ニューギニアより飢え逃げのびし兵士なる父は植林する海見ゆる丘まで
父の経歴の戦前部分は、作家の城山三郎氏とほとんど同じくらいよく似ている。16歳くらいで海軍に志願して、危うく特攻隊員に。(試験で落ちたそうだ。運動神経に問題があったらしい)
それから敗戦濃厚なラバウル飛行隊へと配属されたけれど、ついてすぐにマラリアにかかって病床に。それからニューギニアに送られて、米軍の制海・制空圏の支配がきつい北側から南側へとこの島を縦断したとか。
父が飲むといつも口にしてたのが、「好きな物を好きなだけリュックに詰めろ」と言われたので、まだ十代で甘党だった父は砂糖ばかりを詰め込んだのだという。
ところが、塩だと現地住民からいくらでも食料と交換可能だったのに、砂糖では見向きもされなかったという。夜になると原住民の畑へ芋をかっぱらいに行っては、毒矢を射掛けられるという毎日だったという。
父の命日には、最後まで肌身離さず持っていた手榴弾は津軽海峡に「放ってきた」と淋しげに呟いていた父の横顔を思い出す。
父の経歴の戦前部分は、作家の城山三郎氏とほとんど同じくらいよく似ている。16歳くらいで海軍に志願して、危うく特攻隊員に。(試験で落ちたそうだ。運動神経に問題があったらしい)
それから敗戦濃厚なラバウル飛行隊へと配属されたけれど、ついてすぐにマラリアにかかって病床に。それからニューギニアに送られて、米軍の制海・制空圏の支配がきつい北側から南側へとこの島を縦断したとか。
父が飲むといつも口にしてたのが、「好きな物を好きなだけリュックに詰めろ」と言われたので、まだ十代で甘党だった父は砂糖ばかりを詰め込んだのだという。
ところが、塩だと現地住民からいくらでも食料と交換可能だったのに、砂糖では見向きもされなかったという。夜になると原住民の畑へ芋をかっぱらいに行っては、毒矢を射掛けられるという毎日だったという。
父の命日には、最後まで肌身離さず持っていた手榴弾は津軽海峡に「放ってきた」と淋しげに呟いていた父の横顔を思い出す。