6月23日(火)夜、「『社民党・保坂のぶと』さんを応援する新宿・渋谷・中野の集い」が中野区勤労福祉会館で開催された。参加者は150人、すでに東京の東部、北部、南部、多摩でブロック別集会を開催したそうだ。
この日のメインは、保坂のぶとさん、雨宮処凛さん、池田一慶さんの「こんな日本にだれがした」という鼎談で、保坂さんのコーディネイトで進行した。
雨宮さんはフリーターをしていた94―99年のあいだ、会場に近い中野5丁目に住んでいた。その当時は、フリーターという雇用形態は個人の好みとされていた。しかし実際にはバブル崩壊後の「就職氷河期」が始まっておりフリーターしか選択のしようがなかった。その後「自己責任」という言葉を小泉純一郎が流行(はや)らせた。池田さんがニコニコ動画に登場すると(おもに若い世代からと思われる読者から)いまも「池田、甘えるな、自己責任で選んでるんだろう。いやなら正社員になれ」という書き込みが大量に来るそうだ。
雨宮「郵政選挙のころは、小泉が構造改革でぶっ壊してくれれば、そのおこぼれをもらえるという幻想が一部にあった。しかし生活はリアルに苦しくなっていった。そして2006年ごろから若い人が全国で労働組合を結成し始め、団体交渉で権利を獲得していった。違法なことには違法だと声を上げていい、こんな権利があったことに気づいていったのがこの3年だった」
池田さんは、日野自動車で派遣労働者の組合をつくった。トラック製造ラインで働いていたが、トイレに行くにも指導員呼び出しボタンを押して社員を呼び出し、トイレのあいだはラインがストップし異常事態となるので、電光掲示板に「今日のライン停止時間○分、今日の目標○台」と表示され無言のプレッシャーを受けた。
まったく同じツナギの作業服を着て同じ仕事をしていても、正社員は年収600万、期間従業員400万円、派遣社員200-250万円と待遇は違う。さらに派遣社員は、工場近くの寮に住むので3人部屋で1人3万8000円の寮費、さらに冷蔵庫、コタツ、ふとんなどに毎月レンタル料金や光熱費が天引きされるので貯金するのはむずかしい。病気になればクビだ。
これまで派遣社員はクビになっても、ほかの会社や業種へ移動できた。しかしすべての業種から仕事がなくなった結果が昨年末の派遣村だった。
支援に行った池田さんは「連日、入村者から相談を受けた。一人一人生きるか死ぬかの問題をかかえていた。毎日が戦場のようだった」と当時を振り返った。保坂さんは入村者と話したとき、何人もの人から「早く仕事をしたい」と言われたことが印象に残っているという。
次に、雇用保険など保険を含めた社会保障の問題に進んだ。構造改革により社会保険によるセーフティネットはどんどん掘り崩されていった。雇用が不安定な人のために雇用保険をつかって1960年代につくられた雇用促進住宅を、日雇い派遣の人は使えない。それどころか池田さんが入居可能かハローワークに問合せに行った08年には「全面入居禁止」の方針を打ち出した。「不要な財産はもたない」が政府の論理だった。しかし緊急用の住宅として活用するよう現場から働きかけた結果、家賃1.5~3万円で、5月現在6500人の人が利用できるようになった。
派遣社員は社会保険に加入するにも受給するにも、正社員と比較してハンディがあり使いにくい。さらに派遣会社は「社会保険に入ると給料が低くなる」とセールストークした。一方、雇用保険の積立金は6兆円、労災保険の積立金は8兆円にも上る。小泉政権の「骨太の方針」は毎年社会保障費2200億円削減をうたい、保険の積立金をターゲットにねらった。かつては6か月働いて失業すれば保険金を受給できた。しかし2年前の10月に1年働いていないと原則として保険金ができないようになり、ハードルが2倍に高くなった。普通の国ならデモが起こって不思議でない不利益変更だった。
最後のセーフティネットが生活保護だ。しかし「まさか自分が生活保護を申請するとは」と考える人は多い。また生活保護申請すると必ず親・兄弟・子どもに扶養照会という書面が送付されるので「どうしてもそれはできない」という人も多い。
ここ数年で、こんな日本、こんな社会になってしまった。
池田「一人にならず、仲間とつながり声を上げることが大切だ。そして行動に出る。まず信頼できる人に投票すること。必ず仲間がいるので、あきらめず、つながりながら抵抗していこう」
昨年暮れ、大分キヤノンが派遣社員を大量に解雇した。親会社のキヤノンの会長は日本経団連の御手洗冨士夫会長だ。「解雇した派遣労働者に、たとえば基金をつくれないか」と保坂さんが提案すると、経営者は「ぜひ検討させてほしい」と答えた。労働組合との交渉により大分キヤノンと業務請負会社がそれぞれ1億円ずつ拠出し、4月27日700人に解決金が支払われた。これが労働組合のすごさである。
保坂「かつてエネルギー政策の転換により炭鉱労働者が大量に失業したとき、国策の変更だったという理由で、引っ越し費用、住むための家屋、職業訓練、生活支援金、また就業斡旋にいたるまで3年間にわたり、支援制度をつくった歴史がある。闘い取ったのはわれわれの先輩だ。この制度が最後に適用されたのは97年で、そう昔のことではない。そのときの経験を生かし、老・壮・青の三結合により、セーフティネットづくりをぜひ実現したい」
●地域からの応援スピーチ
国労北見の方、東京ユニオンの方、人にやさしい区政をつくる会の方、中野のMさんの4人からスピーチがあった。
国労北見の方は、分割民営化で職を失い「オレの仕事を返せ」と23年闘い続けていることをアピールした。東京ユニオンの方から、民主・社民・国民新党の野党3党が合意した労働者派遣法抜本改正案について解説があった。柱は、1.労働者派遣法は派遣労働者を保護する法律であることを明記する、2.違法な派遣は派遣先に「みなし雇用」させる、3.登録型派遣の原則禁止、4.製造業への派遣の原則禁止、の4つである。人にやさしい区政をつくる会の方は中野区長の居直りを許さないと訴えた。
保坂さんが内申書裁判を闘っていた高校生のころから注目していたMさんは、昨年の沖縄戦教科書検定や、東京の中高一貫校に「つくる会」教科書が一方的に採択されるなど、どんどん右傾化する教育に待ったをかけたいと述べた。
それぞれの人がそれぞれの立場から、人権感覚をもち人の痛みを知る保坂さんへの期待、「保坂のぶとさんと一緒に、国会の『見ちゃダメ・シール』を剥がしましょう」という呼びかけ、教育問題で国会での活躍への期待など、エールを送った。
池田さんと保坂さんから「決意表明」があった。
●池田一慶さんのスピーチ
派遣社員として工場の現場で働き、組合をつくり年越し派遣村に応援にも行った。この間多くのことが変わった。しかし今年1月1日の新聞が忘れられない。派遣村が大きく報道される一方、大阪で餓死した派遣社員の記事が出ていた。これが日本の実情だ。いまも続いている。これをなんとか変えたい。
運動が広がるとともに、自分は社会が見えるようになってきた。派遣の立場から政治を変えていきたい。
●保坂のぶとさんのスピーチ
国会のなかで議員は意外に孤独だ。とくに教育基本法の特別委員会のときは、50人のなかで反対派は共産党の石井議員とたった2人だけだった。しかしどんなときもチャンスがある。タウンミーティング問題を掘り起こすと、「やらせ」に対する世間の批判が渦まいた。
たとえ与野党逆転で政権交替しても、民主党がこれまでの自民党と同じことをやっていたのでは困る。わたしたちがいることで明らかに違うようにしたい。本日話が出た、労働者派遣法の問題も、社会保障の問題も、雇用保険の問題も変えていきたい。少数でもみなさんが付いていれば勇気百倍だ。
最後に、全員で「We shall overcome」を合唱し、「団結がんばろう!」で集会を締めた。「We shall overcome」は、増田都子さん(元・九段中学)のテーマソングなので歌いやすかった。この日はロックバンドによるスローテンポの伴奏だった。そういえば日ごろ増田さんの集会でおみかけする東京清掃労働組合など西部全労協や国労争議団の方の姿をみかけた。
この日のメインは、保坂のぶとさん、雨宮処凛さん、池田一慶さんの「こんな日本にだれがした」という鼎談で、保坂さんのコーディネイトで進行した。
雨宮さんはフリーターをしていた94―99年のあいだ、会場に近い中野5丁目に住んでいた。その当時は、フリーターという雇用形態は個人の好みとされていた。しかし実際にはバブル崩壊後の「就職氷河期」が始まっておりフリーターしか選択のしようがなかった。その後「自己責任」という言葉を小泉純一郎が流行(はや)らせた。池田さんがニコニコ動画に登場すると(おもに若い世代からと思われる読者から)いまも「池田、甘えるな、自己責任で選んでるんだろう。いやなら正社員になれ」という書き込みが大量に来るそうだ。
雨宮「郵政選挙のころは、小泉が構造改革でぶっ壊してくれれば、そのおこぼれをもらえるという幻想が一部にあった。しかし生活はリアルに苦しくなっていった。そして2006年ごろから若い人が全国で労働組合を結成し始め、団体交渉で権利を獲得していった。違法なことには違法だと声を上げていい、こんな権利があったことに気づいていったのがこの3年だった」
池田さんは、日野自動車で派遣労働者の組合をつくった。トラック製造ラインで働いていたが、トイレに行くにも指導員呼び出しボタンを押して社員を呼び出し、トイレのあいだはラインがストップし異常事態となるので、電光掲示板に「今日のライン停止時間○分、今日の目標○台」と表示され無言のプレッシャーを受けた。
まったく同じツナギの作業服を着て同じ仕事をしていても、正社員は年収600万、期間従業員400万円、派遣社員200-250万円と待遇は違う。さらに派遣社員は、工場近くの寮に住むので3人部屋で1人3万8000円の寮費、さらに冷蔵庫、コタツ、ふとんなどに毎月レンタル料金や光熱費が天引きされるので貯金するのはむずかしい。病気になればクビだ。
これまで派遣社員はクビになっても、ほかの会社や業種へ移動できた。しかしすべての業種から仕事がなくなった結果が昨年末の派遣村だった。
支援に行った池田さんは「連日、入村者から相談を受けた。一人一人生きるか死ぬかの問題をかかえていた。毎日が戦場のようだった」と当時を振り返った。保坂さんは入村者と話したとき、何人もの人から「早く仕事をしたい」と言われたことが印象に残っているという。
次に、雇用保険など保険を含めた社会保障の問題に進んだ。構造改革により社会保険によるセーフティネットはどんどん掘り崩されていった。雇用が不安定な人のために雇用保険をつかって1960年代につくられた雇用促進住宅を、日雇い派遣の人は使えない。それどころか池田さんが入居可能かハローワークに問合せに行った08年には「全面入居禁止」の方針を打ち出した。「不要な財産はもたない」が政府の論理だった。しかし緊急用の住宅として活用するよう現場から働きかけた結果、家賃1.5~3万円で、5月現在6500人の人が利用できるようになった。
派遣社員は社会保険に加入するにも受給するにも、正社員と比較してハンディがあり使いにくい。さらに派遣会社は「社会保険に入ると給料が低くなる」とセールストークした。一方、雇用保険の積立金は6兆円、労災保険の積立金は8兆円にも上る。小泉政権の「骨太の方針」は毎年社会保障費2200億円削減をうたい、保険の積立金をターゲットにねらった。かつては6か月働いて失業すれば保険金を受給できた。しかし2年前の10月に1年働いていないと原則として保険金ができないようになり、ハードルが2倍に高くなった。普通の国ならデモが起こって不思議でない不利益変更だった。
最後のセーフティネットが生活保護だ。しかし「まさか自分が生活保護を申請するとは」と考える人は多い。また生活保護申請すると必ず親・兄弟・子どもに扶養照会という書面が送付されるので「どうしてもそれはできない」という人も多い。
ここ数年で、こんな日本、こんな社会になってしまった。
池田「一人にならず、仲間とつながり声を上げることが大切だ。そして行動に出る。まず信頼できる人に投票すること。必ず仲間がいるので、あきらめず、つながりながら抵抗していこう」
昨年暮れ、大分キヤノンが派遣社員を大量に解雇した。親会社のキヤノンの会長は日本経団連の御手洗冨士夫会長だ。「解雇した派遣労働者に、たとえば基金をつくれないか」と保坂さんが提案すると、経営者は「ぜひ検討させてほしい」と答えた。労働組合との交渉により大分キヤノンと業務請負会社がそれぞれ1億円ずつ拠出し、4月27日700人に解決金が支払われた。これが労働組合のすごさである。
保坂「かつてエネルギー政策の転換により炭鉱労働者が大量に失業したとき、国策の変更だったという理由で、引っ越し費用、住むための家屋、職業訓練、生活支援金、また就業斡旋にいたるまで3年間にわたり、支援制度をつくった歴史がある。闘い取ったのはわれわれの先輩だ。この制度が最後に適用されたのは97年で、そう昔のことではない。そのときの経験を生かし、老・壮・青の三結合により、セーフティネットづくりをぜひ実現したい」
●地域からの応援スピーチ
国労北見の方、東京ユニオンの方、人にやさしい区政をつくる会の方、中野のMさんの4人からスピーチがあった。
国労北見の方は、分割民営化で職を失い「オレの仕事を返せ」と23年闘い続けていることをアピールした。東京ユニオンの方から、民主・社民・国民新党の野党3党が合意した労働者派遣法抜本改正案について解説があった。柱は、1.労働者派遣法は派遣労働者を保護する法律であることを明記する、2.違法な派遣は派遣先に「みなし雇用」させる、3.登録型派遣の原則禁止、4.製造業への派遣の原則禁止、の4つである。人にやさしい区政をつくる会の方は中野区長の居直りを許さないと訴えた。
保坂さんが内申書裁判を闘っていた高校生のころから注目していたMさんは、昨年の沖縄戦教科書検定や、東京の中高一貫校に「つくる会」教科書が一方的に採択されるなど、どんどん右傾化する教育に待ったをかけたいと述べた。
それぞれの人がそれぞれの立場から、人権感覚をもち人の痛みを知る保坂さんへの期待、「保坂のぶとさんと一緒に、国会の『見ちゃダメ・シール』を剥がしましょう」という呼びかけ、教育問題で国会での活躍への期待など、エールを送った。
池田さんと保坂さんから「決意表明」があった。
●池田一慶さんのスピーチ
派遣社員として工場の現場で働き、組合をつくり年越し派遣村に応援にも行った。この間多くのことが変わった。しかし今年1月1日の新聞が忘れられない。派遣村が大きく報道される一方、大阪で餓死した派遣社員の記事が出ていた。これが日本の実情だ。いまも続いている。これをなんとか変えたい。
運動が広がるとともに、自分は社会が見えるようになってきた。派遣の立場から政治を変えていきたい。
●保坂のぶとさんのスピーチ
国会のなかで議員は意外に孤独だ。とくに教育基本法の特別委員会のときは、50人のなかで反対派は共産党の石井議員とたった2人だけだった。しかしどんなときもチャンスがある。タウンミーティング問題を掘り起こすと、「やらせ」に対する世間の批判が渦まいた。
たとえ与野党逆転で政権交替しても、民主党がこれまでの自民党と同じことをやっていたのでは困る。わたしたちがいることで明らかに違うようにしたい。本日話が出た、労働者派遣法の問題も、社会保障の問題も、雇用保険の問題も変えていきたい。少数でもみなさんが付いていれば勇気百倍だ。
最後に、全員で「We shall overcome」を合唱し、「団結がんばろう!」で集会を締めた。「We shall overcome」は、増田都子さん(元・九段中学)のテーマソングなので歌いやすかった。この日はロックバンドによるスローテンポの伴奏だった。そういえば日ごろ増田さんの集会でおみかけする東京清掃労働組合など西部全労協や国労争議団の方の姿をみかけた。