「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20200918

2020-09-18 | 矮小布団圧縮袋

〇午前中にようやく雨が弱くなり、今日もひたすら作業。写真は先日の博多駅前のキイロイトリです。
 夕方の明智抄先生の訃報で初めて御歳がわかった。思っていたよりずっと若い人だった。自分が読んでた始末人シリーズのおまけのページに出てきた先生が、実は随分若いママさん漫画家だったんだと改めて知る。でもその訃報自体が、まるで作品の中の一部のようで、白市高屋さんが「まあ、広い世の中には、きっとそういうこともあるんだろう」とか言いながら、夜の中に立ち去っていく漫画の最後のコマのようなものが、一瞬頭の中に流れた。
 白泉社の漫画で1980年代を過ごしていて10~20代の世界観が結構作られている(危ない)。だいたい道原かつみ先生の銀英伝やジョーカーを読んでいたあたりの頃で、まだサイコパスとかいう言葉が一般的ではなかった当時でも、「シュール」とか「性格破綻」とか「変態」とかいう言葉はあった。21世紀になって特にこの数年、災害を目撃したり、ニュースや職場で完全にブチ切れた(甚だしく程度を逸脱した)異様な光景や状況に出くわしたりするたびに、その非常識にして言語道断な世界の壊れ方に「しかしどこかで見たことがあるような」既視感を感じたものだが、思い出してみると明智抄先生の漫画の登場人物が既に、30年以上前にそうだった。この2010年代以降の今に漂う自己中心のカオス感や破綻感は、漫画の中にあった。そのために、非常に評価が分かれていたというか、当時の自分の周囲でも、はまって読んでいる人と、絶対受け入れられず拒絶する人とが、両方いた。昭和末期や平成初期の世ではまだ、このカタストロフィーの感覚が日常に定着するようになるとは思われていなかったかもしれない。そういう性質をもつ作品である。
 だが小鳥さんは好きだし(たぶん自分が最初に読んだのは「ごめんねアルベリッヒ」だ)、いくつか忘れられない印象的なフレーズも覚えている。吉野朔実先生の作品の場合とはまた別の意味で、心のどこかを引っかかれているのだろう。


 BGM:ナイチンゲール / レスピーギ (らららクラシック「栗コーダーカルテットとクラシック音楽の達人たち」(ETV 9/18 21:00~)
 Mステのwhenever you callの裏番組で、みの先生の凄い演奏を久しぶりに見ていた。始末人シリーズの漫画を読んでいた時というと、この吉沢実先生の番組「ふえはうたう」に「天空戦機シュラト」の関俊彦さんがお兄さん役で出て歌って踊っていた頃である。
 続くベートーベン250プロジェクト開幕特番「今こそベートーベン」ではアンバサダー稲垣吾郎さんと久石譲さんの対談及び番組紹介。久石さんの第5が速い感じがした。吾郎さんの舞台のショットが流れるとついCOMPOSERの大泉さんが頭をよぎる(><)(20200918)
コメント