9月18日夜、阿佐ヶ谷市民講座で青井未帆さん(学習院大学)の「「集団的自衛権」の閣議決定7/1を受けて――今後を考える」という講演を聞いた。
青井さんは、1973年生まれ。学部がICUだったので三鷹・武蔵野はなじみの土地、かつ市民講座の呼びかけ人の一人、奥平康弘さん(東京大学名誉教授)の授業が強く印象に残っているので講師を引き受けたとのことだった。
●現 状
国会審議無視が最近の政治のひとつの特徴だ。昨年末に制定された「特定秘密保護法」のことを情報公開で調べてみて、じつはずいぶん多くの論点が事前に検討されていたことがわかってきた。しかしほとんど議員には知らされず、かつ時間にせかされて成立した。国会審議は形骸化してしまった。NSC法(国家安全保障会議設置法)と特定秘密保護法のあと、7月1日集団的自衛権の行使容認の閣議決定がなされた。
今後、集団的自衛権については個別法が改正される。9月17日、高村正彦副総裁は年末までに概要が明らかになると述べた。今後、個別法改正のなかでどんなものが出てくるか注視する必要がある。
公明党の山口那津男代表は「個別的自衛権と何も変わっていない」という。しかし額面どおりには受け取れない。おかしいことにはおかしいと言い続けることが大事だ。いったん受け入れたら終わりだ。
ルールはルールだと思い込むからルールであり、従わなくてもよいということになればルールでなくなる。法は従わないといけないことが生命線だ。おかしいことが行われたらおかしいと言い続けないといけない。
「おかしさ」を憲法にさかのぼって考えると、私見ではおかしいことが4つある。
1 憲法9条が法規範としてもってきた力を無に帰するものである。
2 本来憲法96条(憲法改正手続き条項)によらないといけないのにすっとばしたこと。
3 安倍首相らは憲法99条(憲法尊重擁護義務)に違反していること。
4 そもそも集団的自衛権行使容認への解釈の変更は、閣議決定でなしうる事がらではないこと。
いく重にも憲法違反をしており、やってはいけないことをやってしまった。権力は法に従わないといけないというのが近代の知恵だ。ところが政治に法が飲みこまれようとしている姿が見える。
これを認めると権力は「無制限」になる。
●閣議決定
最近の議論では、枕ことばのように「安保環境の変化」ということばが使われる。そして「脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている」とまでいう。ホルムズ海峡が引き合いに出されることもあるが、「世界のどこでも」というのだからもはや限定がない。「我が国の安全保障」という言葉はいままでより広い意味を含んでいる。「他国への攻撃であったとしてもその目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る」というが、「我が国の存立」というのは結局全世界だと考えられる。
同様に、「積極的平和主義」ということばも要注意だ。「積極的」と「平和主義」という2つのことばが組み合わされると、とたんに野蛮なことばになる。「国際協調主義に基づく積極的平和主義」とまでいう。
しかも「憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある」との説明で断言しないため、いっそうあいまいである。これでは法律という視点でみると、何も引き出せないし、役に立たない。
●閣議決定で決められることではない
憲法にさかのぼって考えてみよう。9条を素直に読めば、軍隊に権力を配分しない、つまり「無」の規定である。
大日本帝国憲法と日本国憲法を比較すると、天皇がもっていた権限は、だいたい内閣の権限(73条)として横滑りしている。しかしいくつかなくなっているものがある。「陸海軍の統帥」「陸海軍の編成」や「宣戦、講和」など軍事に関するいっさいの権限である。9条で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」といっているのだから当然である。
しかし政府は19回国会で自衛隊を創設した。これは無から有を生じさせる、やってはいけないことだった。ただし、9条でいう戦力ではない、防衛のためのもので憲法に合致するという解釈をとった。9条の規範力を認め、9条との整合性をとろうとしたからである。
●軍ではないこと
防衛作用は行政作用の一つ、帝国憲法時代の統帥大権は行政各部の指揮監督権にすぎないと、政府や防衛通説は説明してきた。「国の交戦権は、これを認めない」については、わが国の防衛は当然のこととして認められているとし、外見上殺傷と破壊であっても、「交戦権の行使」とは別の観念のものとされた。また自衛隊の編成や権限には法律の根拠が必要であり、できることのみ列挙された(ポジリスト)。外国の軍隊は逆に「できないこと」のみ列挙される(ネガリスト)。さらに自衛隊の活動には自衛のためなので限界がある。当初は国内に限定された。一方外国の軍隊は海外展開が本来任務だった。もともと憲法上ないのだから、当然である。自衛隊が海外で活動するには、ひとつひとつ法律の根拠がいる。海外で自由に活動するためにはかなり大きな改変が必要になる。そこでポイントになるのが「我が国の存立」や「脅威が世界のどの地域において発生しても」ということだ。最初は法律改正からはじめても、最終的には憲法を改正しないとできない。
わたくしの解釈とは異なるが、従来は自衛に徹する自衛隊の活動には、キリギリ正当化される余地がなくはなかった。防衛通説をつくった先生方は、一定の反省に基づき国連憲章を意識し、理想と現実のあいだで知的苦闘をしたと評価できる。それが60年間維持された。ところがこの蓄積をいっきょに崩すのが今回の閣議決定だ。これまでの政府解釈の立場からしても論理一貫性を無視している。こんなことをすれば統治への信頼が失われ、自分で自分の首を絞めることになる。
●国会の憲法解釈権
内閣提出法案(閣法)は、内閣法制局の参事官が事前に、憲法や他の法律との整合性をチェックし閣議を経て国会に提出される。そこで法制局は「法の番人」と呼ばれ、法のプロとして非常に権威が高かった。ところが、特定秘密保護法で甘い審査をしたり、集団的自衛権の行使容認にゴーサインを出し、権威は失墜した。では、どこが統治の正しさを担保するのか。それは国会しかないと考える。特定秘密保護法の審議などを考えると、国会が主役だというのは無邪気すぎるようようにも思う。しかし国会の憲法解釈権を、あきらめずに言い続けないといけない。これ以上国会の権限が侵食されたらいったいどうなるのか。ワイマール憲法が壊れたひとつの大きな原因は、国会が立法権を移譲したことなのだから。ほかの機関に頼れない以上、われわれは国会にもっとハッパをかけていかないといけない。
●わたしたちにできること
映画監督・伊丹万作は1946年8月「戦争責任者の問題」で、「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(略)私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。(略)町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。(略)だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ」
戦争で血を流したのは生身の人間だ。しかしそういうことは比較的簡単に忘れてしまう。「安全、安心、脅威、抑止」といった安全保障の概念にはどのくらいという限度がない。生活世界から足が離れ、いくらでも先取りし大きくなる。
また為政者の側にいた幣原喜重郎は「外交五十年」の「聞け野人の声」で、「再びこのような、自らの意思でもない戦争の悲惨事を味わしめぬよう、政治の組立から改めなければならぬということを、私はその時深く感じたのであった」と書いた。悲惨を味わったのは、国ではなく生身の国民である。威勢のよい議論をするのは比較的簡単だ。いま「ふわっとした右翼」の空気が動いていることを感じる。
伊丹がいう「だましだまされるような関係」、同じあやまちを繰り返してはいけない。
☆9月29日「安倍政権の暴走を止めよう! 国会包囲共同行動」昼も夜も集会があり、2000人もの市民が集まり、官邸前で「安部はやめろ!」とシュプレヒコールの声を上げた。
同じ週の10月3日、角筈区民ホールで「「戦争は教育から始まる」を阻止する10.3集会」(主催:都教委包囲・首都圏ネット)が行われた。
このように、青井さんがいう「おかしいことにはおかしいと言い続ける」集会は全国で続いている。
青井さんは、1973年生まれ。学部がICUだったので三鷹・武蔵野はなじみの土地、かつ市民講座の呼びかけ人の一人、奥平康弘さん(東京大学名誉教授)の授業が強く印象に残っているので講師を引き受けたとのことだった。
●現 状
国会審議無視が最近の政治のひとつの特徴だ。昨年末に制定された「特定秘密保護法」のことを情報公開で調べてみて、じつはずいぶん多くの論点が事前に検討されていたことがわかってきた。しかしほとんど議員には知らされず、かつ時間にせかされて成立した。国会審議は形骸化してしまった。NSC法(国家安全保障会議設置法)と特定秘密保護法のあと、7月1日集団的自衛権の行使容認の閣議決定がなされた。
今後、集団的自衛権については個別法が改正される。9月17日、高村正彦副総裁は年末までに概要が明らかになると述べた。今後、個別法改正のなかでどんなものが出てくるか注視する必要がある。
公明党の山口那津男代表は「個別的自衛権と何も変わっていない」という。しかし額面どおりには受け取れない。おかしいことにはおかしいと言い続けることが大事だ。いったん受け入れたら終わりだ。
ルールはルールだと思い込むからルールであり、従わなくてもよいということになればルールでなくなる。法は従わないといけないことが生命線だ。おかしいことが行われたらおかしいと言い続けないといけない。
「おかしさ」を憲法にさかのぼって考えると、私見ではおかしいことが4つある。
1 憲法9条が法規範としてもってきた力を無に帰するものである。
2 本来憲法96条(憲法改正手続き条項)によらないといけないのにすっとばしたこと。
3 安倍首相らは憲法99条(憲法尊重擁護義務)に違反していること。
4 そもそも集団的自衛権行使容認への解釈の変更は、閣議決定でなしうる事がらではないこと。
いく重にも憲法違反をしており、やってはいけないことをやってしまった。権力は法に従わないといけないというのが近代の知恵だ。ところが政治に法が飲みこまれようとしている姿が見える。
これを認めると権力は「無制限」になる。
●閣議決定
最近の議論では、枕ことばのように「安保環境の変化」ということばが使われる。そして「脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている」とまでいう。ホルムズ海峡が引き合いに出されることもあるが、「世界のどこでも」というのだからもはや限定がない。「我が国の安全保障」という言葉はいままでより広い意味を含んでいる。「他国への攻撃であったとしてもその目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る」というが、「我が国の存立」というのは結局全世界だと考えられる。
同様に、「積極的平和主義」ということばも要注意だ。「積極的」と「平和主義」という2つのことばが組み合わされると、とたんに野蛮なことばになる。「国際協調主義に基づく積極的平和主義」とまでいう。
しかも「憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある」との説明で断言しないため、いっそうあいまいである。これでは法律という視点でみると、何も引き出せないし、役に立たない。
●閣議決定で決められることではない
憲法にさかのぼって考えてみよう。9条を素直に読めば、軍隊に権力を配分しない、つまり「無」の規定である。
大日本帝国憲法と日本国憲法を比較すると、天皇がもっていた権限は、だいたい内閣の権限(73条)として横滑りしている。しかしいくつかなくなっているものがある。「陸海軍の統帥」「陸海軍の編成」や「宣戦、講和」など軍事に関するいっさいの権限である。9条で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」といっているのだから当然である。
しかし政府は19回国会で自衛隊を創設した。これは無から有を生じさせる、やってはいけないことだった。ただし、9条でいう戦力ではない、防衛のためのもので憲法に合致するという解釈をとった。9条の規範力を認め、9条との整合性をとろうとしたからである。
●軍ではないこと
防衛作用は行政作用の一つ、帝国憲法時代の統帥大権は行政各部の指揮監督権にすぎないと、政府や防衛通説は説明してきた。「国の交戦権は、これを認めない」については、わが国の防衛は当然のこととして認められているとし、外見上殺傷と破壊であっても、「交戦権の行使」とは別の観念のものとされた。また自衛隊の編成や権限には法律の根拠が必要であり、できることのみ列挙された(ポジリスト)。外国の軍隊は逆に「できないこと」のみ列挙される(ネガリスト)。さらに自衛隊の活動には自衛のためなので限界がある。当初は国内に限定された。一方外国の軍隊は海外展開が本来任務だった。もともと憲法上ないのだから、当然である。自衛隊が海外で活動するには、ひとつひとつ法律の根拠がいる。海外で自由に活動するためにはかなり大きな改変が必要になる。そこでポイントになるのが「我が国の存立」や「脅威が世界のどの地域において発生しても」ということだ。最初は法律改正からはじめても、最終的には憲法を改正しないとできない。
わたくしの解釈とは異なるが、従来は自衛に徹する自衛隊の活動には、キリギリ正当化される余地がなくはなかった。防衛通説をつくった先生方は、一定の反省に基づき国連憲章を意識し、理想と現実のあいだで知的苦闘をしたと評価できる。それが60年間維持された。ところがこの蓄積をいっきょに崩すのが今回の閣議決定だ。これまでの政府解釈の立場からしても論理一貫性を無視している。こんなことをすれば統治への信頼が失われ、自分で自分の首を絞めることになる。
●国会の憲法解釈権
内閣提出法案(閣法)は、内閣法制局の参事官が事前に、憲法や他の法律との整合性をチェックし閣議を経て国会に提出される。そこで法制局は「法の番人」と呼ばれ、法のプロとして非常に権威が高かった。ところが、特定秘密保護法で甘い審査をしたり、集団的自衛権の行使容認にゴーサインを出し、権威は失墜した。では、どこが統治の正しさを担保するのか。それは国会しかないと考える。特定秘密保護法の審議などを考えると、国会が主役だというのは無邪気すぎるようようにも思う。しかし国会の憲法解釈権を、あきらめずに言い続けないといけない。これ以上国会の権限が侵食されたらいったいどうなるのか。ワイマール憲法が壊れたひとつの大きな原因は、国会が立法権を移譲したことなのだから。ほかの機関に頼れない以上、われわれは国会にもっとハッパをかけていかないといけない。
●わたしたちにできること
映画監督・伊丹万作は1946年8月「戦争責任者の問題」で、「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(略)私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。(略)町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。(略)だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ」
戦争で血を流したのは生身の人間だ。しかしそういうことは比較的簡単に忘れてしまう。「安全、安心、脅威、抑止」といった安全保障の概念にはどのくらいという限度がない。生活世界から足が離れ、いくらでも先取りし大きくなる。
また為政者の側にいた幣原喜重郎は「外交五十年」の「聞け野人の声」で、「再びこのような、自らの意思でもない戦争の悲惨事を味わしめぬよう、政治の組立から改めなければならぬということを、私はその時深く感じたのであった」と書いた。悲惨を味わったのは、国ではなく生身の国民である。威勢のよい議論をするのは比較的簡単だ。いま「ふわっとした右翼」の空気が動いていることを感じる。
伊丹がいう「だましだまされるような関係」、同じあやまちを繰り返してはいけない。
☆9月29日「安倍政権の暴走を止めよう! 国会包囲共同行動」昼も夜も集会があり、2000人もの市民が集まり、官邸前で「安部はやめろ!」とシュプレヒコールの声を上げた。
同じ週の10月3日、角筈区民ホールで「「戦争は教育から始まる」を阻止する10.3集会」(主催:都教委包囲・首都圏ネット)が行われた。
このように、青井さんがいう「おかしいことにはおかしいと言い続ける」集会は全国で続いている。