-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢と周辺地域の青面金剛を並べました。

2014-01-23 17:04:31 | 歴史

 青面金剛とは、「庚申講」と呼ばれる民間信仰の対象です。干支の「庚申」の日に「講」に入っている人たちが集まり、夜が明けるまで祭祀を行ったほか酒飲みなどをしていたそうです。本来の仏教ではなく、中国の道教に始まるようですが、そこは我が日本、神様仏様、何でも御座れの世界のようです。

 畑沢の青面金剛は、大分、前のブログで紹介しましたが、今回は細野と古殿地区の青面金剛と仲よく並んでもらいました。三体それぞれが個性に溢れています。畑沢の青面金剛は凝灰岩ですが、他の地区の青面金剛は玄武岩などの別の石質だろうと思います。石質の違いによって、刻みやすさと風化のスピードが違ってきます。

 

 畑沢の青面金剛は、他の地区のそれと大きな違いがあります。畑沢の青面金剛は単体ではなくて、その下に三猿(見猿 聞か猿 言わ猿)があり、さらにその下には台座があります。残念ながら、スーパー農道を造る際の移転時に、三つがばらばらに置かれてしまいました。本来の姿に組み立てたいのですが、私一人では力が足りません。ブログを御覧になっている方に御助勢をお願いします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しばしば雪崩が起きていました。

2014-01-22 16:06:11 | 思い出

 この山は、昔、「なでつぎ山」と言われていました。意味は、「雪崩が起きる山」です。この写真を見ると、正面の斜面には十分に太い(径30cm以上)樹木が生い茂っています。しかし、昔は薪や炭の材料として頻繁に伐採されていましたので、大きく成長できずに、積雪時は全ての木々が雪にすっぽりと覆われていました。急斜面であるために大きな樹木の支えがないところは、雪崩を起こします。

 この山で昭和33年の3月に雪崩が起きて、人が生き埋めになったことがあります。私はまだ小学校に入学しておらず、昼近くに囲炉裏にあたっていたところ、表の方から誰かが「雪崩で〇〇が埋まったぞ」と急き込んで入ってきました。私の父親、兄そして近所の人たちがスコップを持って救出に向いました。幸い、無事に助け出されました。

 3月の朝は堅雪(かたゆき)になっていて、薪を橇で運搬には絶好の時期です。朝は雪崩も起きません。ところが、気温が上昇していることに気が付かないで、夢中で仕事をしているうちに雪が柔らかくなって、雪崩が起きたのです。

 今は薪や炭を使いませんので、特にパルプ用に伐採されない限り、木々は山の斜面に踏ん張り、雪崩を防止しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい中学校です。

2014-01-20 16:27:38 | 思い出

 これは三宅太一郎氏が平成9年に発行された「村落の歴史 そして三日町」から複写させていただきました。三宅氏は、常盤地区で唯一、歴史の書籍を発行されました。私もこのブログを投稿するにあたっては、度々、参考にさせていただいております。写真の常盤中学校は、昭和年代に撮影されたものと思います。中央に職員等の出入り口があり、向って右端には便所がちょこんと飛び出ています。中学生時代は、いろんな思い出がありますが、中でも昭和39年の新潟地震は特に覚えています。私が昼休み時間に、窓からグランドをぼんやりと眺めていた時に、ぐらぐらと学校全体が揺れ出しましたが、誰かがはしゃいで飛び跳ねて古い建物が揺れている程度に考えていました。ところが、グランドにはぞろぞろと皆さんが集まりだしたのを見て初めて「地震」と認識した次第です。グランドに避難した後も、随分と学校が揺れていました。それでも数人の先輩は校内にいて、窓辺で笑っている姿がありました。先生方は大分、怒鳴っていたようです。あの時の先輩には、しばしばお会いしますが、昔の雰囲気をそのままお持ちです。面白い方々です。

 現在の中学校は、以前、常盤小学校があった場所に新しく建てられています。鶴子中学校がこの中学校に統合されましたが、常盤中学校も生徒数が激減している状況を見ると、将来は尾花沢中学校に統合される運命にあるのかもしれません。

 尾花沢市内の学校統合が進んでいて、今年の4月には福原中部小学校と名木沢小学校が寺内小学校に、午房野小学校が尾花沢小学校に統合されます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑沢から村山市方向を見ました。

2014-01-18 14:31:22 | 歴史

 昨日とは逆に、畑沢から村山市側を遠望した写真です。

 私が雪降しをしている屋根の上から撮影したものです。中央に見える緩やかな曲線を見せている山は、背中炙り峠がある山です。現在の自動車が通る背炙り峠は、見えません。

 古道は、まさにこの山の中央付近を少しくねりながら、ほぼ真っ直ぐに登っていきます。尾根にたどり着くと、そこから写真左側に少し水平に移動します。峠の乳母木地蔵に到着します。矢印で示しているのがその場所です。3本杉なのですが、畑沢側から見ると、あまりはっきりとは分かりにくいようです。これは、地蔵堂がある峠が、実は尾根の真上ではなくて、すこし村山市側になっているためです。

 

 この山は、上畑沢は勿論のこととして、中畑沢や下畑沢からもはっきりと見ることができます。ただし、下畑沢の「向い(ムガエ)」は、熊野神社の山が視界を遮っています。畑沢にとっては、いろんな意味でも象徴的な存在だったと思います。畑沢のどこからでも見えるということは、逆に言えば、峠から畑沢方面を見下ろすと、ほぼ畑沢のすべてが見えるということになります。さらに、峠からは荒町、延沢及び霧山城を遠望することができます。このことは、野辺沢家を守る上でも重要な位置にあることが分かります。野辺沢量を襲う外敵が楯岡方面から現れた時は、いち早く狼煙で「霧山城」や下畑沢の「山楯」に知らせることができますし、霧山城で一大事があった時は、霧山城から狼煙を上げて峠の家臣たちに知らせることができます。昔、野辺沢家が、古道の峠に大きな「楯」を作ったことが納得できます。

 

 その「楯」について、昨年の秋に調査する予定でしたが、何とも都合がつかなくて延期となっています。今年の春(雪が融ける5月)に専門家が実施してくださるということです。私も今のうちから楽しみにしています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村山市袖崎から畑沢を遠望しました。

2014-01-17 21:00:09 | 自然

 村山市内から畑沢方面を遠望することができます。

 下の写真は、袖崎付近の国道13号線から撮影しました。中央の三角状に高い山は、大平山(ホウザヤマ)です。大平山の尾根は右側(南側)に伸びて、村山市の甑岳に繋がります。大平山は方角によって、畑沢に呼び名が三つもあることは、過日、投稿したので覚えておられる方もいらっしゃると思います。写真で木々がなくて白くなっているのは、大平山の真木山(まぎやま)と言われている所です。木々が伐採されていますので、白くなっています。

 大平山の手前には、背炙り峠がある尾根が一直線状に伸びています。その途中に写真の中で矢印が示しているのは、「背中炙り越え古道」の峠です。ここには、「乳母木地蔵」があり、遠くから三本杉を目印にして探すことができます。

 一番手前の果樹園は、袖崎地区のさくらんぼ農園です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする