「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20070528

2007-05-28 | 矮小布団圧縮袋

○…随分な訃報の連続。仕事の昼休みにPCで見てラジオのテレビ音声をつけて聴き、夕方また聴く。
 結局のところ、我々は「何になるか」ではなく「何をし続けるか」でしか生きられない、という気がしてきた。
 生きている間、死ぬその瞬間まで何をし続けるか。生きている間にできることはそれくらいしかない。
 してみると所詮生きている短い間の狭い了見での勝ちだの負けだのというのは何ともくだらない。
 そして多くの人々がその声を記憶しているようなアーティストが逝去する時、作品はどう残るのか。
 それこそ歴史を侮ることはできないようである。
 
 ニュースも憂鬱なのでM-onのcountdownに回したら22時頃ちょうどbrand new songが今週20位で流れていた。どんなもんやもなんとなく始まった。すごく普通に。小さな命の死が意思かどうかなんてあやふやで極めて怪しい。飛んできた羽虫が私の手に潰されたのが殺されたのか事故だったのか、みたいな。
 ふと思った。例えば自分が突然今日死んだら、明日のどんなもんやは聞けないわけだし、例えば明日買おうかなと思っていたCDも買えないかもしれないわけだ。でも絶対そうならないなんて、誰にも保証できないし、例えば明日死んだら今日のどんなもんやが聞き納めだったなんて前もって予想できるだろうか?
 ましてや、同じ時間を生きて同じ会場でライブを味わえたり、同じ時代で媒体でもってその歌の生き様をリアルタイムで共有できるということは、人類の歴史上から見たら非常に幸運というか奇跡に近いことなのだろう。例えばなくなった編成のグループや世を去ったアーティストのライブはもう二度と、どんなに逆立ちしたって実際に体験することはできないし。
 何をするかといってもそう大それたことではない。せめて一日一日、何かをしようと思ってやりながらそうして生きているというそのささやかな一つ一つの感覚が、大切なことなのかもしれない。そんな「無常観」のようなものが、漂っている。

 ちなみに、昨日寝る前に読んでた
 加地慶子『書き続けて死ねばいいんです―駒田信二の遺した言葉―』(新潮社、1998.11.)
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