ねこ庭の独り言

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学びの「ねこ庭」からの提案 - 10 ( 昭和天皇の「お言葉」 )

2024-02-05 09:41:24 | 徒然の記

 〈 天皇陛下と日本の政治家・軍人は、戦争責任を取っていない 〉

   1.  昭和天皇の「お言葉」   2.  東条英機首相の「言葉」

 「ポツダム宣言」を受け、当時の政府がどのように動いたかを時事ドットコムニュースが、どう言う偶然なのか令和6年2月4日に次のように解説していました。

  ・昭和20年7月26日、米英中3国首脳による日本への無条件降伏勧告「ポツダム宣言」が発せられた。

  ・日本政府はこれを黙殺しようとしたが、広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原爆投下、ソ連対日参戦(8月9日)などに追い詰められ、8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、連合国側に通告した。

  ・この事実は、15日正午の玉音放送で国民に伝えられた。太平洋戦争の人的被害は正確に分かっていないが、日本では民間人も含めておよそ250万人が死亡し、アジア諸国での死者は1,800万人に上ると推定されている

 同社が何のため今の時期に、こんな記事を発信しているのか不思議ですが、ここでも肝心の事実が省かれています。鈴木首相が何も考えず、「ポツダム宣言を無視する」と放言したため、広島・長崎の原爆投下がされたように読めてしまいます。

 ウィキペディアの説明と比較すると、その違いが分かります。

  ・当時の鈴木貫太郎首相は、軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたいという、昭和天皇の御希望を知っており、77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くしていた。

 なぜすぐに回答が出せなかったのか、閣議で結論がまとまらなかったのか。それは「宣言文」を読めば分かるとおり、天皇に関する記述が無かったからでした。天皇陛下がどのようになるかが分からないため、閣議は徹底抗戦、条件付き受諾と揉め続けていました。

 現在公表されている米国側の資料によりますと、広島・長崎への原爆投下は、「ポツダム宣言」への回答の有無に関わらず米国の投下計画で実行されたことが判明しています。時事通信社と共同通信社は元は一つの会社だったものが、経営方針の違いで2つに分かれたと聞いています。共同通信社は「トロイの木馬」ですから、時事通信社も同じ反日なのかもしれません。

 ウィキペディアの方が、正確に事実を伝えている気がしますので、もう少し紹介します。

  ・8月6日の広島市への原子爆弾投下、9日のソ連対日参戦と長崎市への原子爆弾投下、15日の終戦に至る間、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を、衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。

 緊迫した状況を伝えるため、富田健治氏著『敗戦日本の内側』の記述を紹介します。

   ・これから日本の運命を決める天皇臨席の最高戦争指導会議、すなわち御前会議が始まるのだ。
 
   ・出席するのは鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾(これちか)陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武(そえむ)軍令部総長の6人と、鈴木の意向で加わった枢密院議長の平沼騏一郎。
 
   ・ポツダム宣言の受諾について、閣議では結論が出なかった。首相ほか15名の大臣のうち、12名は受諾しても良いという意見
 
   ・しかし、阿南陸相、安倍内相、松坂法相の3名は、むしろ玉砕論を唱えたのである。こうして8月14日に陛下の下命を願いつつ、御前会議が、開かれることとなった。
 
 ここで富田氏が、陛下のお言葉を紹介しています。
 
  「ポツダム宣言につき、天皇統治権に対し、疑問があるように解する向きもあるが、私はあれでよろしいと思う。」
 
  「私の決心は、私自らの熟慮検討の結果であって、他から知恵をつけられたものでない。」
 
  「皇土と国民がある限り、将来の国家生成の根幹は十分であるが、この上望みのない戦争を続けるのは、全部を失う惧れが多い。」
 
  「股肱と頼んだ軍人から武器を取り上げ、私の信頼したものを、戦争犯罪人として差し出すことは、情においてまことに忍びない。」
 
  「幾多の戦死者、傷病者、遺家族、戦災国民の身の上を思えば、これからの苦労も偲ばれ、同情に耐えない。」
 
  「三国干渉の時の、明治大帝のご決断に習い、かく決心したのである。」「陸軍の武装解除の苦衷は、十分分かる。」
 
  「事ここに至っては、国家を救う道は、ただこれしかないと考えるから、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、この決心をしたのである。」
 
  「今まで何も聞いていない、国民が、突然この決定を聞いたら、さぞかし動揺するであろうから、詔勅でも何でも、用意してもらいたい。」「あらゆる手を尽くす。ラジオ放送もやる。」
 
 陛下は純白の手袋をはめられた手で、メガネを拭かれ、頬に伝う涙を拭われたと書かれています。陛下のご決断により、「ポツダム宣言受諾」という国家的決断が下されたと、氏が述べています。昭和天皇を独裁者ヒトラーと並べて語る反日の学者がいますが、陛下の「お言葉」から見えるのは、古来からの日本の天皇のお姿です。
 
 「トロイの木馬」の反日マスコミが、「天皇の政治責任」を盛んに言いますが、陛下の「お言葉」を多くの国民が知ったら、そう言う愚かしい意見に賛成しないのではないでしょうか。
 
 すでに知っている人もいると思いますが、津島一夫氏著『マッカーサー回想記』から、もう一つ、昭和天皇のお言葉を紹介します。天皇が初めて自らマッカーサー元帥を訪ねられた時、待っていた元帥の言葉から始まります。
 
 「しかし私の不安は、根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。」
 
 元帥が不安に思っていたのは、天皇が命乞いにこられたのではないかと言うことでしたから、迂闊に返事ができないと構えていました。
 
 次が有名な元帥の叙述で、知る人には人に知られている陛下の「お言葉」です。
 
 「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治・軍事両面で行った、全ての決定と行動に関する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした。」
 
 次の文章もまた、多くの人に知られる元帥の言葉だろうと思います。
 
 「私は、大きな感動に揺すぶられた。」「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、天皇に帰すべきでない責任を受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。」
 
 「私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士であることを、感じ取ったのである。」
 
 反日左翼の学者の中には、『マッカーサー回想記』に書かれたこの言葉は、元帥の作文ではないかと疑う者がいます。ある時戦後の記者会見で、この件に関する記者の質問に対し、「マッカーサーとの約束だから。」と、お答えにならなかったことを記憶しています。
 
 もしかすると反日左翼学者は、このインタビューを見て作文の邪推をしたのかもしれません。相撲好きの陛下が、記者に贔屓の力士名を質問された時、自分がそれを言うといろいろと差し障りがあるのでと答えられませんでした。つまり陛下はご自分のお言葉が、世間に伝わると様々な受け取られ方をすることを肝に銘じておられ、個人の意見を軽々しく語られない方でした。
 
 マッカーサー元帥との会見は、国を背負った人間同士の真剣な対話で、口外しないと言う暗黙の了解の上で行われたものです。高齢化した元帥が晩年を陸軍病院で過ごしていた時、日本の記者が訪ねて、「憲法制定時」の話を聞こうとしたことがありました。時効だから話してくれるのではと期待していたのかもしれませんが、元帥は話をはぐらかせて答えませんでした。
 
 国のトップに立つ指導者は軽々しく喋らないのだと言うことを、陛下と元帥に教えられた私は、『マッカーサー回想記』について疑うことをいたしません。国内の反日勢力の人間たちが「戦争責任」と言う言葉を口にする時、常に「最後の御前会議」と「陛下と元帥の会見」を思い出します。
 
 「陛下は、国民のため命を捨て、元帥との会談に臨まれた。」
 「元帥は、陛下のお気持ちを理解した。」
 
 息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に言います。「東亜百年戦争」を知る日本国民には、反日左翼勢力が一方的に主張する「戦争責任」と言う言葉は存在しません。
 
   1.  昭和天皇の「お言葉」   2.  東条英機首相の「言葉」

 以上で昭和天皇の「お言葉」の紹介を終わり、次回は東条英機首相の「言葉」です。

コメント (2)
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