○伊藤悟氏ブログは以前からその名は聞いていたが昨日初めて読んだ(作業中の休憩の息抜きにBGMのMTVに関して洋楽邦楽関係のサイトを廻ったりするその時にふと。なぜ個人の関連ブログを広く廻らないでいたかというと、自分がKinKiに関して見るサイトは比較的老舗が多いからかもしれない)←遅すぎ。昨年からよく大型掲示板等で言われる不穏な話や風評は、まあネットの上だけの事なのかもしれんがそういう事だったのかということがわかってきた。また比較的「J’sファン」という種類と一線を画した系の音楽ファンがどのように出発しどのように享受して楽しんでいるのかという点でも、スタンスとしては自分もさほど遠くはなく、興味深いところがある。ただ情報に接近しているうちに、10年もたってくると、さまざまな「しきたり」の空気のようなものを、否応無く見てとってしまっており、ファンサイト掲示板参加から始まっていつのまにか変なblogエントリーになっていた自分の場合も、そういう物事の観察の中で「危険だな」と思われることを社会勉強してきたのは事実だ。彼曰く所謂一部狂信的ファン(を名乗る人々)の襲来による炎上を契機にblog.oricon.co.jpを閉じるとの旨のようだが、それ以上に、総じて読んでいて個人的感想としてはCDの発売仕様とかチャート集計方法の問題とかの方が実は客観的に面白く「…他の会社のブログならともかく、よくblog.oricon.co.jpに今まで書いてこれたよなあ」的な(ちょっと日経エンタでも書かないんじゃないか?サイゾーあたりなら「あたりまえ」かもしれんが)問題提起が多いのだった。この人は単純に好きなだけで(大人の人でKinKiを聴いている人なら、子供じゃないからこのくらいの多少の業界的違和感は常識として理解しているだろうが、そんなもんだろ業界って、と面倒くさくて一々言わない、もしくはファンだから言っちゃいけないのよ的に遠慮しているだけかもしれないところを、)好きだから、やはりその一々言わないのが結果として事態に悪影響を及ぼしている、と思って、言わなきゃ、という果敢なところが若いのか。でも本当はそっちの方がずっとヤバかったりしてね(笑)そのどこかに何かにとって非常に不都合な発言があって、その封殺の原因を今回の炎上をもたらした馬鹿なファン(を名乗る人々)のせいにできれば一石二鳥か三鳥、本質的な問題から人々を遠ざけられて都合がいい、と思うような偉い人もいるかもしれないぞ、と思ったり。しかしそれらも限度を過ぎるといずれは廻りまわってその歌手やタレント自身をあるいはそれらを使役するお偉方たちをも蝕み損なうことになるだろう。「言えない」のは当のアーチストだけではなく実は享受者も、だったりするのだよつよしくん。ワシらはその矛盾や難儀も含めて「しょーがねーなー」と思いつつ愛していても、その愛を分かち合いたくても、そのどこを「愛してるよ」ってことを、素直に叫べないわけですよ(笑)それってどう思いますか。それも限度を過ぎるとどうか、愛そのものの道のりが厳しくなりゃせんかと。苦渋に満ちた人生で人間の心を慰め少しでも支えるはずのentertainmentにおいてなぜそんな不自由や苦痛が生じるんでしょうかなあ。本当に「好きになり方」は(それで他人に危害を加えるのはいけませんが、でなければ)人それぞれで、いいはずじゃないですか。それを自由に語れないことは、別に独裁国家に限らず日本国内であろうと素直にやるせない。もちろん今の社会状況、投げうる言論が全く自由だなんて全然信じておりませぬし、blogだから全部思った事をいえるなどとも思っていない(小生だって、本当に思ったことは自分の手元のノートには書くが人には見せん)。表現されたものがそれほどに「人の心に引っ掻き傷を残す」ようなものだから問題となって議論を呼ぶのか、それとも、食うや食わずの生活を送る者にとってはさほど生命の維持に関係もなく問題にすることもないものが(別のもっと重要な問題から目をそむけさせるために)わざわざ煽られているのか。それもわからない。ただ、一ブログがお休みになろうが、世の言論とは止められないものであり、一般の人々の心に不自然な違和感が伴うのなら、むしろそれらは深いところでひっかかり続けるだろう。一度言葉となって発せられたものの欠片がどう波及し影響するかは、いずれ歴史が証明するであろう。それは少数の限られた人々の短絡的短期的な支配的思惑などでどうこうできるものではない。これは普遍的にあらゆる物事で共通することではなかろうか。基本的にワシらとしては素直に佳曲と感じればそれを愛し、performanceを愛し続けるしかないのだが、それについて思考することは止められない。(20070527)
