先端技術とその周辺

ITなどの先端技術サーベイとそれを支える諸問題について思う事をつづっています。

LINE、国民的アプリには、2人の男の敗北の歴史があった。

2020年05月25日 07時38分37秒 | 日記

日経電子版が昨年連載していた「ネット興亡記」に、LINEの物語があった。なかなか面白いので、メモった。今や国民的アプリとなったメッセージサービスLINEには、2人の男の敗北の歴史があったという。

LINEの軍師と言われるCSMO(最高戦略マーケティング責任者)の舛田淳。LINE誕生に深くかかわった舛田は、高校を中退し、バイクのエンジン工場などで働いていたが「違う世界を見たい」と一念発起して早稲田大学に進んだ。

 

そこで出会ったのが1学年上の山田進太郎だった。後のメルカリ創業者である。いち早く自力でインターネットのサービスを作っていた山田の姿に衝撃を受けた。

 「進太郎さんはサークル活動にもインターネットとパソコンを持ち込んで『早稲田大学のデジタル化』を進めていた。『(先に)やられちゃったな』と思いました。憧れと少しの悔しさがありました」

放送作家の卵として働きながらも次第にインターネットの世界にのめり込むようになった舛田。会社を転々としていた時に、中国・検索最大手百度(バイドゥ)の創業者、李彦宏から誘われた。日本進出を狙う百度。検索の王者として君臨する米グーグルに「四つ相撲は無理でも一刺しできるのではないか」と考えた舛田は27歳で百度に移った。だが、そこでグーグルの威力を思い知ることになる。

 「やっぱりグーグルはすごいのひと言です。世界中から天才たちが集まり、最高の環境でひとつのミッションに従ってやっている。ちょっとやそっとじゃ歯が立たない。『全体で勝てないなら局地戦だ』と画像検索に力を入れたり色々なことをやりましたが、結局は『これは勝てない』と。もう、勝負をする前に負けている状態でした」

打ちのめされた舛田は百度を後にする。そこに声をかけたのが韓国の検索最大手ネイバーの日本法人社長、森川亮だった。ネイバーは2000年に日本に進出したがグーグルに蹴散らされるように05年に撤退。だが森川によると再上陸を計画していると言う。

 「百度とネイバーが違うのは、ネイバーが一度負けているということです。負けた反省点に立っていたことに共感できました。しかも、口で言うだけでなく実践しようとしていました」

日本で勝つには「本国からエースが来ないとダメだ」と言う舛田に対し、森川は検索の絶対的エースが韓国から来ると力説した。それがシン・ジュンホだった。舛田に会ったシンは「僕は成功するまで韓国には帰らない」と言う。その言葉に、心が動いた。

 「この人とならもう一回チャレンジできるんじゃないかと、スイッチが入りました。それにやっぱり心残りでした。こんなに負けきったことはないとまで思わされていましたから」

08年10月、ネイバージャパンに入社した舛田に、森川とシンは「あなたの仕事は(グーグルに)勝つために必要なことすべてです」と言う。とはいえ、グーグルの壁は高く厚い。どうすれば今度こそ、その壁を破れるか――。舛田はひとつの会社に出合うことになる。かつて「ヒルズ族」の象徴のように語られたライブドアだ。

■ライブドアにラブコール

 

舛田氏は最高戦略マーケティング責任者としてLINEをけん引する

舛田氏は最高戦略マーケティング責任者としてLINEをけん引する

 

社長の堀江貴文らが証券取引法違反の疑いで逮捕されてから3年近く。旧知のライブドア幹部から売却の入札にかけられている事実を聞いたが、「最初は『ないわ』と思いました」。だが、よくよく調べると腕利きのエンジニアたちがそっくりそのまま残っていることに気づいた。

 「最初に聞いた時は冗談かと思って『いやいや』と(お茶を濁した)。でも、会社のデータを夜中に1人で見ながら『おおっ!』と思いました。キーマンたちがそのまま残っている。これは意外でしたね。すぐに森川とシンに『買いましょう』と提案すると、『いきましょう』と返ってきました」

ただ、実はライブドア首脳陣の思いは違った。モバイル部門を率いていた出沢剛が社長に就任し、黒字化を果たしていたのだが、出沢には秘めた野望があったのだ。

 (出沢)「実はネイバーと一緒になるというのは我々が望んだ形ではなかったのです。あの事件の後、つらい時期を乗り越えてきた強い絆で結ばれたメンバーで次の勝負をしたいと思っていました。我々としてはMBO(経営陣による買収)をして独立したかった。だから本当は(ネイバーによる買収は)がっかり。『夢破れて……』という感じが正直、あったのです」

そこで舛田が提案したのが「5つの約束」だった。ライブドアのブランド、雇用、経営体制、経営ポリシーを維持し、成長を支援する。要するにネイバーが買収しても独立を守るという意味だった。

 (舛田)「最初は(旧知のライブドア幹部に)入札に参加してくれと言われて手を挙げたのに、その後には我々がラブコールを送っていた。出沢からも聞きました。『本当は嫌だった。本当は独立したかった』と。だから、これは妻にも言ったことがないんですが、(ライブドア側には)『僕たちが幸せにします』と言いました」

 「その時はお酒も入っていたので『何がダメなんですか。僕たちが絶対に幸せにする自信があります』と。もう、全力で口説いていましたね。そこまで言ったのは、大事なのは一緒にチャレンジするメンバー(社員)だと思ったから。お金でハコは買えるけど、それじゃ魂が残らないから」

■「もう限界です」

 

 出沢氏(右)が社長を務めていたライブドアはNHNジャパン(現LINE)に買収された(2010年、左は森川氏)


出沢氏(右)が社長を務めていたライブドアはNHNジャパン(現LINE)に買収された(2010年、左は森川氏)

 

こうして10年にネイバーはライブドアを買収した。だが、グーグルの壁が崩れる気配はいっこうにしない。

 (出沢)「まるで壁に卵を投げつけているようでした。その壁が倒れる気配はないけど、投げ続けないといけないんだと……。みんなが疲れていくのが手に取るように分かる。プレッシャーと徒労感。組織がどんどん暗くなっていきました」

 (舛田)「正直、途方に暮れていました。ある時、幹部から『もう限界です』と言われました。それを聞いた時には、もう限界がそばに来ていると強く感じました。すべてが暗闇です

 「韓国ネイバー創業者のイ・ヘジンからは『孫の代までかかってもいい』と言われましたが、それって優しくもあり厳しい言葉です。リングを下りることを許さないと。でも、現実にはリングに登っても、登っても、勝てない。勝たせてあげられない。チームを率いてきた自分たちが責任を取らないといけないと思いました。心が折れそうになっていました。もう、自分は辞めた方がいいんじゃないかと」

当時、社内のごく少人数で調査していたのが、メッセージアプリだった。いくつかある開発案件の中でも優先度は3~4番目。そんなときに日本を悲劇が襲った。東日本大震災である。ここで舛田やシンは「親しい人に限られた閉ざされたコミュニケーション」の重要性に気づく。これがLINE誕生につながるのだが、そこには大きな決断が伴っていた。検索でいつかグーグルを超えてやろうという悲願との決別だった。

 (舛田)「それまではグーグルと同じ土俵で、オープンなインターネットの中で戦おうとしていた。LINEはその真逆でクローズド(閉ざされている)。つまり、検索できないものです。グーグルに恋い焦がれてリスペクトし続け、チャレンジする相手だと思い続けていたのに、そうじゃない戦略を選んだのです」

 「私たちは検索のために集まった。だから検索のチームからは『あの人たちは何をやっているんだ』と思われていたようです。社内に不満はあったと思いますよ」

 

「スタンプ」は偶然の産物だった(人気キャラ「ムーン」の初期デザイン、LINE提供)

「スタンプ」は偶然の産物だった(人気キャラ「ムーン」の初期デザイン、LINE提供)

 

こうして生まれたLINEは瞬く間にユーザーを獲得していった。起爆剤となったのが、かわいらしいイラストの「スタンプ」だ。日本の絵文字文化を踏まえたと紹介されることが多いが、実は偶然の産物だったと言う。

 (舛田)「デザイナーがたまたますごく大きなイラストのデータを送ってきたのですが、それが面白かった。インパクトがあったんです。デザインチームでピクセル単位で検証したところ、日本人らしいなと。それは何かと言えば、イエスかノーが明確な欧米系の言語に対して日本人はある種のあいまいさを持っている。それをスタンプが表しているんじゃないかと。でも、それって知らない人同士では成り立たない。知っている者同士(のLINE)だからできること。スタンプは偶然の産物から確信に変わりました」

■「LINE or Not」

LINEが次に目指したのが、メッセージツールを核としつつ様々なコンテンツをつないでいくプラットフォーム化だった。そもそも「LINE」の名に込められた意図は、色々なコンテンツやサービスを線(LINE)でつなぐということだった。ここで登場したのがライブドアの「残党」たちだ。

 (舛田)「LINEをメッセンジャーだけで終わらせるつもりはなかった。なぜなら我々はもともと、検索をやりたかった。(検索を中心に)ポータルサイトのように色々なものをつないでいくサービスを目指していました。でも、そうなると圧倒的にリソースが足りない。採用しても人が追いつかない。その時、私は答えを出せずにいた」

ここで動いたのがライブドアをまとめる出沢だった。「LINE or Not」を宣言する。LINEか否か……。選択すべきはLINEだという意味だ。それは実質的に自ら再建したライブドアを捨てる決断だった。

 (出沢)「僕が入社した(ライブドアの前身の)オン・ザ・エッヂ時代にコーポレートミッションがあった。『世界中の人たちが僕たちが作ったサービスを知らず知らずのうちに使ってくれるといいよね』。もう、堀江さんも忘れていると思いますが、私が『インターネットっていいな』と思ったのはそこでした。ごく少人数の若くて何も持たない人たちが世の中に力を与えたり、世界中の人たちの人生をちょっとだけ変えたりする」

 「LINEはそうなりつつあった。だったらそれを手伝わない理由はない。根回しとかしません。『みんな分かってるよね。これだけ大きなチャンスがあったら乗らない理由はないよね』と。普通の会社ならゆっくり方向転換するけど、ライブドアで学んだのは、徐々にやっていたら世の中は待ってくれないということです。急ブレーキや急ハンドルを恐れてはいけない」

舛田が示した「5つの約束」を自ら破棄したのだ。これには舛田も思わず「えっ、いいの?」と返したという。ライブドアの力を得てLINEはプラットフォーム戦略を推し進め、国民的アプリの地位を築いていった。

 (出沢)「巡り合わせの不思議です。誰も想像できなかった展開。僕たちはすごくピカピカなチームじゃない。みんな失敗を経験して苦しい思いを味わってきた」

 (舛田)「時代がLINEをつくったんでしょうね。もっと遠くに、もっと早く行くために、もっと違う景色を見るために、仲間が必要だったのです」

ネイバーとライブドア。インターネットの歴史の中で忘れることのできない敗北を経験したふたつの会社が手を取り合ってつくり上げたのがLINEだった。15年に森川が社長を退任すると、シンと舛田は後任社長に出沢を推した。

 

LINEはヤフーとの経営統合の道を選んだ(2019年11月、記者会見で握手する出沢社長(右)とヤフーの親会社Zホールディングスの川辺社長)

LINEはヤフーとの経営統合の道を選んだ(2019年11月、記者会見で握手する出沢社長(右)とヤフーの親会社Zホールディングスの川辺社長)

 

そこまでして作ったLINEは、日本のネットの巨人であるヤフーとの経営統合を選んだ。LINE誕生の立役者となった舛田はこう語る。

 「我々が描く世界に対してのステップとして唯一無二の戦略カードだと思うんです。それに日本は今まさにコロナ禍に直面している。『3.11』に直面してLINEを生み出した時と同じマインドです。戦後の焼け野原から日本が復興した時のように、今まさに世界が新しいものをつくろうとしている。その発想をするのが、インターネットで働いている人間の宿命だと思うんです」

かつての敗者たちはLINEという新しい価値を世に送り出した。次は、どんな景色を我々に見せてくれるのだろうか。


コミュニケーションソフトウェア市場、2026年までに16億500万ドル規模

2020年05月25日 07時17分07秒 | 日記

Research Diveのレポートによると、コミュニケーションソフトウェア市場は今後、15%のペースで成長し、2026年までに16億500万ドル規模に達する見通しだという。新型コロナウイルスのパンデミックを受けて、コミュニケーションソフトウェアが従業員エンゲージメントに不可欠になったことが、同市場の成長に顕著な影響を及ぼしている。

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 従業員が会議やカンファレンス、面接をバーチャルに移行させるなかで、特にウェブ会議プラットフォームの人気が高まっている。しかし、レポートによると、電子メールやエンタープライズ・インスタント・メッセージング・サービスなど、ほかのコミュニケーションソフトウェアの使用も増加しているという。

成長に寄与する要素

 レポートによると、チャンネルや電子メールを読まないで放置するといった従業員の関与度の低さにより、情報が効果的に共有されなくなるが、そのことはコミュニケーションソフトウェア市場に良い影響を及ぼしているという。

 ただし、従業員向けコミュニケーションソフトウェアの導入への投資は、世界的な市場の発展に悪影響を及ぼす可能性もある。

 クラウドは企業に浸透し続けているが、コミュニケーションソフトウェアに関しても同じことが言える。コミュニケーションソフトウェアのクラウドベースのセグメントが最も大きなシェアを獲得すると予測されており、今後、16%のペースで成長して2026年までに7億6900万ドル以上の規模になる見通しだ。

 クラウドベースのシステムが成長するのは、こうしたソフトウェアが柔軟性と互換性を備えており、使いやすいからだ。例えば、クラウドタイプのソフトウェアを使用すれば、管理チームはモバイルデバイス経由でアクセスできるようになる、とレポートは述べた。

中小企業(SME)向け世界市場が急速に成長

 エンドユーザーに目を向けると、SME向けの世界市場は15%を超えるペースで成長し、2026年までに6億8700万ドル規模に達する見通しだ、とレポートは述べている。

 レポートによると、SMEの市場が指数関数的に成長しているのは、世界中のSMEがどこからでも相互に接続して情報を共有できるようにコミュニケーションソフトウェアを利用しているからだという。

 グローバル市場を牽引する地域については、アジア太平洋地域が最も成長すると予測されており、今後ほぼ17%のペースで成長して2026年までに3億2000万ドル以上の規模に達する見通しだ。レポートによると、この地域の組織は競争力を維持するためにコミュニケーションソフトウェアへの投資を増やしているという。

 レポートでは、市場の主要なリーダーもいくつか挙げており、それにはGuideSparkやSociabble、Nudge Rewards Inc.、Guide Sparke、Poppulo、Smarp、The Employee App、Social Chorus Inc.が含まれる。これらの企業は、合併や買収だけでなく、協業やパートナーシップも利用して、全面的に市場シェアを伸ばしている。

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日本企業のテレワーク実施9割に 6割が効率化に有効と評価

2020年05月24日 22時59分53秒 | 日記
 
ニューズウィークによると『日本企業のテレワーク実施9割に 6割が効率化に有効と評価』とのこと。テレワークといっても、TV会議だけのことも多く、高度な使い方では、TV 会議+社内SNS+タスク管理などのような高度な使い方もある。ITの使い方で在宅勤務の作業効率も相当な差があるはず。こういう調査は、IT 専門家がいる、調査会社でないと無理だろうか?

資本金10億円以上を対象に499社に調査票を発送、回答社数は230社程度で、9割が実施したという。そして久賀的であったんという評価は6割以上に達したという。

 

5月ロイター企業調査で、新型コロナウイルスへの対応としてテレワークの導入した企業は、調査対象企業の9割に上ったことが分かった。実施してみて業務効率化に有効だとした企業は、62%に上り、うち「かなり有効」との回答は5%だった。都内で14日撮影(2020年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)

5月ロイター企業調査で、新型コロナウイルスへの対応としてテレワークの導入した企業は、調査対象企業の9割に上ったことが分かった。実施してみて業務効率化に有効だとした企業は、62%に上り、うち「かなり有効」との回答は5%だった。

調査は4月28日から5月15日までの期間に実施、資本金10億円以上を対象に499社に調査票を発送、回答社数は230社程度だった。

 

一部の社員でもテレワークを実施したか聞いたところ、まったく実施していないとの回答は9%だった。自動車や小売、運輸・ユーティリティーでは全く実施せずとの回答が2―3割に上り、相対的に多かった。

「週に1―2日実施した社員が多い」との回答は26%、「週に3―5日の社員が多い」は65%。

テレワークが業務効率化に有効と評価をした企業では「不要・不急な業務があぶりだされた」(精密機器)との声や、「往復の通勤時間と無駄な問い合わせがなくなり、業務への集中とともにプライベートの時間も増えた」(サービス)などのメリットを挙げている。

多くの企業が「コロナ終息後は、働き方改革が劇的に進むのではないか」(ゴム)との見方や、「テレワークへの業務移行がコロナ対応により本格化した」(化学)など今後も継続・拡大を期待する声がある。

他方で、「あまり有効ではない」「全く有効でない」と回答した企業は合わせて38%ある。製造業では「石油・窯業」や「鉄鋼」、非製造業では「不動産」や「卸・小売」「運輸」が多かった。

「テレワークできる部門は少ない」(建設)、「テレワークになじまない現場部門の部署がある」(運輸)といった回答があり、現場中心の業種では有効性は低い。また、「システム環境の整理が必要」(ガラス・土石)など、テレワークに向けた環境整備が必要な企業もある。

 


メルカリ社長を変えたニーチェの言葉”カリスマじゃなくていい” 

2020年05月23日 09時58分49秒 | 日記

2019年日経電子版で連載した「ネット興亡記」に、メルカリの山田進太郎社長の話が出ていた。

自分と向き合い続けた山田氏が見つけたカリスマ経営者とは異なる起業の形。そんな山田氏が夢だった米国進出のために「鬼」になったというストーリー。

世界一周の旅で、自分がなすべきことを見つめ直した(インドで)

日本に「フリマ」という新しいeコマースの形をもたらしたメルカリ。2013年の設立から瞬く間に利用者数を伸ばし、毎月使うユーザーは今では1700万人に迫る。近年のスタートアップを代表する存在ともいえるが、創業者の山田進太郎はいきなりフリマという金鉱脈を見つけたわけではない。そこに至るには長い模索の旅があった。

■諦めていた起業の夢

高校時代は地元愛知県の進学校に進むがそこでの成績はクラスでも最底辺。部活はマイナーなハンドボール部を選んだのに補欠。そこから山田の内省が始まった。

 「僕はすごく記憶力があるわけでもないし社交的でもない。プレゼンがうまいわけでもない。本当に地味な目立たない学生でした。これが得意だというものがなく悶々(もんもん)としていました。だから、自分はどう生きていくのかをずっと考えていた。普通のサラリーマンでは良い仕事ができない。小説家とか起業とか、何か人と違うことをやらないと、この世に生まれた価値が出せないという感覚でした」

小説家を目指すが手に取った村上春樹の指南本を読んでがくぜんとする。

 「僕はこういうふうにはモノを読めないし無理だなと思いました。物書きは人と違う視点で色々なことを捉えて表現できないとダメ。僕にはその能力はないと痛感した」

では起業家はどうか。実は大学1年の時にある人物に会いに行き「こうはなれない」と一度諦めたという。それがソフトバンクグループ創業者の孫正義だった。1996年のことだ。当時39歳だった孫は、新世代のベンチャー経営者として注目を集めていた。

 「孫さんはものすごくエネルギッシュで人を巻き込むリーダーシップがある。当然、知識も。僕は当時18歳。あと20年でどうやったらここまで到達できるのだろうと。イメージがわかなかった。こういうスタイルは無理だなと思って、いったん起業を諦めたのです」

だが、自分の生き方を模索する山田は、徐々にカリスマたちとは違う生き方でもいいのではないかと考えるようになった。そこに2つの出会いがあった。

ひとつがドイツの思想家ニーチェが書いた名作「ツァラトゥストラはかく語りき」だった。絶対的な存在である超人を描くニーチェに対する、山田の解釈は独特なものだった。「僕は超人ではない。凡人でいい」だ。

 「結局、自分は自分でしかないということです。良いものは良いと認める。その上で自分の良いところを伸ばし、他の人の良いところを使う。自分だけではできないことを他の人と一緒になって、より良い価値をつくっていく」

もうひとつの出会いは、当時渋谷近辺に集まった「ビットバレー」と呼ばれる若手IT起業家の集まりだった。その中心的存在だったのがネットエイジ。渋谷・松濤の歯科医の2階にあったオフィスに山田も足を運んだひとりだった。

グリーの田中良和、ミクシィの笠原健治、ヤフーの川辺健太郎、コロプラ創業者で個人投資家の千葉功太郎……。ビットバレーに集う同世代の若き起業家たちの姿が、山田に一度は諦めた起業の道を選ばせた。

 「ビットバレーの起業家には色々なタイプがいました。技術で引っ張る人。センスが良い人。スタイルというのはなんでもいいんだなと思いました」

■米国で戦う覚悟

フリーランスとしてたった一人で活動を始めた山田は「映画生活」というサイトを作るが、20代も半ばにさしかかると米国への移住を考え、サンフランシスコに渡る。ここでインターネットで生きていく腹を固めることになった。

 「当時はインターネット以外に飲食とか不動産にも興味がありました。現地の日本人の方と日本食レストランを開こうということになったのですが、その時に考えました。お店で接客できるのは1日100人か200人程度。でも、当時僕のサイトは月間100万人の利用者がいた。少ない人に質の高いサービスを提供するか、それともインターネットで多くの人に提供するか。自分はどちらが好きかを考え、やっぱりインターネットが面白いなと改めて思いました」

 「それで日本に帰ることになりましたが、米国に来て『日本人として何ができるか』と考えた。日本でサービスをつくって海外に持っていこうと。世界中で使われるインターネットサービスを作ろうと。腹が据わった。これを一生やっていこうと」

日本に戻った山田はソーシャルゲームの会社をつくった。ヒット作にも恵まれ米ゲーム企業に買収される。それが「世界」への近道だと思ったから売却したのだが、方針があわずすぐに退職した。そんな時に出かけた世界一周の旅で、もう一度自分がなすべきことを見つめ直した。

 「やっぱり子供が働いているのが印象的だった。ボリビアからチリに行ったときも(ガイドの)助手席には子供がずっと座っていました。みんな豊かになろうとしているけど全世界が豊かになるなんて現実的には難しい。資源も限られている。では自分に何ができるかを考えました」

 

世界一周の旅で、自分がなすべきことを見つめ直した(インドで)

世界一周の旅で、自分がなすべきことを見つめ直した(インドで)

 

それがフリマアプリにつながった。誰かの使い古しでも誰かの役に立つ。そうやってモノを循環させる仕組みを作れば、世界はもう少しだけ豊かになるのではないか。

そして、ここまでの経験で山田は経営者としての「自分のスタイル」に気づき始めていた。

 「僕は人を生かすのが得意なのかなと。次に会社をやるときは自分でやること以上のことをやりたいと思っていた。自分にないものを持っている人がいたら、その人の能力を生かせるような状況をつくり出そうと」

 

2014年に米国参入した際のオフィスで、山田氏と(左)と石塚氏

2014年に米国参入した際のオフィスで、山田氏と(左)と石塚氏

 

13年に始めたメルカリは曲折がありながらも短期間でユーザーを獲得していった。新たな仲間たちと山田が目指したのが米国だった。日本でのサービス開始から半年もしないうちに米国で視察に回り、翌14年に参入を決めた。

 「日本だけでやるということをそもそも目標としていない。米国で勝てば、それはいきなりボスを倒すようなもの。一番高いハードルだけど、その後に続く欧州市場(を攻略しやすくなること)なども考えると(米国での成功は)日本だけでやる10倍以上のポテンシャルがあると思う。やらないリスクの方がむしろ高いという感覚でした。むしろ、日本を落としてでも米国でうまくいけばそっちの方がいいというコンセンサスは(経営陣の中で)ありました」

■たった一度の「わがまま」

だが、やはりハードルは高かった。米国では思うように取引額が伸びない。思い詰めた山田は行動に出た。米国事業を任せていたメルカリ共同創業者の石塚亮を米国CEO(最高経営責任者)から外し、自らが陣頭指揮をとるよう迫ったのだ。

帰国子女で米国での起業経験もある石塚は、山田本人がメルカリを起業する際に「米国は亮に任せるから」と言って誘った人物だ。日本での立ち上げの功労者でもある。自らの約束を反故(ほご)にし、仲間のプライドを傷つける決断だったはずだ。

 「それはあったと思います。でも、どうしてもここで成功したいと。自分自身でやってダメなら諦めがつきます。ある意味、僕のわがままだけど『やらせてほしい』と伝えました。もちろん、彼にも思いはあった。色々と話しました。最後は『全力でサポートするから』と言ってくれました」

カリスマ経営者と自分は違うと思い、「人を生かす」という自分なりのスタイルを見つけた起業家・山田進太郎が見せた「わがまま」。米国はその後も苦戦を続けながらしぶとく戦い続けている。

スマホ世代の代表的なスタートアップと見られるようになったメルカリ。社会的責任を痛感させられた出来事が17年に起きた現金の不正出品問題だった。

 「自分たちはすごく小さな存在だと思っていたけど、プラットフォーマーとして報道されていた。世の中のインフラみたいな存在になりつつあると初めて気づきました。ある意味、社会的な公器を目指すようにカジを切りました」

日本発のスタートアップとしての「社会的な役割」として今、最も意識するのがやはり海外への挑戦だ。インターネット産業が始まっておよそ四半世紀。いまだ日本発のグローバル・テックカンパニーは育っていない。

 「メルカリがやらないといけないのは海外で成功して外貨を稼ぐこと。これまでは自動車や電機のメーカーが成功しているけど。僕たちはそこを目指したい。成功例が出れば『あそこにできるなら』と、どんどん海外を目指す人が増えてくると思うんです」

 

新規株式公開(IPO)時は株式市場で話題を集めた(2018年6月、前列左から3人目が山田氏)

新規株式公開(IPO)時は株式市場で話題を集めた(2018年6月、前列左から3人目が山田氏)

 

山田は18年6月に上場した際、「創業者からの手紙」を公開した。それはこんな一文から始まっている。

 「私は、野茂英雄さんの大ファンです。野茂さんがメジャー挑戦を発表された時、日本中でバッシングが巻き起こったのをよく覚えています」

メルカリの米国事業にはいまも投資家やメディアから厳しい声が寄せられる。成功したと言えるにはほど遠いから、反論はしない。ただ、追いかけているものが、批判と懐疑に満ちた視線の中で米国に渡ったパイオニアの後ろ姿であることに、今も変わりはない。


 サイバーエージェントの藤田氏が明かす葛藤

2020年05月23日 09時43分47秒 | 日記

2019年日経電子版で連載した「ネット興亡記」で、社長の藤田晋氏の逸話が掲載されていた。なかなか面白いのでメモって見た。 以下其の引用::::::::::::

26歳で上場した直後に訪れた危機を語る。起業家を目指すきっかけは少年時代に感じた、ちょっとした違和感だった。福井県鯖江市の出身。父が働くカネボウの社員住宅での生活に、言い様のない息苦しさを感じていた。同じような部屋で暮らし、再生産される同じような日々……。そこから抜けだしたいと考えたのが、起業家・藤田晋の原点だった。

「平凡な人生は嫌だなって思うようになったのです。『なんでもいいから何者かになりたい』と。子供の頃はスポーツ選手とかミュージシャンに憧れました。仲間の一人が本気でプロのミュージシャンを目指すことになった。それなら俺はレコード会社をつくるよ、と。高校3年生の時。それが起業家を目指したきっかけです」 起業に踏み切ったのは、人材サービス会社のインテリジェンス(現パーソルキャリア)の新入社員時代。すでにトップの営業成績を残していた藤田は自信満々だ。ただ、何をするかは決めていなかった。 「『21世紀を代表する会社をつくる』と明文化したのは起業3年目ですが、『すごい会社をつくろう』という思いはありました。そのために選んだのがインターネットでした」

■「悪魔に魂を売ってでも」 藤田を支援したのが、インテリジェンス社長の宇野康秀だった。サイバーエージェントに70%出資し、事業が軌道に乗れば藤田に株式を売る約束だった。 (宇野)「彼は誰よりも朝早くに会社に来て、みんなが来る頃にはもう営業に行っていた。口で語るより行動で力をつけていく姿を見ていました。起業したいと言う人は多かったが、彼は覚悟が違った。夢ではなく明確な目標でした」 宇野が「さっきトイレで思いついた」と言って藤田に提案したのがネット専門の営業代行業だった。当時のネットベンチャーは技術者出身が多く、営業は不得手。それなら藤田の営業力を生かせると考えたのだ。 藤田氏を支援したのが、インテリジェンス社長の宇野康秀氏(現USEN-NEXT HOLDINGS社長)だった"宇野の考え通り、サイバーはすぐに軌道に乗った。だが、藤田には違う思いもあった。 「営業代行だけで『すごい会社』になるのは非常に難しいなと。自分たちでプロダクトを作らないとダメだなと思っていました。それを起業して半年ほどで見つけました」 それがクリック保証型広告と呼ばれるシステムだった。この技術は、実はサイバーの顧客のものだが、藤田はそっくりそのままコピーしてしまった。今では許されざる行為と認める。

 

「当時は24歳。あらゆる手を使って成功に近づこうと思いました。それこそ、悪魔に魂を売ってでも。今ならあり得ないです。でも、当時はそんなことを考える余裕もないくらい必死でした」 ところが、営業集団のサイバーには、そのシステムが作れない。弱点を補おうと藤田が提携を持ちかけたのが、オン・ザ・エッヂという会社だった、堀江貴文が東大在学中に起業した会社で、システム構築を受託する技術者の会社だった。堀江との出会いは衝撃だった。 「自分に足りないものを堀江さんが持っていると、会った瞬間に感じた。彼らにとっても僕らが必要だと思いました。堀江さんとは波長は合うけどタイプは真逆。もし僕と堀江さんが学校で同じクラスだったら友達にはなっていないと思います。組織のカルチャーも真逆。我々(の会社)には技術者が居つかなかったし、オン・ザ・エッヂは営業とかマーケティングを我々に委ねていた。(両社とも)上場できたのはお互いのおかげだと思います」

 

■「堀江氏に嫉妬」 二人三脚で坂道を駆け上がる藤田と堀江は、ともに「時代の寵児(ちょうじ)」と呼ばれるようになる。だが、無名時代から堀江を知る藤田の目に、「ホリエモン」と呼ばれるようになった堀江は、別人のように映ったという。 「堀江さんは当初、受託しかやっていなかったので金にシビアである意味、臆病だった。我々と組んだのもリスクを分散するため。要は(経営者として)慎重な人だった。ところが(2002年に)ライブドアを買収してプロ野球参入に手を挙げた頃からある意味、コツをつかんで世の中を騒がすことをやっていきました。フジテレビを買収しようと大きな借り入れをして勝負を仕掛けた時から『堀江さんは人が変わったな』と思いました」 そんな堀江の姿を見て、藤田は初めて同世代の人物に嫉妬を覚えたと告白する。 「当時は(ネット企業と言えば)『ヤフー、楽天、ライブドア』と言われていました。実態は自分たちとそんなに変わらないのに過剰に評価されている。そう思った時に『嫉妬するものなんだ』と感じました。それまではやきもちを焼かれることはあっても、逆はなかったですから」 東京・渋谷にIT企業が集積し、「ビットバレー」ともてはやされた2000年前後、藤田はその代表格と見なされたが本人の思いは違った。 「その時は自分の売り込み時だと思っていました。メディアで取り上げられるとお客さんも投資家も集まってくれて好循環が生まれる。ビットバレーを利用しようと。『魂を売ってでも成功する』のひとつです。ただ、浮かれている起業家も多かったので、実際にはビットバレーの集まりには一度行っただけ。あいさつを済ませて15分くらいで帰っちゃいました」 試練は直後にやってきた。2000年3月の上場直後からIT株は下落し始めた。インターネットバブルの崩壊だ。「社長辞めろ」「福井に帰れ」。藤田は一転、ネット上で激しくバッシングされるようになった。 「当時の大変さを言葉にするのは難しいですね。サイバーエージェント株を買ってもらって損をさせてしまった人もいますが、関係がないのに怒る人が出てきて、炎上と同じ論理で火が燃え移っていく。(事業を伸ばすには)時間が必要だけど待ってくれる雰囲気ではない。今だと経験を積んでいるので開き直れるけど、当時は若かった。もう昏倒(こんとう)しちゃって、自信をなくしてしまった」

 

■「お前の会社なんていらねぇよ」 そこに2人の男が現れた。GMOインターネット創業者の熊谷正寿と、通称「村上ファンド」を率いる異色の投資家、村上世彰だ。2人はそれぞれサイバー株を買い集めていた。「藤田君を味方に付けたかった」という熊谷は事業提携に次いで合併を持ちかけた。事実上の買収提案だった。 「犯罪人みたいに扱われていたので株を買ってくれる人はありがたかった。僕を経営者として評価してくれる人はゼロだったので。でも身売りしてしまうのは違うという考えはありました」 一方の村上は「減資して株主に現金を返すべきだ」と迫った。サイバーは上場で225億円を市場から調達したが、村上が藤田に聞いても納得のいく成長戦略が返ってこない。それなら会社の清算も考えるべきだと言うのだ。 「村上さんはアイデアをお持ちで、会って意味のある投資家。ただ、会社としての可能性も僕の経営者としての可能性も全く評価していなかった。目の前にある現金と事業を比べると減資して事業を絞り込むのがベストという考えでした。村上さんなりの正義があり、その視点から見れば正しい。でも、それではその前に僕に対して投資してくれた人には報いることができない。だから受け入れられなかった」 事態は切迫していた。実は藤田は株価低迷で士気が下がる現場に報いようと自分の持ち株を無償で社員に配布していたのだ。藤田の出資比率は34%から23%に低下。もし、熊谷が村上から株を買い取れば会社が乗っ取られてしまう。 強引な買収を良しとしない熊谷は、あくまでも藤田の了解を待つ考えだったが、合併を諦めたわけではない。市場からは「無能の経営者」とのレッテルを貼られ自信を失った藤田は、思い詰めた。後ろ盾だった宇野に、サイバーの買収を持ちかけたのだ。どうせなら宇野にサイバーを引き継いでもらいたい――。そう考えた藤田だったが、宇野の答えは非情なものだった。 「お前の会社なんていらねぇよ」 宇野はそう言い放った。ぼうぜんと立ち尽くす藤田。 「頭の中が真っ白になりました。自分なりに腹を決めて言ったので……。どこかに放り出された気持ちでした」 しかし、これは宇野流の叱咤(しった)激励だった。

       藤田氏を支援したのが、インテリジェンス社長の宇野康秀氏(現USEN-NEXT HOLDINGS社長)

宇野はこの後、藤田を救うべく奔走する。白羽の矢を立てたのが楽天創業者の三木谷浩史だ。ある人物を介して三木谷にサイバーへの救済出資を申し入れていた。村上にも「このへんで手を緩めてもらえないでしょうか」と頭を下げていた。実は宇野には負い目があった。藤田が窮地に陥る原因となったGMOによるサイバー株の取得。これは宇野が創業したインテリジェンスの社長になっていた鎌田和彦がGMO社長の熊谷に持ちかけたものだった。宇野は当時、実父に頼まれて家業の大阪有線放送社(後のUSEN)を継いでいたが、インテリジェンス会長も兼任しているため経緯は承知している。 (宇野)「実はインテリジェンスの投資家からサイバー株を売却すべきだと何度も意見を受けおり、社長の鎌田から相談されました。そちら側の論理は否定できず(サイバー株を売るのは)致し方ないと思いました。GMOに売却することでそうなる(藤田が追い込まれる)とは思っていなかった。だから、私が事態を整理する責任があると思いました」 楽天からの出資を受けて窮地を救われた藤田はその後、村上から何度も撤退を提案されていたメディア事業の強化に力を注ぐ。村上だけではない。市場関係者からの冷たい視線はそれから数年間変わらず、サイバーの株価は低迷し続ける。

 

■「歴史が証明した」だが、もう藤田に迷いはなかった。アメーバブログのヒットとともに株価は底を脱し、動画配信のアベマTVも抱えるメディア事業はサイバーの主力事業へと育った。「あの時、村上さんの言い分を聞いていればサイバーエージェントもここまでは来なかったし、僕という経営者の可能性もあそこで絶たれていました。歴史が、どっちが正しいかを証明したと思います。あれより大変なことでなければなんとも思わなくなりました。その後も色々とたたかれ、トラブルや危機もあったけど、当時よりはマシだということで克服できました」 「有事こそ変革を起こせるチャンス」と語る最近の藤田氏創業から10年目の夜、藤田は自らのブログにそれまで味わった数々の苦難を挙げ、最後にこんなことをつづった。「悔しくて、見返したくて、いつか全員黙らせたくて」。今は何を思うのか。起業家は長い時間軸で自分が正しいことを証明するしかない。そんなに甘いものじゃない。でも、(もし過去に戻っても)絶対にもう一度やりますよ。これほどやりがいがあって大変で、しかも退屈しないものはないから。 20年前の逆境が一人の起業家を変えた。現在は全世界が新型コロナウイルスという見えない恐怖に直面している。未曽有の危機を前にしても藤田に気負いはない。「有事こそ変革を起こせるチャンス。それに我々の目標は『21世紀を代表する会社をつくる』こと。全くなし得ていない。まだまだです。世界に通用するプロダクトをつくるべく、粛々とやっていきますよ」