田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

雨後の筍

2007-07-04 22:37:52 | Weblog
7月4日 水曜日
●PCを笈のごとく背負って街にでる。
巷は雨。今日はパソコン教室までカミサンと街を歩ける日。お互いに同じ空間―家で生活しているのに忙しすぎて散歩を楽しむことができない。家の中ですれちがっても挨拶をかわすことができないほど忙しい。カミサンがである。小さな体で階段をとんとんと駆け登る。二階の庇の下に洗濯物を干す。二階の植木鉢に水をやる。二階を掃除する。「しょうがない。しょうがない」とは、どこかの大臣ではないから、いわない。「平屋のほうがよかったのに」と、弱音を吐くようなカミサンではない。
●さて、街は小糠雨。わかい時なら「春雨じゃ、濡れていこう」というくらいの雨だ。わたしは、カミサンのお供をして街をいい気分で歩いていた。「たっぱがちがうべや」と街の建築現場の作業員がかけ声をかけてくれる。わたしは手を挙げて挨拶する。カミサンは小柄だ。わたしは大きい。背がずいぶん違いますね。でも、仲良さそうですよ。そう冷やかされたとわたしは解釈する。そう解釈すれば、楽しい。
●相合傘で歩いてみようかな。
●雨後の筍。いつの頃であったか、床の間に下から筍が伸びてきた。そのままにしておいた。床の間に花を生ける手間が省けるじゃないか。筍は竹に成長した。天井までとどいた。木の枝を剪定するのは嫌い。植物はすべて伸びるに任せる。ものをすてるのはいや。もったいない。床の間の竹を観ながら、風流ここに極まれり。と嘯いていたのもわかかつたからだ。今では、逆転。剪定鋏の音は毎日庭で鳴り響いている。新聞は一週間で出されてしまう。そのうち、わたしも粗大ゴミとして処理されないようにしなければ。雨後の筍の成長を眺めながら、日増しに年ごとに強くなっていくカミサンをじっとみつめたものだ。


あらくれをかく

2007-07-04 00:45:42 | Weblog
7月3日 火曜日
●いかにも梅雨時らしい天気だった。降っているかと思うと止んでいる。買い物にでもでかけようとカミサンと相談しているうちにまた小糠雨が降りだしていた。
仏壇のある部屋の掘りごたつが臭った。掛け布団が湿気を含んだのだ。塔のように積み上げた本を寄せた。毎年いまごろの年中行事みたいなものだ。これで梅雨が明ければ夏が来る。梅雨もいままさに半ば過ぎた。夏の間は、西の隅の部屋で原稿を書くことになる。毎年夏バテで思うように原稿が書けていない。今年こそ、健康に配慮してがんばりたいものだ。
●6月30日のブログで小糠、唐箕にかかわる語彙について書いた。好評だったので、さらに追加します。
●馬鍬。まんが。まぐわ。角川の国語中辞典よると。わが国在来の畜力用の鍬。牛馬に引かせ、水田中を縦横にかき、土塊を細かく砕き、表面をならし、あるいは同時に堆肥・緑肥などをすき込むのに用いる。ということだ。畜力用でないのもある。わたしの地方では「ふりまんが」といい横に長い鍬の両端にロープを付けて二人かがりで振るものもある。でも、わたしがここで書きたいのは馬鍬のことではない。
●あらくれをかく。春耕のとき、冬の間凍てつき固くなった土を馬鍬で細かく砕くこと。わたしが、書きたいのは「あらくれをかく」を人の心の頑なさを砕いてならすのに、転用していることについてだ。昔は農協の力も弱かった。農作物は仲買が買いだした。頑なでなかなか売ろうとしない農民を説得して売る気分にすることを「あらくれをかく」といった。せっかく、あらくれかいたのに他の仲買いに買われてしまうと。「おれがよ、あらくれかいたのに、ほかやつに買われちまった。あらくれのかきぞんだっぺや」ということになる。
●ネオンの光が水たまりに象嵌されていた。と書いて、編集長に大目玉をくったことがある。ネオンが水たまりに映っていた。どうして、そう書かないのか。
いまであつたら、素直に非を認められる。わたしが悪い。
●でもGGだ。また頑な心にならないともかぎらない。心の表面を穏やかにならして
おくことだ。たえず、「わが心のあらくれをかけ」座右銘としている。