ただ建築が好きな走るエンジニア、

日系某メーカーを辞めて外資系に転職。資格、建築デザイン、転職と来て今はひたすらす走ってます。2019別大2:49:13。

おじいさんのランプとグスコーブドリの伝記、

2019-08-25 21:38:59 | 読書
先日新美南吉記念館に行った後、
「おじいさんのランプ」を読み返し、
同時に宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」
を思い出しました。

貧しい農村の孤児が機会を得て立身出世する
ところまでが似ていて

自分を犠牲にして火山を噴火させ冷害を防いだブドリ。
自分の立身を支えたランプから電灯への変化を受け入れた
恩人の区長さんの家に一旦は放火しようとしたが、
最後は変化を受け入れた巳之助。

ここで全然違う話になる。

僕は子どもの頃にどちらの話も読んで好きだったし、
理系に進む上で一定の影響も受けたと思う。

でもこうしてエンジニアを四半世紀近くやって来て
少し感じ方に変化が生じたことにも気付く。

ブドリの犠牲は相当な覚悟があり、
(話の上では)温暖な気候が訪れ農民は救われたので
無駄でもなかったと思う。であれば感謝や尊敬も当然
かも知れない。ずっとそう思っていたと思う。

でもなぜか今の僕の中では「神風特攻」と重なる。

「神風特攻」も自ら進んで誰かのためにと
思った人もいたんだろうし、(百歩譲って)
特攻の結果、米艦船が戦闘できなくなってその分、
同胞が救われればその死は無駄ではなかった
と言えたのかもしれない。

逆にそうせざるを得ない、言わしめた過程に
多分に人災的、強制的、脅迫的なものがあって
(本人の意思はどうであれ実際に命令で死にに行くのだから)
ブドリは純粋に自分の意志で強制された訳ではないから
それは違うと言えるかもしれない。

でも無駄かどうか、自分の意志かどうかではなく、
やっぱり犠牲とか、死にに行くのは止めておいた方がいい
と思う。

ブドリの犠牲で火山が噴火して冷害からは救われた
かもしれないけど、ひょっとしたら噴火の二酸化酸素で
温暖化が進み2次的な弊害があった
かもしれないし、ブドリが生きていたら後に
もっといい方法で冷害も解決できた
かもしれない。

自分の意志で犠牲を選んだとしても
それを尊敬、賛美することは同様の犠牲を後々の
人にも良しとさせ、場合によっては権力者に利用される
かもしれない。

まぁ、巳之助の様に一見利己的でも賢く気付き、
古いランプはとっとと半田池に飾ってお終いにして
気持ちを切り替えて本屋さんで文明開化を引き続き支えて
そういう話を縁側の日なたで孫に話す方がいいかな。

でも今の日本で宮沢賢治と新美南吉、どっちが受けるかと言うと
宮沢賢治だし、新美南吉は「ごんぎつね」だけだと
思っている人も多い(いや、どっちも知らないか)。

別に宮沢賢治だって権力者に自己犠牲賛美に活用して貰おうと
思って書いたわけでなく、ブドリの純粋さを描きたかった
だけだと思うけどね(念のために)。

みんながどう感じるか?というだけの話。









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