多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

関東大震災と本所賀川記念館

2012年07月10日 | 日記
スカイツリーがきれいに見える都営地下鉄・本所吾妻橋の駅から徒歩5分、5階建ての白い鉄筋の建物がある。教会と保育園と児童館の複合施設だ。右隣は中之郷信用組合、左隣は相撲部屋の東関部屋。教会と保育園の複合施設は神戸でも松沢でも同じなので理解できる。中之郷信用組合はじつは賀川豊彦が関東大震災の救護活動で設立した信用組合で、組合員数4万4000人、支店数17のかなりの規模の信組である。相撲部屋があるのは、ここから両国・国技館まで2キロも離れていないからだ。
わたくしは神戸の賀川記念館と上北沢の記念館は見学したことがある。そこで本所の記念館もぜひ一度見学させてほしいと思っていた。それが梅雨の季節になってやっと実現した。なおこの文は、本所賀川記念館「40年の歩み」(2009)、「歩もうともに手をつないで」(神戸淳吉 1988 PHP)、「賀川豊彦」(林啓介 賀川豊彦記念 2004 鳴門友愛会)を参考にしている。

いまから約90年前の1923年9月相模湾沖でマグニチュード7.9の大地震が発生した。死者・行方不明10万5千余、被災家屋10万5000戸の大きな被害をもたらした。関東大震災である。
当時35歳の賀川豊彦は、ちょうどイエスの友会の第1回修養会が8月25日から29日まで御殿場の東山荘で開催され神戸に戻ったところだった。大地震が起きたと聞き、9月2日(日)18時の山城丸で横浜へ向かい、4日に上陸し徒歩で東京に向かった。そして大田区六郷から品川まで電車に乗り5日に日比谷の震災救済事務所を訪問した。つい4,5日前に御殿場でいっしょだったイエスの友会の石田友治は、あまりにも早く豊彦が助けに来てくれたので感激した。賀川は7日夜いったん神戸に戻り、約1ヵ月関西、四国、九州で58回講演し義捐金7500円を集めた。そして10月に上京し、もっとも被害の大きかった本所松倉町に救援の拠点を置いた。東京―神戸はいまは3時間足らずだが、当時は特急で9時間弱かかった。何度も往復するだけでも、たいへんな体力である。 
本所区(現在の墨田区南部)は消失区域95%、死亡行方不明5万4000人という地区だった。松倉町は、多くの犠牲者を出したことで有名な陸軍被服廠跡地や東京都慰霊堂、東京都慰霊堂のある横網町公園から1キロ足らずの町である。拠点を置いた場所はキリスト教系のセツルメント興望館の焼跡で、ここにアメリカ赤十字から寄付された5張りの大テントを張り、子どもや婦人を収容した。次にバラックを建て本所基督教産業青年会を発足させた。賀川は神戸でやっていたセツルメントを東京でもやりたいと願った。本所は中小企業が多かったので産業青年会という名前にした。23年1月光の園託児所(その後の保育学校)を設立、24年夏には林間学校や臨海学校を開始した。

賀川はこの場所に大テントを張り救援活動を開始した
24年4月には荏原郡松沢(現在の世田谷区上北沢)に家を建て、夜は松沢に帰るようになった。27年4月には江東消費組合を設立、米、麦、醤油、砂糖、肉、缶詰、薪炭、被服、雑貨などを扱った。28年6月庶民のための金融機関・中之郷質庫信用組合を設立した。「隣人愛による相互扶助」を経営理念とする組合だ。あまりの激務で疲れ果てて通勤のオートバイが玉電とぶつかり大怪我をしたこともあった。

中之郷信用組合本店
なお神戸から上京した木立義道、薄葉信、深田種嗣ら20代前半の若者が賀川を強力にサポートした。
1年前の東日本大震災を思い出すとわかるが、避難民がまず困るのは、寝る場所、食べ物、当座の資金、病気の治療である。賀川はそれらを大テント、消費組合、信用組合などで、システマティックに整備していったのである。なお病院は、まず神戸の診療所の医師・馬島?が上京し、少し後になるが1933年、東京医療利用組合中野組合病院がスタートした。
また松倉では、1928年9月本所裁縫女学校(31年から東京家政専修学校)、29年3月本所イエス団をつくった。「わたくしが本所でやりたい仕事は、要するに神戸の仕事をそのままここへ持ってくることであった」という言葉どおりのことが実現した。

こうして松倉の諸施設はだんだん発展していったが、1945年3月の大空襲でなにもかも焼け落ちた。
戦後、教会や保育園は再開し、1969年10月ついに鉄筋5階建ての本所賀川記念館が完成した。この建物には宗教法人東駒形教会、財団法人本所賀川記念館、社会福祉法人雲柱社光の園保育学校の3法人が共存している。精神的バックボーンは教会である。
その他、墨田区と港区から学童クラブ(小学生対象)や児童クラブ(乳幼児から18歳までの児童対象)の指定管理運営の委託を受けている。
また、ひとり暮らしの高齢者のための配食サービス「コスモス会」、外国籍の人に日本語を教える日本語教室などのボランティア活動の拠点となっている。
さらに読書会や研究会を開催し、「賀川豊彦研究」や「本所賀川記念館レポート」を発刊している。

本所賀川記念館。屋上の十字架が印象的だ
賀川は、1947,48年ノーベル文学賞の候補、1954-56の3年間平和賞の候補となった。佐藤栄作などでなく、賀川だったらどんなによかっただろう。
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