約20年前に始まったと、私は考える。

  ・薩英戦争も下関戦争も、その一部であり、開始はもっと以前だと考える。

  ・米国海将ペルリの日本訪問は嘉永6年、1853年の3月だ。明治元年からさかのぼれば、15年前である。それが始まりか。いや、もっと前だ。

  ・オランダ、ポルトガル以外の外国船の日本近海出没の時期は、ペルリ来航の更に7年以上さかのぼる。それが急激に数を増したのは、弘化年間だ。

  ・国史大年表によって、弘化元年から嘉永6年までの外国船と、海防関係の記事を拾ってみると、実に80件以上に上る。

   (「ねこ庭」 注 :  弘化元年・・1844年  嘉永6年・・1853年   ) 

 日本の自衛戦争の始まりは幕末の頃、列強がアジアの後進国を武力で植民地化していた時ではないかと、なんとなく考えていましたので、氏の意見とは「当たらずとも遠からじ」でした。

   太平の 眠りを覚ます 蒸気船

     たった四杯で 夜も眠れず

 ペルリ来航時の朝野の騒ぎを詠んだ狂歌として、日本史の時間に習いました。氏の説明では、その7年前から外国船が日本近海に現れ、幕府・朝廷のみならず、在野の学者、武士階級の間に深刻な影響を与えていたと言います。東京湾をはじめ、日本沿岸各地の砲台も、この頃から次々築造されました。

 水戸斉昭や藤田東湖の「攘夷論」、平田篤胤の「日本神国論」が生まれ、抗戦イデオロギーが発生したと氏が説明します。人物名と書名は受験勉強のため丸暗記していましたが、肝心の中身を知らない自分でした。

 歴史の出来事を学校で教わりましたが、中身が省かれた空っぽの知識だと知った時の驚きは、衝撃という言葉の方が相応しいのかもしれません。別の言葉で言えば、正確な歴史を教えない国への不信感・・だった気がします。氏の書を読みながら、どうしてこうなったのかと新たな疑問が生じました。今もそんな空っぽの歴史を教えられてきた息子たちのため、二つの実例(「神奈川条約」と「安政条約」)を紹介します。

  ・安政元 ( 1854 )年に、幕府はペルリ ( ぺリー ) との間で「神奈川条約」を結んだ

  ・その4年後の安政5 ( 1856 ) 年、ハリスとの間で「神奈川条約」を改定し、「安政条約」を結んだ。

   ( 「ねこ庭」注 :  弘化元年と安政元年は諸事情あり、共に2ヶ月で改元されている。)  

  ・これによって日本は長年の鎖国を解き、近代国家への道を開いた。

 元水戸藩士17名と薩摩藩士1名が大老井伊直弼を殺害し、これが「桜田門の変」であると、事件の概要は歴史の時間に習いましたが、なぜ水戸の浪士たちが大老を暗殺したのか、肝心の中身 ( 屈辱の歴史 ) は教わりませんでした。著書の中から、氏の説明を紹介します。

  ・安政元年の神奈川条約は、ペルリの黒船艦隊の脅迫によって締結された。

  ・もとより、日本の利益をまったく無視した、不平等条約だった。

  ・この不平等条約をさらに完全にしたのが、安政5年の安政条約である。

  ・ハリスは、清国と交戦中の英仏東洋艦隊50隻が幕府を攻めるであろうと脅し、日米修好通商条約という美名のもとに、次のような重要項目を内容とする、一方的条約を押し付けた。

 米国と日本が対等の立場で話し合い、納得した上での条約調印だったように教科書が教えましたが、事実は武力と脅迫によって結ばされた条約でした。圧倒的な武力に逆らえば幕府が打ち負かされると妥協した井伊直弼と、屈辱の条約を許せなかった水戸浪士と薩摩藩士の怒りを知れば、事実は違った色彩を生徒たちに与えます。

 大老と浪士たちの命をかけた戦いの根底にあったのは、幕藩体制の当時にはなかった言葉かもしれませんが、「愛国心」でした。双方が「国」のために対立し、双方が米国の武力外交に怒りと屈辱を抱いていたと、この事実を知らなかった私は、林氏の説明に衝撃を受けました。

 次回は、武力で脅されながら締結させられた条約 ( 法律  ) の歴史が、敗戦後の日本で繰り返されていた事実を、氏の説明を中心として紹介します。

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