多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

花柳寿南海の舞踊の凄み

2008年09月26日 | 観劇など
9月24日(水)夜、「花柳寿南海と花柳翫一の會」の日本舞踊をみた。わたしは日舞どころか、能・狂言やバレー・フラメンコもみたことがない。人間国宝が出演するこの会のチケットをたまたま頂いたのでいったいどんなものかと、見に行った次第だ。

国立劇場前の歩道は週1度くらい通っているが、館内に入るのは約30年ぶりのこと。赤い提灯が華やかさを盛り上げている。和服の中年女性が大半かと予想して来たが、スーツ姿の男性も2割くらいいて安心した。ただたいていの男性はカップルで来場している。
最初の演目、長唄「鳥獣戯画」は遅れていったのでみられず、長唄「黒塚」(作詞・木村富子、作曲・四世杵屋佐吉)からみた。
奥州・安達が原で、本当の姿は鬼の老女・岩手が熊野の僧・祐慶と2人の山伏一行を襲うが、逆に法力で敗北するというストーリー。3場から成り78分もかかる大曲だった。岩手を花柳翫一(かんいち)、僧・祐慶を花柳流家元の4世花柳壽輔が演じた。祐慶ら山伏と強力(ごうりき)の4人が花道から登場し、安達が原の岩手の家で仮寝の宿を乞うところから始まるがはじめの10分くらいはただ座ってセリフを話すだけ。しかし座っているだけでもポーズが決まっており、からくり仕掛けの人形のように歩くだけでも腰が定まっていて美しい。体の動きがつくりだす様式美を目の当たりにした。セリフもあるし、鬼の姿で舞う場面の隈取をした化粧は歌舞伎並だし、ちょっとひょうきんな強力の役(花柳歌七郎)は「抜き足、差し足、忍び足」で歩いたり「コロン」と寝たりするオーバーアクションもあったし、歌舞伎の舞台をみているようだった。おまけに歌舞伎で「成駒屋」と客席から声がかかるように、ときどき「翫一!」と声が上がった。いったい歌舞伎とどこが違うのかよくわからなかった。日本舞踊の別名は歌舞伎舞踊なのだから同じようなものかもしれないが・・・
25分の休憩をはさみ、長唄新作「卒塔婆小町(そとばこまち)」(作詞・杉昌郎、作曲・今藤政太郎)。この作品の初演は、驚くべきことに1993年ニューヨークでフラメンコの長嶺ヤス子と尾上菊之丞による上演だったそうだ。都落ちしようと朽木(卒塔婆)に腰掛ける老女はじつは小野小町の成れの果て、そこを通りかかった僧が卒塔婆に座ってはいけないと諭したが、老婆と善と悪、煩悩と菩提について問答となる。僧は悟りの深い乞食だと感心する。
シテの老婆は花柳寿南海(としなみ)、ワキの僧が西川扇藏、お二人とも80代の人間国宝である。
手の動きひとつとっても表現力がある。こちらははるか遠くから見ているのだが、視線あるいは眼差しそのものに表現力がある。さすがに気のせいかもしれないが、後姿の長い白髪からも表現力を発しているように感じた。
もう30年も前のことだがオンシアター自由劇場の「リチャード三世」の(たぶん串田和美の)演技をみて肉体の表現力に驚いたことがある。今回はそれを上回る驚きだった。
飲み屋のママさんをやっている女優さんが「日舞は役者の必修科目」と言っていたが、この舞台をみてたしかにそうかもしれないと思った。
作曲した今藤政太郎氏は「この曲には色即是空の心が込められている」とパンフレットに書いているが、「花の色は移りにけりな」という無常感がにじみ出ているような身体の動きは「表現力」の域を超えているように感じられた。早い動き以上にゆっくりした仕種や動きのほうが凄みを感じた。日舞をみるポイントがわかっていないのだが、せめて演目の筋書きくらいは予習してから来ればよかったと後悔した。
花柳寿南海さんは、昔から「吾輩は猫である」「銀座鼠の独り言」など創作に熱心な舞踊家だった。「土や石を演じることもできる」とおっしゃっていた。

その他、「黒塚」の大きな三日月とススキの原と松で夜の風景をつくった舞台美術、主人公の見せ場で照らす照明が着物に反射する美しさ、「卒都婆小町」を唄った今藤美知さんの低音の女声の魅力、船の櫓の動きを表す太鼓の音など、いろいろ新しい発見があった。
「バレーやオペラもいいけれど、日本舞踊も捨てたものではない」という花柳先生の言葉を十分納得できた夜だった。さすが人間国宝の技である
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