多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

在日の生活拠点に建つウトロ平和祈念館

2025年02月02日 | 博物館など

近鉄奈良線で30分ほどの伊勢田駅から西南西10分くらいのところに、厳しい差別と貧困のなか暮らし続けた在日朝鮮人の記憶と思いを、未来につなぐウトロ平和祈念館がある。
わたしがウトロという地名を知ったのは2021年8月の放火事件の報道記事だった。その後ヘイトクライムに関する講演で、「たまたま家人がいなかったが、死者が出てもおかしくないような事件だ。それも団体事務所ではなく、人が住む家だ」「はじめあいちトリエンナーレの「平和の少女像」展示を知り火をつけようとしたが警備が厳重だったので、名古屋の韓国学校に火をつけた。次に京都国際高校(元・韓国学園)に行こうとしてウトロの情報を知り、なんの関係もないのに火をつけた」という事実を知り、重大なヘイトクライム事件であったことを知った。
現地に祈念館があることを知り、いつか行ってみたいと思っていた。ウトロ訪問に当たり、参考になるものを事前に頭に入れておこうと図書館で借りだしたのが中村一成(いるそん)ウトロ ここで生き、ここで死ぬ(三一書房 2022.4)である。普通の概説書を読むつもりだったが、数多くの一世、二世、日本人支援者、韓国支援団体関係者への取材を多く含みドキュメンタリーの枠を越えるどっしり充実した書籍だった。残念ながら、見学までには肝心の立退き訴訟の前までしか読めていなかった。
この本で、ウトロの多くの子どもたちが通った西宇治中学のことを知っていたので、中学入口のところで左折し、校庭に沿って水路脇を歩くとたしかにウトロを見下ろす高台になっており、南側には巨大な陸上自衛隊大久保駐屯地の敷地が広がっていた。

校庭西端の崖を下りた右手にある広い庭のある建物が、まさに平和祈念館だった。つまり祈念館はウトロの東南端に位置する。ウトロは南北90m、東西330m、2.1haの広さの地域だ。
祈念館は2022年4月オープン、まだ3年目の新しい施設だ。2階が常設展示室、3階が企画展示室で現在は「ガザ」の問題を展示していた。
残念ながら館内は原則撮影禁止だった。
常設展は4つのパートから成る。以下、会場で購入した開館記念常設展示図録に「ウトロここで生き、ここで死ぬ」からの引用も含め紹介する(ページ数は中村著のページ数を示す)
1 なぜウトロに朝鮮人が住むようになったのか(1910-1945)
明治維新直後から日本は朝鮮半島への進出を始め、日清・日露戦争の勝利で侵略を進め、1910年韓国併合で完全な植民地とした。土地調査事業産米増殖計画により農民は疲弊し、なかには生活維持のため日本への出稼ぎに行かざるをえない人も増えていった。
京都では、逓信省が民間会社・国際工業(41年から日本国際航空工業 略称・日国)をパートナーに京都市伏見区、宇治市、久御山町にまたがる佐山・佐古エリアの約320haの土地に、飛行機製造会社と工場、逓信省との併用練習場パイロット養成場の建設計画を立て、1940年4月着工した(p30、31)
飛行場用地に平均50cmの盛り土をする土砂の「採取場所が現在のウトロと自衛隊大久保駐屯地だった」「竹藪や草木を伐採し、スコップやツルハシで土砂を採る。それらをモッコで運んでトロッコに載せ、機関車で牽引。北西の滑走路予定地などで下ろして人力で均す」「1日2000人を擁した作業の主力が朝鮮人労働者、その数は1300人に達したという」(p32)
徴用にとられた人の子どもたちがとても苦しんでいるのを近所で見たこともあるし、もしまた出頭命令が来たらどうしようかと思って、ほんとうに心配だったのです」(図録p9))国の仕事なので徴用にとられない住むところもある、配給もある、と各地から朝鮮人労働者と家族が集まり、飯場で暮らすようになった。
なおウトロという地名は、本来は宇治の入り口を意味する漢字の「宇土口」(うどぐち)だったが口をカタカナと思い込んだ役人の誤記で通称化したという。宇治市発足の1951年までには正式な地名となった(p3)

2 戦後のウトロでの生活 差別と貧困、劣悪な生活環境(1945-1988)
1945年8月日本は敗戦を迎え、朝鮮人労働者の多くは祖国に帰国したが、郷里との足がかりを失い帰るに帰れない人々もいた。金属くずを換金したり、日雇い仕事で食いつないだ。日本国際航空工業はトラック・バスの生産を行う新日国工業となったが「ウトロ住民に対しては、そこで暮らす、あるいは離れるための補償措置は一切とられず、旧会社の清算対象だった土地も放置された(p99)
そうしたなか、ハングルと朝鮮語を学ぼうという子どもと教える大人が出てきて自然発生的に民族学校ができた。全国共通の動きで47年10月当時578校存在した。ウトロでもその後デイサービス施設・エルファになった場所にでき、朝連(在日本朝鮮人連盟)久世学院になった(p70)が、48年1月文部省の通達と警察の弾圧で閉鎖することとなり、49年12月閉校した。子どもたちは小倉小学校に編入、当初からではないが、この小学校には朝鮮人講師による民族学級があった(p83)

民族学校はエルファの付近にあった
住民はみな貧しかったが、隣近所で支え合いながら人々の心の結びつきが非常に強いコミュニティとして存在した。当時の居間の復元が展示されていた。
ただ生活環境は厳しかった。もともと土砂を削って運び出した場所だったので、窪地で豪雨が降ると水浸しになった。トイレは汲取り式の共同トイレだったので「私ら正直、ウンコの中を泳いでいたようなもんです(p162)。住民はウトロの東隣の高台に建つ西宇治中学の講堂に避難した。この学校は1948年日国付属病院を転用し久世中学として開校した。ウトロからの1期生は3人、「まずは何人か試しに入れて、その子たちが模範生活して問題起こさないなら次の子も受け入れる(p129)条件付き入学だった。その後2世の多くがこの学校を卒業した。家が貧しく中学卒業の資格を得ると働きに出た。
●水道問題から土地明け渡し問題へ
ウトロは市による水対策を施されないだけでなく、下水道、さらに上水道すらなかった。井戸を使っていたが「最大の問題は水質だ。山間部の湧き水ではない。(略)時に赤濁し、油の浮いた」水(p185)。水道が敷設されない理由は、日産車体(新日国が62年に日産車体工機、70年に日産車体に改称)の土地だから埋設承諾を得ないといけない(p189)ことだった。 
1985年6月、ウトロ住民の「ウトロ地区に水道敷設を促進する同胞の会」が発足、(p200)、(給水は)「行政の義務」なので所有者の「承諾」はそもそも不要、要るなら行政が(日産車体から)承諾を得るべき、二枚腰の論理構成(p200)で主張し、会社と交渉するよう宇治市に求めた。
「2か月で5004人分の署名を集め、『市としても日産車体に承諾を求める交渉をする』との言質を引き出した」(p204)
日産車体はなかなか承諾しなかった。それが87年3月管財課長が宇治市役所を訪れ、水道管埋設についての「同意書」を提出した。敷設工事は翌年1月13日に始まった(p206)
だがこれには裏があった。日産車体は、自称ウトロの町内会長と交渉を進め、同意書提出と同日に、ウトロの土地を人と建物ごとその人物A氏に売却していた。そしてA氏は契約用に設立した西日本殖産を会社ごと転売し、ウトロから姿を消した。のちに「1.45億円の利ザヤを生み出していた」(p214)ことが判明した。
88年9月に西日本殖産の新たな代表から、住民に買取を求める通告書、12月には無条件立退きの通告書が送付された。対する住民は初めて町内会とウトロ土地問題対策委員会を結成し府と宇治市に要望書を提出、89年2月に業者に反論書を送った。また支援者は「地上げ反対! ウトロを守る会」を結成し、一丸となって歩む決意を表明した。
「2月2日、西日本殖産は5世帯を相手取り、土地明け渡しを求めて京都地裁に提訴、その後18次に亘り計69世帯を相手に訴訟を起こす。ほぼ全戸が被告とされた」(p226)
30年続く長い闘いが始まった

祈念館屋上から崖の上の西宇治中学方面を臨む。手前の白い屋根は復原された飯場の建屋。祈念館屋上には太陽光発電パネルも設置されていた
3 ウトロを守るたたかい 地元支援と国際連帯(1989-2007)
●裁判と支援活動
裁判の第1回口頭弁論は1989年3月8日に開かれた。
原告・西日本殖産の方針は不法占拠の存否、それだけだった。被告たちが「渡日した経緯も、徴用を逃れるために飯場に来た経緯や、そこで重労働に就いて日本の戦争を支え、戦後はボロのように捨てられ貧困と差別の中を生きてきたことなど埒外だった」(p245)
住民側の主張の論拠は民法162条の「取得時効」である。「所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者」は、最初から自分の所有物と思っていた場合(善意)で10年、そうでなくても20年経てば「その所有権を取得する」と定められている(p223-4)
他方、住民と守る会は、集会やデモ、パレードを通して土地問題を社会に訴えた。
89年4月29日には「地上げ反対! ウトロの集い」を開催、チマ・チョゴリ姿の女性たちが先頭に立ち、日産車体京都工場周辺を約700人で行進、同年11月には神奈川県平塚市の日産車体本社に赴いた。会社は対応を拒否(p232)
90年8月には「国際平和フォーラムINウトロ」を開催、西独訪日団の労組平和委員長の「ベンツやフォルクス・ワーゲンなどがユダヤ人やポーランド人に労働を強いた事実への贖いの動き」の報告があり、閉会後はウトロ広場での焼肉パーティーで盛り上がった(p248、250)
女性がメインの農楽隊も生まれた。1991年11月、東京銀座、日産本社への抗議活動で民族衣装を纏い民族楽器を打ち鳴らし、歩きながら訴えた(p258)。宇治市役所の庁舎内でも演奏した(p260)。農楽隊はウトロの代名詞となっていく。93年には京都駅近くの在日集住地区の祭り「東九条マダン」に出演した(p262)
だが、裁判の行方はある証拠により覆された。かつて1962年に日産車体が住民に対し、立退きを求める内容証明を送って来たとき地区内有志が「昭和20年8月日国会社は解体され、何一つ生活の保障もなく、ほうり出されたのであります。(略)会社では特にご討議の上私たちに売ってくださるようおはからい下さいます様要請いたします」と1970年2月付けで住民91名の署名をそえ、土地売却を求めた(p179-180)。この「70年要請書」のことだ。「文字の読み書きができない人が多いウトロで、有力者が『とにかく署名と判子を」で集めたわけで、それが何を意味するか知っている住民なんてほとんどいなかった」(p247)。しかし「平穏かつ公然に占有」への有力な反証となる。
裁判は、98年1月京都地裁で住民敗訴。家を撤去し土地を「明け渡せ」というものだった。98年12月大阪高裁でも敗訴、2000年11月最高裁により住民側の敗訴が確定した。これで強制執行が可能になる。
●韓国や国連の支援
支援者たちは、住民の居住権に重点を移す運動を展開した。国連人権条約にも「この規約の締結国は、自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利を認める(社会権規約11条1項 p282)とある。
2001年国連の担当者が予備調査で来日、9月の総括所見には、代替措置のない強制執行の可能性に対する委員会の「懸念」が盛り込まれた(p286)。2005年には国連人権委員会の人種差別に関する特別報告者、ドゥドゥ・ディエンが訪問、翌年「強制執行の危機を日本の行政当局が傍観していることへの懸念日本政府に対策を求める報告書が発表される(p307)
2004年9月韓国・春川市の江原大学で開催された「『韓・中・日』居住問題国際会議」で二世オモニ4人と支援者が訪韓し、ウトロの窮状と支援を訴えた。翌年2月韓国のNGO「KIN」(地球村同胞連帯)がウトロを訪問し住民への聴き取りを行った。帰国し「歴史清算! 居住権保障! ウトロ国際対策会議」を設置、6月から毎週土曜日、ソウル・仁寺洞に立ち募金と署名を呼び掛けた。国会議員や弁護士、俳優や映画監督、作家や宗教者ら33人を代表にした「ウトロ希望募金」も発足した(p301-302)。韓国市民のウトロ支援運動は広がり、関連記事のアクセスは1日10万に達する。8月末、ついに民間基金の総額は5億ウォン(当時のレートで約6300万円)を超えた(p310)
募金が世論を動かし、世論が韓国政府を動かした。2007年12月、08年の支援予算を30億ウォン(約3億6000万円)に増額、一括支援を決定、12月28日深夜には予算が可決された(p319)
韓国の動きを受け、11月京都府と宇治市が(日本の)国土交通省にウトロの住環境改善を要望し、同月国、府、市はウトロ地区住環境整備検討協議会」を発足させた(p323)
立退き裁判開始から20年弱、土地問題から約30年、ようやく行政が動いた

ウトロ地区の全景
4 新しいまちづくりとウトロ平和祈念館(2008―)
住民たちと支援者らの粘り強い闘いで、ウトロは強制退去の危機を乗り越え、新しい街づくりが始まった。
町内会が、「高齢者と障碍者が安心して暮らせる町づくり」「在日朝鮮人の文化と想いを未来につなげるまちづくり」「ウトロだけでなく周辺の人びとも大切にするまちづくり」などの基本構想を発表した(p324)
看板も、「不審者の侵入は許さない」「強制執行阻止」といったものは2007年12月に外し、08年以降、周囲との調和や地域との共生を意識したやわらかいイラストや、「まちのイメージ」を近隣に伝える内容に変わっていった(p324)
市営住宅建設が決まり、今まで住んでいた家屋の解体が2013年6月に始まった。住み慣れた家への愛着はひとしおだった。
「ここを建てて3年目で死んだ主人は『風呂とトイレだけは家の中にないといかん』と言ってね。必死で働きました。だから、この家は絶対に離したくないんです」。
解体が始まる。重機のエンジンが回転音を上げ、アーム先端の巨大な鋏が開く。2階部分に爪が食い込むと顔をしかめ、見る間に涙があふれ出す(p330)
2017年12月には市営住宅第1期棟が完成、年明けに40世帯63人が入居した。23年には第2期棟12戸が完成し、移転希望者は全て移り住む「土地問題」の着地である(p331)
一方、高齢で亡くなる人も増えてきた。最後の一世・姜景南が2020年11月死去し葬儀が行われた。彼女は第1期棟に居宅を得て一時は息子とともに入居したが、いつの間にか元の家に戻った(p334)。同年2月に楽しそうな顔でチャンゴを叩いている写真が掲示されていた。
22年4月、戦争から生まれた在日朝鮮人のまちウトロの歴史と自分たちが住むまちを守るため闘い、それを支援した内外の人びとの活動を伝えるウトロ平和祈念館がオープンした。

                                                祈念館のHPより
3階の企画展示室では「ガザ・パレスチナ 歴史と現在――ソムード(抵抗)」を開催していた。もちろん2023年10月7日に始まったイスラエルのガザ地区へのジェノサイドがトピックだが、第二次大戦後の1948年5月イスラエル独立、12月の国連・世界人権宣言の採択、国連のパレスチナ難民の即時帰還の権利確認に始まり、67年の第三次中東戦争、75年の「シオニズムは人種主義および人種差別の一形態である」国連総会決議(ただし91年撤回)、80年のイスラエルによる東エルサレム併合と首都宣言などを10枚のパネルで紹介し、地図や年表も含む本格的な展示だった。「おわりに」で岡真理さんのメッセージがあった。「協力」とあったがおそらく構想・企画なのだろう、さすがだと思った。
ちなみにわたしが訪問したのはガザ停戦が始まった日で、停戦がずっと続くことを心から祈った。
そして3階の南窓側スペースに「ウトロ地区放火事件」というパネル・コーナーがあった。冒頭に記した事件だが、中村著書から引用すると、2021年8月30日、「4時過ぎかな、『バン、バン』って音がして、襖を開けたら黒煙がすごかった」。火は5時間近く燃え、立て看板などを収めた倉庫や空き家など計7棟が全半焼した。 東側の2軒には2世帯5人が暮らしていた。死傷者が出ても不思議はなかった」(p341)。12月6日犯人逮捕(当時22歳)、翌年8月求刑どおり懲役4年の実刑判決が出た。
22年1月4日には有田芳生参議院議員らが訪問した。ちなみに国会議員のウトロ訪問は1990年の嶋崎衆議院議員ら以来だった。資料の一部は焼損したが4月30日祈念館がオープンした。文字通りのヘイトクライムがウトロで起こった。

多目的ホール。前日には100人規模の団体の訪問があり、ここで説明を受けたそうだ。
1階はウトロカフェというかなり広いスペースの多目的ホールになっている。団体見学のときなど、このホールを使い説明や講演に使うとのことだ。
それ以上に、民設民営でボランティアたちによる運営になっているので、ボランティア同士の親交を深める「お茶と談話」のスペースになっているそうだ。
またかなり広い前庭があり、一角(正面右側)に飯場の復元がある。この庭は、焼肉パーティにも使われるとのことで、いかにも在日の集まりにふさわしい拠点になっている。
わたしのあとに入場したのは、大阪の高校生だった。祖父が在日一世で、家族からこの施設をみて勉強してくるよういわれたとのことだった。そういうことまで初対面の見学客から聞き出せるのも、この施設らしいフレンドリーな雰囲気の展示館だった。
そんな談話のなかで、わたしは中村一成さんと岡真理さんがご夫婦であることを知り、驚いた。わたしは2010年に岡さん2017年に中村さんの講演を別々にお聞きしたことがあった。

在日の方の苦難の歴史の博物館は、高麗博物館在日韓人歴史資料館などいくつかありわたしも見学した。この祈念館は、日本での労働現場と生活拠点につくられたもので、その生活と「家」を守る運動の軌跡に特化した展示館だった。
こういう展示館は、地域の労働や風土により特徴があるはずなので、各地につくられると価値があると思う。
さらに、この展示館は、展示の構成がたいへん体系的でしっかりしていた。きっと監修者のレベルが高かったのだと思う。

ウトロ平和祈念館
 住所:京都府宇治市伊勢田町ウトロ51-43
 電話:0774-26-9222
 開館日:金・土・日・月曜日(年末・年始、盆休みあり) 
 開館時間:10:00~16:00
 入館料:一般500円、高校生以下100円、小学生以下無料

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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