アマゾンが、小売りの青果品までも当日送りで済ませようとしているようだ。
まぁ多分、こういうのは東京ではOKかも知れないが、買い物弱者にこそ必要だろうが、それは出来ないでいる。
大体に於いて、フザケているのは、買い物弱者は往々にして大企業は公務員、そして学校の糞馬鹿教師のたまり場である。
連中は何とかハイツを作り、悉く自分の近くに商業施設を置かないようにした。
お陰で、今の何とかハイツは、ほぼ例外なく、閑古鳥が鳴いている。加えて年寄りの車事故の発生が問題となり、免許を返上したら何も出来ない。
それまでは王様だったが、今となっては何も出来ない能無しでしか無い。
森山何とか太郎とか言う奴の「携帯は持たない」と言う、見事な「白痴宣言」には、まぁよくやると思うが、それにしても小売業が駄目になっているのは買いたいが動けない存在である。
往々にして、狭い世界の暴君である。今では保育園や幼稚園を忌避する輩が居るというから、この「利口なつもりの馬鹿」にはいい加減に辟易する。
今は、暴走低能がいないので、良いのだが、昔はコンビニ前には暴走馬鹿が多くて、どうしようも無い状態だった。
その反動なのか?それとも極端な潔癖症なのか?それとも極狭い領域の暴君なのか?今度は子供の声を忌避するのである。
誰かというと豚牝、林真理子や内館、何とかと言う化け物である。
これが、さも当然と、まぁ男に相手にされず、オナニーの別の形式としての駄文を放り出して利口のつもりの馬鹿を思いっきり出していた。
清少納言の枕草子は、その昔の婆ぁのオナニーの残滓であり、昔から、馬鹿な女ほど、糞みたいな姿を隠しもせずに見せている。
これはSMとかスカトロ並の行為であり、それを何か凄いように見せている、その「文壇」とか言う、それこそ文字に隠れれば、それはまぁ、何か体裁が取れているが、そうじゃない一人のおいぼれとしては、極めて変な、それを個性とは言わないだろうと言う個性を見せている。
私は、無様な何とかハイツのクソバカを見ているが、そこには30年の間、コンビニが10年前まであったのだが、もう今はない。
それまで記憶に残るだけで5回は開店閉店を繰り返した。
その類がウチのクソババァである。
其れまでは、コンビニの閉店とかを「他人事」で、まぁ持論である「他人の痛みは百万年でも耐えてみせる」と言う立派な「利口なつもりの馬鹿」でそれを自分で演じた。
「まぁウチの近くの公示価格が下がっているのよぉ〜」と不動産の利口、自分のテリトリーだけの暴君は、その突然の状態に驚いたようだった。
実はコンビニが開いていたのだが、マーケットがあったのが、経営者に嫌気さしにあって、閉店した。
まぁその前の「虫獄の外道毒餃子」によって、酷く赤を出したのが響いたのだろう。
私は馬鹿のように餃子を買って、ウチの不動産の利口、自分のテリトリーだけの暴君に散々嫌がられたが、その馬鹿の利口が、マーケットを潰したのだ。
それをわからないつもりだから笑わせる。
幸いコンビニのリニューアルで、コンビニが復活した為に、公示価格は、ウチの周りでは復活したようだった。
同じ事は、買いたいが買えない、売りたいが売らせない馬鹿の利口が存在している。
家の回りに商業設備を置かないのは「斜め上視線の文化」として世界にせせら笑われるだろう。
しかし、その挙句、食い物を買うのに一苦労とは大笑いだ。
似たような事は、東京の中心部のある部分は極端にダメだったりする。それは東京近郊ではもっと酷いようだ。
昔、所沢に行った時に、凄く開けていて大いに驚いたが、この間の月曜から夜ふかしでは、一駅違うだけで、天と地の差を起こしているのを見て、もう呆れてしまう。
しかし、アマゾンは、ヒューマンな状況を排除する馬鹿に、非人間的システムで対処しようとするのだろうが、それは多分、今やっている商品引き渡しと同じ事になるだろう。
ほんの昔アマゾンの品物を引き取るのは、身分証で簡単に出来たのだが、今は、何か分からないシステムでやるのだそうだ。
横で悶着を聞いていると、引取方法はHPの何処かに書いてはあるが、それを実はコンビニの店員とやらが説明しないし、こっちも分からない。
何かを「操作して」、何かを「出して」と言うのである。一方で店員は「駄目です、指定されている者を出して下さい」はぁ?と言うやりとりを見ていた。
「前は、身分証見せたら引き取れたよ」と言っても「絶対に渡さない」と言う態度を見せられては、向こうも噴飯ものだったのだろう。
思ったのは、アマゾンは馬鹿の利口を最高にして、この非人間的システムを吹聴しているようだが、説明が文字だけで、実際どうやるのか?が分からない。
この手続きの変更は、つい最近のようで、向こうは、てっきり安心していたら、この「強力な拒否」だったのである。
アマゾンの制度設計の馬鹿さ加減は「気楽に買えた」と言う安心感を急遽「箸に某にもかからない」状態に変化させたようだ。
これは、よく自分らのクソシステムを売り込む馬鹿がやるのだが、向こうは既にイメージができているのだろうが、こっちは何が前提か分からない。
そうそう、この前見たFreeBSDのインストールの説明がさっぱり分からないのと同じである。
正統なPCーUNIXの系譜だから、ちょっと手を出してみたいな?と思ったが後の説明では「Linuxユーザーでは到底太刀打ちが出来ない極度のマニアでないと無理」と言うブログがあった。
そりゃ私如きでは駄目だ…と思ったら、FreeBSDのOHPって言うか、発表用のPDFには「2001年以降、FreeBSDの日本でのユーザーは減る一方である。」と絶望的嘆きが載っていた。
これはアマゾンの「最新の引き渡しシステムの未来図か?」と思った。
思えば、RaspberryPIでも、何もせずに画面が立ち上がるようになったRaspianJessieは、何とも簡単である。マジな話Windowsの方が面倒なんじゃないか?と思う。
それから比較すると確かにOSのサイズは小さいが、まぁ何がどうなっているのか分からないFreeBSDは、全くの妙なシステムである。
私は、とうとう放り投げた。
まぁ、その人間の技量の限界があるのだろう。Linuxも20年前は、そりゃ酷いものだった。だが、今は何とも気楽で手軽である。
Windowsに拮抗できる筈だが、これでも難解なんだそうだ。それならFreeBSDのあの何の情報もない、ただ、プログラムの軌跡の跡しか見せないOSは、どうなんだ?
今のLinuxはWindowsよりも親切かも知れない。何れにしても、システムは人の奉仕や共通認識を強制できるレベルで普及が決まる。
それは買い物弱者の馬鹿もアマゾンの斜め上のシステムもFreeBSDの正統な難解も同じだろう。
正直、アマゾンとは暫く関わらない方が良さそうである。