多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

外国人カメラマンがみた敗戦直後の日本

2007年09月08日 | 読書
GHQカメラマンが撮った戦後ニッポン』(ディミトリー・ボリア撮影 アーカイブス出版)を読んだ(というか、ながめた)。
ディミトリー・ボリアは1902年アルバニア生まれ、19歳でアメリカに移住、47年GHQの要請により来日、61年まで日本での撮影を続けた(90年5月ワシントンDCにて88歳で死去)。

巻頭は笑顔の昭和天皇夫妻、以降10ページあまり全国巡幸、平成天皇の立太子礼など皇族のカラー写真が続く。
日比谷の第一生命相互ビルがGHQだったことや帝国生命(朝日生命)ビルがMP(憲兵)司令部、東京宝塚劇場がアーニーパイルという娯楽施設、代々木練兵場が将校家族住宅・ワシントンハイツだったことはよく知られている。しかし、パレスホテルの前身がホテル・テイトというホテル(元は帝室林野局の建物)、東京會舘が将校クラブ、帝国ホテルが高官用宿舎、丸の内会館がOSS(戦略諜報局)、日比谷の日東紅茶喫茶店がCIE(民間情報教育局)の図書館、服部時計店や松屋がPX(売店)として利用され、三宅坂に将校用宿舎パレス・ハイツがあったことは知らなかった。
1950年代の銀座、丸の内、日比谷の写真もたくさん掲載されており、日比谷の交差点をリヤカーや人力車が走っている。映画の看板や銀座の裏通りの飲み屋街、新橋の国鉄ホームは、まるで小津安二郎の映画を見ているようだ。築地川沿いの家屋は、言葉は悪いがスラムのようだ。
しかし何と言っても興味深いのは人々の暮らし。都電の停留所に立つ、男の子を抱っこした和服の男性とサザエさんの髪型の若夫婦、荏原の商店街で買い物中の若い主婦、「新刊 日本国民に訴う」という看板のある武蔵小山の書店で雑誌をながめる女性、大岡山の農道を歩く祖母と孫、赤坂で雪だるまを作る少女、江戸橋でタコを上げる子どもたち、紙芝居をみつめる子ども、皇居外苑でのキャッチボール、三越屋上の遊具、緑が丘の樽屋や鋳掛屋など、何度見ても見あきない。総じて表情が明るい。
ただボリアは写真集の発刊を意図していたわけではないようで、撮影場所・撮影年月などのデータはない。それを補うため、写真には「日差しが左から差し込んでいるので、東工大の東側であり、起伏の激しさから洗足池の北側、北千束のあたりから撮影したものと思われる」「昔だってこんな格好(褌一枚)で仕事をするはずはないので、上棟式の折にいっぱいひっかけていて、ちょっとだけ補修でもしているのであろうか」などと西坂和行氏の秀逸な解説がついている。
またこの写真集はただの写真集ではなく、杉田米行氏(大阪外国語大学准教授)執筆の本文が付いている。
日本の再軍備について次の記述がある。マッカーサーは、沖縄を軍事要塞化すれば講和後も安全保障を確保できると考え、再軍備にも日本に米軍基地を置くことにも反対だった。アメリカの軍部は再軍備には反対で講和後に米軍駐留の継続を目論んだ。その後、朝鮮戦争勃発で日本再軍備論が再燃し、1950年8月警察予備隊が7500人で発足した。また1952年日米行政協定で駐留が合法化された。これでいくと紆余曲折はあったにせよ、沖縄の軍事要塞化も再軍備も米軍駐留も三つとも実現したことになる。
また均衡財政でドッジデフレを招いたドッジは日本の経済復興のためには東南アジアの政治的安定が必要と考え、そのためアメリカの東南アジアへの介入が始まり、ベトナム戦争の遠因となったとある(逆のような気もすが)。

杉田米行 (著)、西坂和行/堀井紀公子 (編集) アーカイブス出版
192ページ 4,935円 (税込)、2007年5月発刊

目次
第1章 連合国軍総司令部(GHQ)による民主化
第2章 連合国軍総司令部(GHQ)の非軍事化
第3章 日本再軍備・サンフランシスコ講和への道
第4章 米軍と施設接収
第5章 経済復興の礎
第6章 急速に発達を遂げた東京
第7章 東京の庶民の生活
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