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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

雑誌「青鞜」のらいてう、野枝、紅吉

2019年12月13日 | 観劇など
池袋の東京芸術劇場シアターウエストで、二兎社の「私たちは何も知らない」(永井愛作・演出)を観た。昨年夏「ザ・空気2 誰も書いてはならぬ」を観たのと、今年6月永井さんと望月衣塑子さん(東京新聞)の対談を聞き、そのときこの芝居を執筆中という話を聞いたからだった。「ザ・空気2」や「歌わせたい男たち」のような現代社会劇ではないので、平田オリザが明治・大正の文豪たちを扱った「日本文学盛衰史」や井上ひさしが樋口一葉一家をモデルにした「頭痛肩こり 樋口一葉」のような芝居かと思ったが、それとも違うジャンルの芝居だった。
これは、1911(明治44)年9月から16年2月まで足かけ5年52巻続いた婦人雑誌「青鞜」の編集グループをめぐる芝居である。ただし創刊のころの時期ではなく、尾竹紅吉が編集部に現れた1912年ごろ以降が対象となる。
パンフレットの伊藤詩織さんとの巻頭対談のはじめのほうで永井さんが「「青鞜」は歴史の教科書に出てくるが、1行くらいなのでよく知らなかった」と述べている。わたくしもまったく同感である。平塚ていてうについても同様だが、関東大震災後、甘粕憲兵大尉に絞殺された伊藤野枝のことは、「美は乱調にあり(瀬戸内晴美 1966)や映画「エロス+虐殺(吉田喜重監督、日本ATG 1970 野枝役は吉田の妻・岡田茉莉子が演じた)で知っていた。

舞台上、左下から右上に斜めに走るラインが幕になっていて、それが開きラップの歌声とともに芝居が始まる。このラインは緩やかな角度の階段で、ときには客車を表す。階段の壁の部分に扉があり、隣室への出入り口になっている。役者の出入りは下手・上手だけでなく、階段上、扉の4か所ということになる。また2幕だが、それぞれ10場ほどに細かく分かれ、暗転の際、この斜めストライブの舞台装置が演出上大きな効果を発揮していた。
芝居の前半は主としてらいてうと紅吉、後半は野枝が中心のストーリーだった。登場人物は、平塚らいてう朝倉あき)、伊藤野枝藤野涼子)、岩野清(大西礼芳)、尾竹紅吉夏子)、保持研(やすもちよし 富山えり子)、山田わか枝元萌)ここまでが青鞜の社員、そしてらいてうの3歳年下の恋人・若い燕の奥村博(須藤蓮)の7人である。
舞台は、らいてうに憧れた紅吉が上京し、初めて編集部を訪れ、実務を取り仕切っていた保持に冷たくあしらわれる場から始まる。もちろん雑誌・青鞜の編集経緯が縦糸になるが、紅吉とらいてうの恋愛、若い燕・奥村の登場と紅吉の嫉妬、らいてうと奥村の恋、紅吉の裏切り、野枝の恩師・辻への憧れと結婚、育児、清の愛と性をめぐる考察など、女性の感情と愛情のドラマが横糸となり紡ぎ出される。ラップのリズムのように、かなりテンポが早くわたくしにはなかなかついていけなかった。
本当はシナリオを読み、じっくり確認しながら書きたいところだが、現時点では発売されていない。パンフの冒頭で、永井さんが「森まゆみさんの『青鞜』の冒険――女が集まって雑誌をつくるということ』を読んだら(略)ぐっと身近になった」と書いていた。それで森の著書を図書館で借りて読んだところ、芝居に出てきたたいていのエピソードは書かれていた。それでこの本からの引用を多く使うが、シナリオとの違いがかなりある可能性もあるのでお許しいただきたい。(以下のページ数は『青鞜』の冒険』(平凡社 2013.6)のもの。原典は参考文献にある『青鞜』復刻版(不二出版)、『元始、女性は太陽であった――平塚らいてう自伝』(大月書房)などと推測される)

紅吉は、在籍1年半ほどだが、「五色の酒」を飲んだり、らいてうら女性3人で吉原に登楼して新聞ネタになり「世間」から「青鞜バッシング」されることになる。肺に影がみつかり茅ヶ崎の結核療養所に入所するが、らいてうの恋人・奥村を「殺す!」と大騒ぎを起こしいったん別れさせる。青鞜をやめて1年半後にライバル誌「番紅花(さふらん)」を創刊した。
実家を離れたらいてうが炊事洗濯に四苦八苦しているのをみて、野枝は「二人分作るのも四人分つくるのも手間は同じだから、炊事を実費で引き受けましょう」(p230)と提案し、らいてうは野枝の家の向かいに引っ越す。しかし「家のなかには炊事道具などほとんどなく、金盥がすき焼鍋に変わったり、鏡を裏返して、まな板代わりに使われたりしていました」「コマ切れのシチューまがいのものを、ご飯の上へかけたものなど、得体の知れないものをよくつくりました。仕事は手早い代りに、汚いことも、まずいことも平気です」(p231)、という状態で、好き嫌いの多い奥村が音を上げ、共同炊事は1か月ほどで終わった。
編集実務を一手に引き受けていた保持研が精神のバランスを崩し今治に帰郷したあと、らいてうは疲労困憊し、野枝に編集を託し千葉の御宿に静養に出かけるが、「広告を取りにゆく、原稿をえらぶ、印刷所にゆく、紙屋にゆく、そうして外出しつけない私はつかれきって帰って来るお腹をすかした子供が待っている(略)ひまひまを見ては洗濯もせねばならず食事のことも考えねばならず、校正も来るという有様、本当にまごついてしまった」(p258)という調子でやはりうまくいかない。そのあげく野枝は「あなたの代理というのでなければ、すべてまかしてくれるなら、私の生活とぴったりくっついてしまえば編集と経営をやってもいい」と主張した(p265)。らいてうは熟慮の末、1914年末に身をひくことにした。しかしやはりうまくいかず、翌1915年2月号が終刊となり雑誌・青鞜は姿を消す。
その間、創刊時の概則(会則)第一条は「本社は女流文学の発達を計り、各自天賦の特性を発揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす」(p55)だったが、創刊2周年の1913年10月号で「本社は女子の覚醒を促し」に変更(p201)し、文芸色を薄めた。野枝が編集人となった1915年には「まず私は今までの青鞜社のすべての規則を取り去ります。青鞜は今後無規則、無方針、無主張主義です」(p270)と変わるが、これでは1年余りで終刊になるのも仕方がない。
5年の間にいくつも誌上論争が起こった。
貞操をめぐり、生田花世の「他に生活手段がない場合、貞操を売ることもやむを得ない」という主張に対する安田皐月の「貞操を売って生きることの肯定は自分への侮辱であって、それでは人間性を失う」という論争(1914年12月号 p261)
原田皐月の「獄中の女より男に」という望まない妊娠で堕胎すると堕胎罪になる女性を扱った小説について、野枝の「親になる資格のないものが子どもを産むということは、これはほんとうに考えものだと思います」「いったん妊娠してからの堕胎ということになってくればそうはいかない」、らいてうの「堕胎の理由として「貧困」は考慮に入らないのか、また芸術や科学や社会事業とう自分の仕事を継続するために堕胎をする女性を罪悪とみるべきなのか」と女性の自己決定権にまで踏み込んだ堕胎論争(1915年6,9月号 p278)。さらに公娼をめぐり、「私娼のほうが社会の風俗を乱す」(p284)と公娼制度はやむを得ないとする野枝と「現在の公娼制度は日本の封建制が生み出したもの(略)公娼という奴隷売買兼高利業を保護する政策はだんぜんやめるべき」(p287)とデータに裏付けられた青山(山川)菊栄の「公娼」論争(1915年12-16年2月号)など、女性の人生に深く踏み込む論争も生み出した。らいてうは「 私は総てに於てまだ子供だが、特に性的生活に於てより多く子供であるらしい」として「性生活発展の経路」を断片的にも書いてみたいとまで述べた(p239 1914.5月号)
発禁を担当する警視庁警保局長に朝日新聞で「青鞜社の連中」は「色欲の餓鬼」であるまで言われた(p252)。発禁処分も経験し、人妻が若い愛人に語る荒木郁の小説「手紙」(1912年4月号)を皮切りに、福田英「婦人問題の解決」(1913年2月号)、原田皐月「獄中の女より男に」(1915年6月号)で発禁となった。
青鞜が創刊された1911年は坪内逍遥の文芸協会がイプセンの「人形の家」を上演した年でもあったが、「新しい女」の時代だった。らいてうは、精神的自由と内面的解放を重視した。そこで雑誌も、女性の生き方を自分でまじめに考える編集方針になったことがよくわかる。
ラストは、登場人物たちのその後の行く末の回想だった。野枝は28歳で1928年に虐殺され、清は泡鳴との離婚後再婚し1920年に死去した。らいてうは戦後、反戦・平和の旗手として活躍した。紅吉は陶芸家・富本憲吉と結婚したが、なぜか1946年に別居しその後童話を書いた。その他、保持は丸善をやめ明治生命勤務だった夫につき地方転勤を繰り返し、夫とその愛人のあいだに生まれた子を引き取って育て、1947年に死去した。一方山田わかは、3人の養子を育て戦時中は母性保護連盟の初代委員長になり、大日本婦人会の旗も振った。
らいてうの「青鞜」時代は25歳から29歳、紅吉は19歳から1年半ほど、野枝は17歳から21歳まで、野枝はわずか28歳で虐殺されたが、それにしても若い女性編集者グループの話である。しかしその間に、らいてうと野枝は結婚、出産、育児を体験した(紅吉も青鞜を離れてからだが結婚した)。

書籍・パンフ販売コーナーの永井愛さん
このように青鞜の5年はあまりにもドラマチックなエピソードがたくさん満ち溢れている。2つか3つ抜きだしただけで1本のシナリオが成立する。逆にこのシナリオは、あまりにも多くのエピソードを取り上げすぎて全体を見通しにくく、結果として観客は消化不良となり、もうひとつという気がした。
観劇直後は「私たちは何も知らない」というタイトルは、登場人物のだれも戦争に巻き込まれる「自分のその後の運命」を何も知らない、わたしたち現代の観客も丸7年も続く安倍暴走政権の下で同じだという意味かと思った。もう少し時間をおくと、それだけでなく、だれでも「何も知らない」のだから、青鞜の女性たちのように編集者スピリットをもち、自分の実生活や社会をみつめ、自分の考えを自分の言葉で発表しようという作者のひとつの提起であるようにも考えられる。ただ女性が見ると、「女性の生き方」「身体の自己決定権」がひとつのテーマになっているので、また違う感想を抱くのかもしれない。

役者7人はそれぞれがんばっていた。わたくしは保持研役・富山えり子が個性豊かで好感をもった。「縁の下の力持ち」の実務家という「役」得もあったかもしれない。また伊藤野枝役・藤野涼子も美人女優というだけでなく、線が太く、今後期待したい女優である。
なお個人的に興味を抱いたのは尾竹紅吉である。この芝居でも、らいてうとの同性愛、嫉妬、ライバル誌「番紅花(さふらん)」発刊など小悪魔のように暴れまわったが、らいてうも「じつに自由な無軌道ぶり」「無邪気で子供らしく、愛嬌者」と書いている。そしてあの富本憲吉と1914年に21歳で結婚したというのだから驚いた。芝居には出てこないが、なぜか戦後の1946年に別居し、「暮らしの手帖」に童話を多く掲載したとのことだ。ぜひ絵画も童話もどんな作品なのか、みてみたい。村山知義の妻・籌子と共通点があるかもしれない。
また小林哥津という女性は、紅吉、野枝と三羽烏(p161)といわれ、紅吉の仕事を手伝うようになり青鞜を離れていったとあるが、この人もどんな人だったのか興味がある。

☆久しぶりに池袋に行った。池袋西口公園が11月にリニューアル・オープンしたという新聞記事を見た記憶はあった。85平方メートルの舞台が設置され、左脇にカフェが開店していた。使用料は土日祝日20万円、平日15万円。ただ日比谷野音と違い、基本的に立ち席でオープンになっているので、使い勝手や集客力の程度はわからない。「野外劇場&多目的広場」というネーミングはちょっとオーバーな気がした。通行客にとっては、周囲にいくつかベンチ配置されたことが喜ばしい。わたくしもここに座って、弁当を食べた。

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