日の丸・君が代を強制する10.23通達が出てすでに19年、裁判で敗訴しても都教委は処分をやめようとしない。国連機関から勧告が出たがそれも無視しており今年6月2度目の勧告が出た。
7月24日(土)午後、日比谷図書文化館地下コンベンションホールで、メインタイトル「再勧告実現! 7.24集会」。長いサブタイトルが「日本政府、君が代の強制で、国連機関に『また』叱られる! それでもまだ歌わせますか?」という集会が開催された(主催:「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ教職員勧告実施市民会議 参加83人)。
1966年ILO/ユネスコが「教員の地位に関する勧告」を採択し、このときは日本政府も賛成している。この勧告と97年の「高等教育教職員に関する勧告」が順守されているか3年ごとにチェックする国際機関がセアート(CEART ILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会)である。
主催者名のILO/ユネスコ教職員勧告とは、セアートが2019年に出した日の丸君が代強制に関し日本政府に出した勧告を指す。
集会タイトル中の「また」がミソで、じつはこの主催団体の集会は20年3月1日の発足集会以来2回目の集会で、発足時のサブタイトルは「日本政府、君が代の強制で、国連機関に叱られる! それでもまだ歌わせますか?」と『また』が入っていないものだった。
主催者あいさつで、そのいきさつが説明された。
主催者あいさつ 金井知明・共同事務局長(弁護士)
今年6月に開催されたILO総会で日本政府に対し「国歌斉唱と起立に是正を求める勧告」が採択された。最初に出されたのは2019年で、前回の発足集会では「この勧告をなんとか実現したい」と市民会議を立ち上げることにした。
この市民会議は文科省や都教委と交渉してきた。しかし文科省も都教委も真摯な態度で臨んだとはとてもいえないものだった。文科省は勧告の訳文すら作成しない。やったのは届いたメールの添付文書をそのまま都教委に送っただけ。作業としては5秒くらいでできる。国連機関からきたのに5秒しか対応せず、ひどいとしかいえない。一方都教委は届いたメールの名宛てが日本政府で、都教委ではない、だからわれわれに関係ないという立場だ。だから都教委の対応は0秒、なにもしていないということだ。
そこでアイム'89と市民会議はセアートに追加報告を送った。セアートは昨年10月、14会期合同委員会で採択し、今年6月のILO総会で再勧告するに至った。
最初の是正勧告から3年、強制が始まって20年になろうとしている。一刻も早く国旗国歌の起立斉唱を是正させたい、そして日本において国際基準に則った教員の地位が保障されるようしたい、そうなっていない恥ずかしい状態を早く脱したい、2つの勧告をぜひ実現したいと考え、今回集会を開催した。
この日のメイン講演および座談は、セアート再勧告をキーワードにした5人の先生方それぞれの立場からの解説や提言だった。
基調講演が勝野正章さん(東京大学)と阿部浩己さん(明治学院大学)。阿部さんに、寺中誠(東京経済大学)さん、前田朗さん(東京造形大学名誉教授)を加えた3人の座談、最後に岡田正則さん(早稲田大学)の特別講演、そのあいだに2人の現場の方から報告があった。
先生方の発言内容はかなり理念的・抽象的な面も強かったので、日の君強制反対との関連で、わたくしが関心を覚えた部分を中心に、当日配布のレジュメも援用して紹介する。したがって当日の発言順とは異なる。
再勧告の意義と教育の中の市民的自由
阿部浩己さん(明治学院大学国際学部教授)
●勧告には法的拘束力がない?
たしかに「勧告それ自体に法的拘束力がない」ことはセアート自身も認めている。しかし勧告のなかに書かれていることに拘束力がないかどうかは別問題だ。それを前提に議論を進める必要がある。
たとえば、世界人権宣言は国連総会の議決、勧告であり、宣言そのものには拘束力はない。だが宣言に書かれている内容には、多くの条約などを通して各国を拘束するようになっている。だから宣言に書かれていることには拘束力があると、現代では認識されている。
2019年勧告への日本政府の回答は、「起立斉唱の要件は日本の国内法制に合致しており、生徒・教員の思想および良心の自由を侵害しない」「公務員として、教員は上司の命令に従うことを求められている」「教育についての権限と責任は地方公共団体にある」などだ。国際的基準に適合しているかどうかを問われているのに、国内法に準拠していると、問いと回答がずれている。
日本政府には国際的機関との対話を拒絶する姿勢が広くみられる。もちろん反論する国はいくつもあるが、対話を断ち切る行動に出る国はほかにはない。
また国際的な場では国を代表するのは政府なので、地方公共団体の問題だという回答は成り立たない。
●国際人権基準と「思想・良心の自由」
思想・良心の自由には積極的(能動的)側面と消極的(受動的)側面がある。積極的(能動的)側面(=外部的行動を通じて自らの信念を示す自由)は場合によっては制限されることがあるが、消極的(受動的)側面(=自らの信念に反する行動の強要からの保護)は絶対的なものだ。「良心的不服従」は後者に含まれる。国際人権法の認識では、内心の自由を守るための行為を理由に制裁が科せられることは、とうてい容認しえない。
●「良心的不服従」としての起立斉唱拒否
セアートは2018年の13会期報告のなかで、「秩序を乱さない不服従」という表現を使って不起立不斉唱の行為を表現した。
「市民的不服従とは、特定の法律や政府の政策に対して自覚的に従わない行為であり、非暴力でなされる(略)国旗国歌法への不服従や兵役拒否から戦争阻止のための非暴力直接行動まで多様な形態をとっている。(略)」(寺島俊穂「市民的不服従」風行社 2004)。
現在の国際法は、義務の意識(良心)に後押しされた不服従の行為として、明確な権利、絶対的権利として保護される対象に昇華している。したがって「戒告」であっても国際人権法上は、制裁の対象になることはあってはならない。それは国際人権法が、多元的な民主主義社会の構築を求めているからだ。
座談 勧告を得るってどんな価値があるの? 実現の困難は克服できるの?
阿部浩己さん(明治学院大学国際学部教授)、寺中誠さん(東京経済大学現代法学部教員)、前田朗さん(東京造形大学名誉教授)
寺中:さきほどの講演で、良心的不服従が絶対的権利とのことだったが、少し補足説明を。
阿部:この問題は、兵役に就きたくない人が良心的兵役拒否ができるかという話から始まった。はじめは絶対的権利というわけでなく、兵役拒否を「表明」する権利ととらえられていた。思想・良心を表明する自由は、他者との関係で制限されることがありうるので、代替的役務を行えばよいというような議論になっていた。ところが自由権規約委員会は、たんなる表明でなく思想良心それ自体の問題なので、絶対的権利と考え方を変更した。
寺中:絶対的権利として認める余地があることが、ここでは重要なポイントだという気がする。運動を進めるうえで心強い理論的背景といえる。
前田:韓国が個人通報制度を受け入れたという話を聞いた。
阿部:人権を侵害された個人が、自由権規約委員会に直接通報できる制度が個人通報制度だ。これが使えるかどうかはその国の制度による。韓国は日本より先進的な人権保障システムをもっており、個人通報制度を日本より早く受け入れた。韓国は義務的兵役制度なので、兵役拒否は犯罪になる。これに対し、韓国の自由権規約違反という判断が出た。しかし韓国の国内法がまだ変わっていないので大きな変化はない。でも訴えは通っている。
寺中:韓国から良心的兵役拒否について出された個人通報はほとんど通ったが、韓国政府はそれに対しいっさい対応していない。
ただし、ほかのケースたとえば、経済社会的権利の個人通報には対応し改善したことがある。他の国で、ギリシャでは個人通報の結果、良心的兵役拒否は認められた。
阿部:ヨーロッパで良心的兵役拒否を権利として認める国が20か国ほどある。
ところで、勧告に拘束力があるかどうかの件だが、政府が守りたくないときは「法的拘束力はない」という、守るときは「法的拘束力の有無には関係ない」という。二重基準だ。国にとって政治的優先順位が高いかどうかで、日本政府が取る態度が変わる。
日本政府は1980年代には国際的な勧告や条約に忠実に従い誠実に応答していた。難民条約に入るとなるといくつもの国内法を改正していた、女性差別撤廃条約に入るときは不十分ながら雇用機会均等法をつくるとか、一所懸命やっていた。国際法はなんてすばらしいのかと思う、今にして思えば夢のような時代だった。90年代後半から日本政府の国際的勧告に対する態度がかなり変わった。代用監獄問題で国際的機関の委員会で「お前のいうことは間違い」と面と向かってはっきりいうようになった。勧告を守るかどうかは、法的拘束力の有無というより、守る政治的環境が日本につくられているかどうかが問題となる。
寺中:96年以降は、かたくなな政策がでてくるようになった。たとえば移民の問題など。
個人通報制度にも日本は入ろうとした。しかし政権が関与し全部つぶされた。不十分ながらも、自民党が出そうとした国内人権委員会も政権により完全につぶされた。
前田:政府代表と別に国内人権委員長やNGOも発言できるのに、日本からはない。外務省がそろそろ変わったほうがよいと思うような運動をしたほうがよいと思う。
市民会議のリーフと7.24集会プログラム
勝野正章さん(東京大学大学院教育学研究科教授)はセアートの委員。基調講演で「日の丸・君が代の強制に限らず、異なる意見を抑圧し封じ込める不寛容は、民主主義からもっともほど遠い」と述べ、「教師の政治的コミットメント」を中心に講演した。
66年勧告(教員の地位に関する勧告)の30年後ユネスコで96年勧告(教師の役割と地位に関する勧告)が採択されたが、このなかで強調されている概念だ。コミットメントは活動や行動といった能動性を含意として強くもち「学校、地方、国レベルの教育政策や教育方針の決定に教員が参加すべきである」ということを繰り返し主張する。学校運営と教育政策を決定する過程への教員参加、さらに一歩踏み込み価値にそぐわない教育が行われる場合、教員は黙しているのでなく自ら発言し行動に訴えることが求められる、と抵抗の重要性を強調した。
講演の始まりも終わりにも、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレ(1921-97)の言葉が引用された。
市民会議のリーフと7.24集会プログラム
岡田正則さん(早稲田大学大学院法務研究科教授)は、行政学者で、日の君裁判で、懲戒処分や再任用拒否問題などの意見書を書いた方だ。今年4月に学術会議会員の任命を拒否された6人で「学問と政治――学術会議任命拒否問題とは何か」(芦名定道、宇野重規、岡田正則ほか 岩波新書 22.4)を発刊した。
学問の自由とセアート勧告に共通する問題として、国ごとの分断ではなく、国際ネットワークへの広がりの話をした。
「日本の学術なり世界の学術が、いま何をやるべきかをいっしょに考える。お国のために奉仕するのではなく、世界に開かれた専門領域として、コミュニケーションしないといけない」「裁判官にしても最近は国の垣根を越えて協議する場が増えている。日本の裁判官は残念ながらそういう場に行かない。とくに人権関係の判断をする憲法裁判所やEU人権裁判所などの判断をある程度理解する、あるいは予想することをやらないと国内での裁判もまともにできないのがいまの世界標準だ。だが日本の裁判所はドメスティックで、条約がどうなろうが、世界の裁判官の議論がどうなろうが『俺たち国内法に従ってるからいいもんね』というスタンスが日本の司法の現状としてある」と批判した。
わたしは現場からの声に深く共感したので、スピーチのほんの一部を紹介する。
●Sさん(アイム'89)
わたしは2003年10.23通達以降の教員で、2007年に教員になったが、やはりイヤだ。わたしたちの年代は必ずしも「日の丸君が代だからイヤ」というわけではない。(極論すれば)自分は、たとえば「ラ・マルセイエーズ」が国歌でも強制されるならイヤだ。
わたしにとって起立斉唱の強制が学校の儀式で行われる問題は、わたしにとって人権の問題である。個人の人権が学校教育のなかで侵害されるようなことがあってはいけない、ということで反対している。
●五次訴訟原告 Kさん
5次訴訟は昨年3月原告15人で提訴した。2014.3-2017.4の卒入学式の処分取消と2013.12-2020.12の再処分取消を求めている。再処分取消を求める裁判は初めてだ。
戒告はもっとも軽い処分だが、処分を受けたことで定年後の仕事を奪われるということは、事実上、戒告が免職処分に等しい重い処分になっているといえる。
再任用になったとき「年金が支給されるようになったら再任用しない」と口頭で伝えられた。再任用は1年更新のはずなのに、3年先のことまで、しかも都教委から来たメールを読み上げるというかたちで任用打切りを告げるのはあまりにもひどいと思った。このあとわたしは、毎年校長からこの告知を受け続けた。
今年1月の再任用不合格については、校長が出す推薦書や面接には手続き上の不備があり、産休育休代替の任用申し込み要項の変更についても疑問を抱いている。
セアートがわたしたち教員の心の叫びをしっかり聞き、再度関勧告を出してくれたことを本当にうれしく思う。今後、一刻も早くこの勧告を実現させ、日の丸君が代強制を止めさせなければならない。
5次訴訟の次の期日は9月12日13時半からだ。原告の意見陳述もある。ぜひ傍聴お願いします。
「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会の会報「ほっととーく」
☆1990年代後半から、一貫して国連人権問題に背を向けてきた日本政府。しかしただ一度2018年秋、強制失踪委員会で「日本人拉致問題を提起する」と大宣伝した。だが委員会終了後もいっさい報道はなかった。前田さんから政府の「愉快な」エピソードが紹介された。
じつは委員会はいっさい日本人拉致問題を取り上げず、かわりに日本軍慰安婦問題を取り上げた。日本政府は慰安婦問題は強制失踪条約(2006年採択、2010年発効)ができるより前のことで、委員会には取り上げる権限がないと主張した。委員会は、事件が起こったのは過去(条約以前)であっても、被害者はいまも人間の尊厳の回復を求めている。応答できるのは日本政府しかない、ということで勧告を出した。
2日間の会期で、日本政府は同じ主張をしたが、1日目が終わった段階で本国と連絡し合ったはずだ。問題は、拉致問題も、同様に条約以前の時期の事件だったことだ。
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