日々 是 変化ナリ ~ DAYS OF STRUGGLE ~
このプラットフォーム上で思いついた企画を実行、仮説・検証を行う場。基本ロジック=整理・ソートすることで面白さが増大・拡大
 



タイトルでぐっとつかまれ、手に取ってみた。
前書きでもスタジアムで「見る」スポーツがメディアを介して「視る」環境になりスポーツが変わった、というような記述があったのでまた期待が高まった。


だが結論からいうと、作者が最後に謝っているように?「想いに突き動かされてきたことを、今回こうして一冊の本に纏めたに過ぎない」レベル。
まず第1部でいきなりげんなりさせられる。
ジェンダー論をえんえん展開し、男・女・ホモセクショナルといったような内容が続く。
そして締めはシドニー女子マラソンをテーマとした番組にフォーカスするが、あまり結論のないうちにその章は終了する(と感じた)


ここまで書いておいて(当ブログでは基本的に気に入った本しか紹介しない)なぜここで取り上げるかというと、北京五輪を振り返るにかっこうのネタになる部分があるからである。

今回のオリンピックで特色が最も色濃く現れたのは開会式そして閉会式ではないか。
国威を向上させるために動員された人・人・人。
どうしても「蟻塚」に見えてしまった閉会式の搭とかセンターで行われているショーだけでなく、グラウンド周辺のみならず観客席にまで及び、息苦しい感すらあった。

そして極め付けは開会式で実践に移されたCG合成。
完全な式を実現するために行われたこの行為は正直このイベント全体を落としかねない愚挙であったと指摘せざるえない。
なぜなら、開会式で許されるなら競技中継でもできるということだからだ。
そういう点において、「口パク」とは全く別次元に問題大有りということがはっきりする。
おそらく閉会式を視聴していたほとんどの人は「どこでまたCG合成が登場するか」でアタマがいっぱいになってしまったと思う(笑)


そこでこの本の出番である。
第2部「国家」をめぐるポリティクスとしてのスポーツ/メディア の部分でオリンピックの開会式の微妙さについて言及している。
長野オリンピックの開会式の演出についての記述、そしてオリンピック開会式にまつわる歴史的経緯を、東京、ロス、アテネと20年ごとの3大会を選び出して論述する部分は定説っぽいものの読ませる。

ホスト国の国家権力の威光を示すためのエゴで、ついに「バーチャル」にまでいきついてしまったオリンピックの開会式。
この問題の意識を高めていく必要があるとあらためて実感させられた。
(本をかなり批判していますが、今後に期待も含めてのことですのでお許し下さい)

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