五月の薫風にのって。
バラ園からは。
かぐわしい芳香がただよってきた。
ここは神代植物園だ。
彼女はまだこない。
「五月の第一金曜日に会いましょう」
そう……デートの日を決めていたのに。
彼女は現れない。
どうしてきてくれないのだろう。
もう少し待てば彼女は長い黒髪を風になびかせて颯爽と現れるはずだ。
温室の方角から来るだろうか。
藤棚の方からかな?
ああ、早く会いたい。
彼女とは二月ほど前にいちど会ったきりだった。
彼女はバラ園を眺めていた。
白いワンピースに真紅の細いベルトをしていた。
その後ろ姿を見ただけで彼の胸はサザナミをたててふるえた。
動悸がたかなるのを覚えた。
ヴイルヘルム・ハンマースホイの描いた女性。
後ろ姿のイーダ。
あの哀愁ある立ち姿だった。
襟足にほつれた髪が風にかすかにそよいでいた。
細い襟首から肩にかけてのカーブが。
しんなりとしていかにも女性的だった。
贅肉がまったくついていない。
若やいだ肩の稜線だった。
雨後のドラム缶。その上にできた狭小の池。
ハンマーでドラム缶の脇を叩く。
小さな池はこれまた小さなサザナミをたてて波頭がキラキラきらめいている。
ハンマースホイの女性を思い浮かべた。
音声による連想がハンマーにつながった。
空想のなかのハンマーがドラム缶を叩いた。
そして……かれの胸はその衝撃にふるえる。
どきどきする胸の鼓動をおさえる。
おもいきって声をかけた。
静寂をみだすことを恐れながら……。
「ばらの季節にきたらもっときれいでしょうね」
ふいに話しかけられて彼女はおどろいたようにふりかえった。
黒い瞳。
肌がきめ細かく白い。
頬をそめている。
「どんなバラがお好きですか」
澄んだよくとおる爽やかな声。
無視されるとおもっていた。
返事をしてもらえるとは期待していなかった。
「アイスバーグ。白い花がぼくはすきです」
「わたしもよ。小さなアパートのベランダで白いバラの鉢植えをそだてるのが夢なの」
会話がはずみ、いつしか二人は花にはまだ間のあるばら園の小道を歩いていた。
「ぼくは大きなバラ園を経営して毎日バラと話しながら過ごしたい。……そしてそこにあなたがいてくれたら」
もちろん会ったばかりの彼女に後のことばはいえなかった。
彼は見栄をはることはなかった。
彼女は裕福な家庭に育ち、逆シンデレラ願望にとらわれていた。
ビンボーな生活に憧れていたのだから。
彼は恵まれた生活をしているふりなどしないほうがよかったのだ。
細々としたパートタイムワークで食いつなぎ。
アパートの家賃をかろうじて払っている。
とイエバヨカッタのだ。
バラ園を作るのは誇張ではなく彼の夢だった。
でも、ぼくはようやくバラを捧げられるひとに会えました。
そういえば、よかったのだろうか。
とてもキザっぽくてそんなことはいえなかった。
でも、そういったからといって。
彼女は好意こそもち、彼を軽蔑するようなことはなかったろう。
彼の貧困生活こそ彼女の理想だったのに。
昼間でも部屋の中には。
薄っすらと闇がとどこうっているようなアパートで。
明るく夫を支えて健気な妻として生きること。
それが彼女のねがいだった。
裕福ではあるが父と母のように。
夫婦の間に距離のある家庭で生きることは――。
いやだった。
彼のはなしをきいているうちに彼女は少し落胆した。
でもなにかほのぼのとした心になっている。
だからもういちど会いましょうという彼のもうしでを。
拒むわけにはいかなかった。
いや、むしろ五月になるのを楽しみにているじぶんにおどろいていた。
でも家に帰った彼女をいやなサプライズがまっていた。
父が取引先の銀行の頭取の息子との結婚を独断できめてしまっていた。
「先方では……ニューヨークに転勤だ。おまえを連れて行きたいといっている」
「新婚生活をアメリカですごせるなんてうらやましいこと」
バラが見事に開花していた。
純白のアイスバーグも咲いている。
シティオブヨークのクリームがかった白い花弁も美しい。
彼はいま、彼女が。
ニューヨークで。
新婚生活をしていることを知らない。
彼女の面影を追い求めながら彼は待っていた。
彼女ははまだこない。
ああ会いたい。
彼女に会いたい。
名前すら聞きはぐった彼女。
たった一度しか会っていない彼女。
会いたい。
話したい。
ばらの話をしたい。
愛している。
一目でもいいから会いたい。
もういちどだけ。
もういちどだけ。
もういちどだけでもいいから。
会いたい。
会って話がしたい。
そうすれば。
そうできければ。
……イツシンダッテいい。
死ぬことなんか。
怖くない。
彼女に会えないほうが怖い。
死にたいほど……。
怖い。
あなたのことは昔から知っていたような気がする。
あなたのことをおもっているとこう胸のあたりがほのぼのとしてくる。
前世から知っていたのかもしれない。
愛している。
交際してください。
そしてぼくがきらいでなかったら結婚してください。
いまは、ビンボーだけれども。
あなたのために。
あなたをしあわせにするためなら。
粉骨砕身。
毎日一生懸命に働きます。
そう正直に告白する。
あなたのいない人生なんて。
かんがえられません。
ふたりでバラ園をつくりませんか。
ばらの花々にとりかこまれた家で。
あなたとぼくの子どもを育てませんか。
彼女はまだこない。
あなたにひとことだけ好きですと伝えたい。
それだけでもいい。
あなたのことを。
いちどだけしか会っていないあなたのことを。
死ぬほど好きな男がここにいます。
それだけでもいい。
それだけでもいいから彼女に伝えたい。
会いたい。
それからというもの、毎年五月の第一金曜日になると彼はバラ園にやってきた。
さいきんでは、記憶もあいまいになった。
五月でなくても一週目の金曜日には……。
いや体さえ許せば毎週、金曜日には。
いつも彼女の姿を求めてバラ園にきていた。
あれからも……ごく稀にであったが。
気立ての優しい女の子が彼の前にあらわれた。
心の優しい女の子が彼に声をかけることがあった。
「どうしてなの。どうしていつも独りでいるの」
「だれか好きなひとがいるの? わたしではだめなの」
そのつど、その女の子たちを彼はやりすごした。
そう、彼には待ちつづけている彼女がいた。
永遠の片思い――。
いちどだけ会った。
いちどだけこのバラ園の小道をあるきながら……。
会話をかわした彼女のことが忘れられずにいる。
彼は彼女をおもうことで……。
いつかかならずまた彼女に会える。
……というおもいがあった。
それを頼りに、人生の苦難をのりきることができた。
この歳まで生きてこられたのは、彼女との再会を夢みていたからだ……。
胸のおもいを彼女につたえたいという希望をもつことで……。
生きてこられたのだ。
彼女の姿はもう見られないかもしれたい。
……でも、彼女をおもうこころはかわらない。
姿は見ることができなくても。
彼女のイメージは消えることはない。
毎年、バラ園にばらが咲いている限り……。
彼女のことはわすれない。
彼女のことをおもいつづける。
「春になったら、あのヘンスに咲き乱れる蔓バラを見にきませんか」
だれかとそんな約束をしたような記憶がこころの隅にひっかかっている。
それほどの時間が過ぎてしまった。
それは誤って刺してしまったバラの棘のようにちくちくと記憶を刺激するのだった。
「そうね。『思いでベンチ』であいましょう」
彼と彼女の座ったベンチの背には。
そんな言葉が書かれていた。
ベンチにはそれぞれロマンチックな名前がついていた。
「思いでベンチであいましょう」
彼女はそう応えてくれたような気がする。
彼には遠い記憶の美化がはじまっていた。
来る年も、来る月も。
ほとんど毎日のように。
彼は彼女との再会を夢見てバラ園にかよいつめた。
彼女と過したあの一瞬のきらめきを。
もういちどだけでもいいから。
感じたかった。
彼女はマインド・バンパイァだったのかもしれない。
彼女をひとめ見たものは。
そのイメージが網膜にやきつき。
もう忘れられなくなる。
彼女にかしずき、彼女のよろこびが彼のよろこびとなる。
彼女のためならなんでもしてやりたい。
そのこころの高揚がさらに彼をよろこばせる。
ほかの女の子と知り合いたいとはおもわなかった。
それは熱烈なロゼリアンが。
自分だけの――。
世界でたったひとつのバラを。
つくりだそうという情熱に似ていた。
じぶんだけが初めて出会う。
このバラはわたしだけのものだという心情。
しかし、彼には彼女と再び会うチャンスは訪れなかった。
どんなに愛していても、会えない彼女をおもっていた。
彼女を待ちわびて、年月だけがとぶように過ぎていった。
ふいに何に驚いたのか鳩が。
羽音も高くとびたった。
少女がこちらに向かって走ってくる。
彼はうっとりと眺めていた。
ああ、やっと彼女に会えた。
彼女がきてくれた。
待っていてよかった。
あきらめないでよかった。
彼女がぼくに会いにきてくれた。
忘れたわけではなかったのだ。
待っていてよかった
「おかあさん」
少女が彼を抜けて走りさっていく。
少女が彼の体の中を通っていった。
彼はじぶんが透明な存在になっているのに気づいていない。
そのかなたに。
年老いた女性が。
バラのほほ笑みで。
こちらを見ている。
彼女は彼には気づかなかった。
だが、かれは走り去っていく少女の顔を。
老婆に重ねた。
年老いた彼女は……。
遠い昔……。
このバラ園で……。
ひとりの少年に会ったような記憶があった。
また……このバラ園で会う約束をした記憶があった。
バラの花壇にはシティオブヨークが咲いていた。
白いアイスバークが咲いていた。
彼女は40年におよぶニューヨークでの生活を。
かえりみていた。
もうひとつの、ほかの生活もあった。
それがどんな選択肢だったのか。
もうおもいだせない。
白いバラの花々。
とおいおもいでのなかに……。
薄れていくおもいでのなかで。
……だれかと……。
再会を約束しているわたし。
……だれと?
……。
どんな約束をしたの……。
いい顔しているな。
まるで初恋の彼女に会ったような顔をしている。
冷たくなっている老人の枕もと……。
といっても……、ベンチなので枕などあるわけがない。
一茎の白いバラが彼によりそっていた。
朝の光のなかで芳香をはなっていた。
アイスバーク
pictured by 「猫と亭主とわたし」
星の砂に載せたものを改訂しました。
バラ園からは。
かぐわしい芳香がただよってきた。
ここは神代植物園だ。
彼女はまだこない。
「五月の第一金曜日に会いましょう」
そう……デートの日を決めていたのに。
彼女は現れない。
どうしてきてくれないのだろう。
もう少し待てば彼女は長い黒髪を風になびかせて颯爽と現れるはずだ。
温室の方角から来るだろうか。
藤棚の方からかな?
ああ、早く会いたい。
彼女とは二月ほど前にいちど会ったきりだった。
彼女はバラ園を眺めていた。
白いワンピースに真紅の細いベルトをしていた。
その後ろ姿を見ただけで彼の胸はサザナミをたててふるえた。
動悸がたかなるのを覚えた。
ヴイルヘルム・ハンマースホイの描いた女性。
後ろ姿のイーダ。
あの哀愁ある立ち姿だった。
襟足にほつれた髪が風にかすかにそよいでいた。
細い襟首から肩にかけてのカーブが。
しんなりとしていかにも女性的だった。
贅肉がまったくついていない。
若やいだ肩の稜線だった。
雨後のドラム缶。その上にできた狭小の池。
ハンマーでドラム缶の脇を叩く。
小さな池はこれまた小さなサザナミをたてて波頭がキラキラきらめいている。
ハンマースホイの女性を思い浮かべた。
音声による連想がハンマーにつながった。
空想のなかのハンマーがドラム缶を叩いた。
そして……かれの胸はその衝撃にふるえる。
どきどきする胸の鼓動をおさえる。
おもいきって声をかけた。
静寂をみだすことを恐れながら……。
「ばらの季節にきたらもっときれいでしょうね」
ふいに話しかけられて彼女はおどろいたようにふりかえった。
黒い瞳。
肌がきめ細かく白い。
頬をそめている。
「どんなバラがお好きですか」
澄んだよくとおる爽やかな声。
無視されるとおもっていた。
返事をしてもらえるとは期待していなかった。
「アイスバーグ。白い花がぼくはすきです」
「わたしもよ。小さなアパートのベランダで白いバラの鉢植えをそだてるのが夢なの」
会話がはずみ、いつしか二人は花にはまだ間のあるばら園の小道を歩いていた。
「ぼくは大きなバラ園を経営して毎日バラと話しながら過ごしたい。……そしてそこにあなたがいてくれたら」
もちろん会ったばかりの彼女に後のことばはいえなかった。
彼は見栄をはることはなかった。
彼女は裕福な家庭に育ち、逆シンデレラ願望にとらわれていた。
ビンボーな生活に憧れていたのだから。
彼は恵まれた生活をしているふりなどしないほうがよかったのだ。
細々としたパートタイムワークで食いつなぎ。
アパートの家賃をかろうじて払っている。
とイエバヨカッタのだ。
バラ園を作るのは誇張ではなく彼の夢だった。
でも、ぼくはようやくバラを捧げられるひとに会えました。
そういえば、よかったのだろうか。
とてもキザっぽくてそんなことはいえなかった。
でも、そういったからといって。
彼女は好意こそもち、彼を軽蔑するようなことはなかったろう。
彼の貧困生活こそ彼女の理想だったのに。
昼間でも部屋の中には。
薄っすらと闇がとどこうっているようなアパートで。
明るく夫を支えて健気な妻として生きること。
それが彼女のねがいだった。
裕福ではあるが父と母のように。
夫婦の間に距離のある家庭で生きることは――。
いやだった。
彼のはなしをきいているうちに彼女は少し落胆した。
でもなにかほのぼのとした心になっている。
だからもういちど会いましょうという彼のもうしでを。
拒むわけにはいかなかった。
いや、むしろ五月になるのを楽しみにているじぶんにおどろいていた。
でも家に帰った彼女をいやなサプライズがまっていた。
父が取引先の銀行の頭取の息子との結婚を独断できめてしまっていた。
「先方では……ニューヨークに転勤だ。おまえを連れて行きたいといっている」
「新婚生活をアメリカですごせるなんてうらやましいこと」
バラが見事に開花していた。
純白のアイスバーグも咲いている。
シティオブヨークのクリームがかった白い花弁も美しい。
彼はいま、彼女が。
ニューヨークで。
新婚生活をしていることを知らない。
彼女の面影を追い求めながら彼は待っていた。
彼女ははまだこない。
ああ会いたい。
彼女に会いたい。
名前すら聞きはぐった彼女。
たった一度しか会っていない彼女。
会いたい。
話したい。
ばらの話をしたい。
愛している。
一目でもいいから会いたい。
もういちどだけ。
もういちどだけ。
もういちどだけでもいいから。
会いたい。
会って話がしたい。
そうすれば。
そうできければ。
……イツシンダッテいい。
死ぬことなんか。
怖くない。
彼女に会えないほうが怖い。
死にたいほど……。
怖い。
あなたのことは昔から知っていたような気がする。
あなたのことをおもっているとこう胸のあたりがほのぼのとしてくる。
前世から知っていたのかもしれない。
愛している。
交際してください。
そしてぼくがきらいでなかったら結婚してください。
いまは、ビンボーだけれども。
あなたのために。
あなたをしあわせにするためなら。
粉骨砕身。
毎日一生懸命に働きます。
そう正直に告白する。
あなたのいない人生なんて。
かんがえられません。
ふたりでバラ園をつくりませんか。
ばらの花々にとりかこまれた家で。
あなたとぼくの子どもを育てませんか。
彼女はまだこない。
あなたにひとことだけ好きですと伝えたい。
それだけでもいい。
あなたのことを。
いちどだけしか会っていないあなたのことを。
死ぬほど好きな男がここにいます。
それだけでもいい。
それだけでもいいから彼女に伝えたい。
会いたい。
それからというもの、毎年五月の第一金曜日になると彼はバラ園にやってきた。
さいきんでは、記憶もあいまいになった。
五月でなくても一週目の金曜日には……。
いや体さえ許せば毎週、金曜日には。
いつも彼女の姿を求めてバラ園にきていた。
あれからも……ごく稀にであったが。
気立ての優しい女の子が彼の前にあらわれた。
心の優しい女の子が彼に声をかけることがあった。
「どうしてなの。どうしていつも独りでいるの」
「だれか好きなひとがいるの? わたしではだめなの」
そのつど、その女の子たちを彼はやりすごした。
そう、彼には待ちつづけている彼女がいた。
永遠の片思い――。
いちどだけ会った。
いちどだけこのバラ園の小道をあるきながら……。
会話をかわした彼女のことが忘れられずにいる。
彼は彼女をおもうことで……。
いつかかならずまた彼女に会える。
……というおもいがあった。
それを頼りに、人生の苦難をのりきることができた。
この歳まで生きてこられたのは、彼女との再会を夢みていたからだ……。
胸のおもいを彼女につたえたいという希望をもつことで……。
生きてこられたのだ。
彼女の姿はもう見られないかもしれたい。
……でも、彼女をおもうこころはかわらない。
姿は見ることができなくても。
彼女のイメージは消えることはない。
毎年、バラ園にばらが咲いている限り……。
彼女のことはわすれない。
彼女のことをおもいつづける。
「春になったら、あのヘンスに咲き乱れる蔓バラを見にきませんか」
だれかとそんな約束をしたような記憶がこころの隅にひっかかっている。
それほどの時間が過ぎてしまった。
それは誤って刺してしまったバラの棘のようにちくちくと記憶を刺激するのだった。
「そうね。『思いでベンチ』であいましょう」
彼と彼女の座ったベンチの背には。
そんな言葉が書かれていた。
ベンチにはそれぞれロマンチックな名前がついていた。
「思いでベンチであいましょう」
彼女はそう応えてくれたような気がする。
彼には遠い記憶の美化がはじまっていた。
来る年も、来る月も。
ほとんど毎日のように。
彼は彼女との再会を夢見てバラ園にかよいつめた。
彼女と過したあの一瞬のきらめきを。
もういちどだけでもいいから。
感じたかった。
彼女はマインド・バンパイァだったのかもしれない。
彼女をひとめ見たものは。
そのイメージが網膜にやきつき。
もう忘れられなくなる。
彼女にかしずき、彼女のよろこびが彼のよろこびとなる。
彼女のためならなんでもしてやりたい。
そのこころの高揚がさらに彼をよろこばせる。
ほかの女の子と知り合いたいとはおもわなかった。
それは熱烈なロゼリアンが。
自分だけの――。
世界でたったひとつのバラを。
つくりだそうという情熱に似ていた。
じぶんだけが初めて出会う。
このバラはわたしだけのものだという心情。
しかし、彼には彼女と再び会うチャンスは訪れなかった。
どんなに愛していても、会えない彼女をおもっていた。
彼女を待ちわびて、年月だけがとぶように過ぎていった。
ふいに何に驚いたのか鳩が。
羽音も高くとびたった。
少女がこちらに向かって走ってくる。
彼はうっとりと眺めていた。
ああ、やっと彼女に会えた。
彼女がきてくれた。
待っていてよかった。
あきらめないでよかった。
彼女がぼくに会いにきてくれた。
忘れたわけではなかったのだ。
待っていてよかった
「おかあさん」
少女が彼を抜けて走りさっていく。
少女が彼の体の中を通っていった。
彼はじぶんが透明な存在になっているのに気づいていない。
そのかなたに。
年老いた女性が。
バラのほほ笑みで。
こちらを見ている。
彼女は彼には気づかなかった。
だが、かれは走り去っていく少女の顔を。
老婆に重ねた。
年老いた彼女は……。
遠い昔……。
このバラ園で……。
ひとりの少年に会ったような記憶があった。
また……このバラ園で会う約束をした記憶があった。
バラの花壇にはシティオブヨークが咲いていた。
白いアイスバークが咲いていた。
彼女は40年におよぶニューヨークでの生活を。
かえりみていた。
もうひとつの、ほかの生活もあった。
それがどんな選択肢だったのか。
もうおもいだせない。
白いバラの花々。
とおいおもいでのなかに……。
薄れていくおもいでのなかで。
……だれかと……。
再会を約束しているわたし。
……だれと?
……。
どんな約束をしたの……。
いい顔しているな。
まるで初恋の彼女に会ったような顔をしている。
冷たくなっている老人の枕もと……。
といっても……、ベンチなので枕などあるわけがない。
一茎の白いバラが彼によりそっていた。
朝の光のなかで芳香をはなっていた。
アイスバーク
pictured by 「猫と亭主とわたし」
星の砂に載せたものを改訂しました。