-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

今冬3度目の雪降しでした。

2014-01-16 19:51:59 | 近況報告

 昨年12月に2回、今年に入って1回の雪降しをしました。しばらく日本列島に寒気団が居座座っていましたので、畑沢の積雪が心配になりました。昨日、今冬において3度目の雪降しをしてきました。昔の茅葺屋根と違い、どこの家でもトタン屋根にしていますので、雪下ろしはしなくなっているのですが、私の実家は道路に近接しているために、屋根から落ちてきた雪が人や自動車を襲う危険性があります。トタン屋根にあえて雪崩止めをしています。ある程度の積雪になると人力で雪下ろしをしなくてはなりません。幸い、今回は積雪量がたいしたことがありませんでしたので、比較的に早く終了することができました。

 大分、時間に余裕ができましたので、上畑沢に行って「おさいどう」の実施について確認してきました。その結果、私が以前に聞いていた実施日と異なっていました。いままで1月24日に行っていたものを2月24日に変更されているとのことでした。1月はまだまだ厳しい時期なので、一か月延期したとのことです。畑沢の先輩方は、柔軟な思考が冴えています。

 写真は、畑沢地区生涯学習推進センター付近の雪景色です。

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クサボタン

2014-01-15 12:42:14 | 自然

 葉がボタンの葉に似ていることによる命名だそうです。クサボタンに近縁の植物は、クレマチスとかテッセン(鉄扇)だそうですから驚きです。

 ところで、この花は去年八月下旬に、背中炙り古道の畑沢側で撮影したものです。杉林の近くに咲いていました。古道沿いには、私が初めて目にする植物が沢山あるようです。

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昔の動力噴霧器の修理

2014-01-14 15:45:55 | 民具

 

 約50年ほど前の動力噴霧器は、外部を掃除したぐらいでは始動しません。燃料タンク、そこからの燃料パイプ、燃料フィルター、さらにはキャブレターの中に燃料が変質した物がベットリと付着しています。当然、それらは分解して掃除しました。

と、ここまでは、目に見える範囲の中で対応できたのですが、大きな難問が待ち構えていました。キャブレターのニードルがまったく動きません。

 ニードルとは、燃料を気化する際にその量を加減する部品です。ここが動かないとエンジンのシリンダーには燃料が入りません。汚れは簡単に灯油などでは洗浄できません。そこで、急遽、キャブクリーナーとか云うものを購入してスプレーを吹きかけたところ、なんとかニードルが動き出しました。

 さて、それではと喜んだのですが、よく見るとニードルに繋がるべきワイヤーが切れていました。しかも、ワイヤーが短くなったしまったので、別のワイヤーを調達しなければなりません。手元に自転車を廃車した時に取っておいたブレーキ用のものがありました。でも、これは長すぎるので、半分以下に切断しました。次に難題がありました。ワイヤーの端にはタイコという円筒型のものが付いていますが、切断してしまったので新たに作らなければなりません。今までの私でしたら、その時点で途方に暮れてしまいます。ところが還暦を過ぎましたので、新たなパワーを持ちました。少々のことではへこたれません。部品が壊れたら、部品を造ればいいのです。畑沢の「おのこ」は、機械に強いはずです。インターネットで調べてみました。ありました。バイク好きの方々は、しょっちゅうタイコ作りをやっているようです。早速、真似をさせてもらいました。

 外形6mmの真鍮パイプを切り、横にワイヤーを差し込む小さな穴を開けます。適度な長さに切ったワイヤーを穴に差し込んで、半田を流し込みました。私でもできました。文字にすれば、ただこれだけですが、実は1日以上を費やしました。失敗の連続で、3回ほどのやり直しがありました。やはり、還暦パワーでないとできません。

 

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昔の動力噴霧器はこんなものです。

2014-01-13 17:49:44 | 民具

 これは私が畑沢で水田に殺虫剤を散布していたころの動力噴霧器です。もう50年近くも前の機械です。私が高校生の夏休みなどで、「いもち病」防除をしていました。

 

 そのころの農薬は、まだまだ健康や環境への影響を考慮したものではなくて、有機リン系という毒性の強いものが使われていました。水田だけでなく、あらゆる水辺の生き物がたちまちのうちに姿を消してしまいました。農薬を散布する時の装備も、口の周りに農薬散布用のマスクをするのですが、マスクをかけていても農薬の匂いがしていましたので、マスクの効果はしれたものだったと思います。体中に白い粉を浴びていました。おそらく、私の健康にも悪影響しているものと思いますが、まだ目だった兆候はありません。融通が利かないのは生まれつきで、決して農薬のせいではありません。

 

 さらにこの機械は、液体も霧状に散布することができます。養蚕を開始する前に、小屋の中を全面的に消毒しなければなりません。ホルマリン(ホルムアルデヒドの水溶液)をこの機械で霧状に吹き出します。この時は、さすがに防毒マスクを使いました。顔を全面的にゴム製のマスクで覆い、呼吸用のパイプが活性炭が入った飯盒のような缶に接続されています。さすがに防毒マスクだけに、独特のホルマリン臭は一切ありません。

 

 この動力噴霧器を再び復活させることにしました。外側にこびりついた農薬等をきれいに洗い落しました。ところが、それだけでは、約50年近くも眠っていた機械は目を覚ましません。次回に復活に向けた私の奮闘ぶりを投稿します。

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背中炙峠と小さな器

2014-01-12 15:47:44 | 思い出

 高さが15センチメートル程度の蓋つきの小さな器です。鑑定団に出るような骨董品ではありません。単なる古くて傷んでいる陶器です。それでも、私には父親の思い出が一杯に詰まった懐かしい畑沢の生活を思い出させる大事な物です。

 と言うのは、私が小さい時に囲炉裏で火にあたっていた時に、父がこの器について次のように話してくれました。

 「昔、畑沢では炭を馬や牛の背中に積んで背中炙り峠を越えて、楯岡に売りに行っていた。売った代金でイカをたくさん買ってきた。そのイカを自宅に帰ってから調理して塩辛を作り、この器に入れて大事に食べていた」

 ただ、それだけのことですが、私はこの器を見るたびに、その時の囲炉裏の情景を思い浮かべることができます。そして、父の話の中に背中炙り峠(現在の背炙り峠越えの県道ではない。)の大事な証言が含まれていたことを去年、初めて気づきました。

 一つには、私が生まれる前は、昭和時代にも現在の自動車が通る背炙り峠ではなくて、江戸時代よりもずっと前から使われていた背中炙り峠越えの古道を人馬が盛んに通っていたこと。

 二つ目には、そのころはまだ楯岡方面へ畑沢から炭を運んでいたこと。

 三つ目は、生活に必要な魚などは楯岡から購入していたこと。

 すなわち、畑沢では明治以降も背中炙り峠越え街道が大事な生活道路だったことが分かります。父からの話から既に50年以上の歳月が過ぎましたが、今頃になって気付くその私の鈍感さが悔やまれます。でも、「背炙り峠」と「背中炙り峠」が別のものであることを、去年になってから知ったのですからしょうがないのかもしれません。

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