2月7日(土)午後、「戦争は教室から始まる 北村小夜さんを囲む集いinねりま」が大泉勤労福祉会館で開催された(主催:練馬・教育問題交流会 参加 約50人)。
北村小夜さんは1925年、福岡・久留米生まれ。小学校のとき上海事変の爆弾三勇士を讃える旗行列に参加し、高等女学校ではチャーチルとルーズベルトを肉挽き器にかけたポスターをすすんで描く「軍国少女」として育った。教師は心のなかでは反対だったかもしれないが何も言ってくれなかった。もしあのとき「人道に反する」と一言いってくれれば人生が変わったかもしれない、と語る。戦後の1950年から36年間教員を務めた。いま83歳だが、とてもエネルギッシュな活動を続けておられる。
●逆らわない心と丈夫な体
わたしは、いろんなところで「戦争は教室から始まる」と言って歩いている。しかし、いまの状況は教室だけでなく、どこからでも始まりそうな情勢だ。
自衛隊派兵や改憲の動き、また「日の丸君が代」関係裁判で憲法を空洞化するようなおかしな判決を出す裁判所など権力側からの横暴な攻撃ももちろん問題だが、わたしたちの仲間の側がひるんでいるのではないか、その態度のほうが心配であり、危機感を感じる。たとえば「日の丸君が代反対」と言っていた人が、国旗国歌法が成立したとたんに「国旗国歌の強制反対」とはいっても「日の丸君が代反対」といわなくなった。また教育基本法が改悪されたとたん「元に戻そう」とか「もっとよい基本法にしよう」とはいわなくなった。こちらが後ずさりしているから向こうの攻撃が強くなる。
戦争をするには国民の「逆らわない心と丈夫な体」が必要だ。「逆らわない心」をつくるため教師に日の丸君が代処分を強行し「心のノート」など道徳教育を推進している。「丈夫な体」のために、学力テストと合わせて体力テストが行われている。わたしの時代と同じだ。また「元気アップハンドブック」が配布されている。早寝、早起き、テレビをみる時間などを、押し付けでなく、子どもが自分で決めていると思わせるように心理学の手法を使って編集されている。
健康増進法は、受動喫煙防止だけ強調されているが、総則には「生涯にわたり、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努める」こと、と国民の「責務」が定められている。国がなんのために国民に健康を責務としているのか考える必要がある。ガンの予防をはじめ国民の健康に最も熱心だったのはナチスドイツだった。
「心のノート」と修身の類似性について考える。自分が使った国定教科書は第三期(1918-1933 ハナ・ハト読本)のものだ。五十音を覚えたての1年生の夏休み明けのころ、修身の教科書にはじめて文字を入れて教えられるのが16課「テンノウヘイカ バンザイ」だ。次のページは17課「キグチコヘイハ テキノタマニアタリマシタガ、シンデモラッパヲ クチカラハナシマセンデシタ」。国民は天皇に忠義でないといけないということだ。続く18課は「トラキチノ ナゲタマリガソレテ、トナリノシャウジヲヤブリマシタ。トラキチハ スグトナリヘアヤマリニイキマシタ」。忠義の兵隊になるにはいい子でないといけないということで「トラキチ」が登場する。「心のノート」にもサッカーボールが隣の家の植木鉢をこわし、あやまっている少年のイラストが描かれている。そして「あやまちは、これからの自分をよくしていくための[たから]となります」と大きな文字で書かれている。まったく同じである。
巻頭に「このノートはあなたの心を大きく美しくしていくためのものです」と書いてあるが、大きなお世話である。
●唱歌は修身の手段だった
唱歌は「唱える歌」で、「唱える」ところに意味がある。かつて修身は首位教科に位置付けられ、すべての教科は修身的であり、とりわけ唱歌は修身の手段だった。たとえば修身で日露戦争の軍神「廣瀬武夫」を教え、唱歌で「轟く砲音 飛来る弾丸 荒波洗うデッキの上に・・・」と勇ましい歌を覚えさせる。二宮金次郎がどんなに親孝行だったか修身で教え「シバカリナハナイ・・・テホンハニノミヤキンジロウ」と歌わせる。唱えながら教える唱歌は、生徒への刷り込みに有効だった。
教育基本法改訂に伴い2008年3月に告示された音楽の新学習指導要領の「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」に「(5) 第1章総則の第1の2及び第3章道徳の第1に示す道徳教育の目標に基づき,道徳の時間などとの関連を考慮しながら,第3章道徳の第2に示す内容について,音楽科の特質に応じて適切な指導をすること」が新たに追加された。「第1章総則の第1の2」とは道徳教育を指し「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し」という文言も盛り込まれている。音楽は道徳と一体化させられる。かつて唱歌は楽しむためのものではなく国土愛と忠義・孝行のためにあった。戦前と同じことがいま行われようとしている。戦時中音楽は、国民の気持ちを奮い立たせ不動の構えを持続させるので「軍需品」といわれた。
また、国歌「君が代」について従来「いずれの学年においても指導すること」だったのが「いずれの学年においても歌えるよう指導すること」と、新学習指導要領には「歌えるよう」が追加された。
●共通教材の隠された意図
共通教材とは必ず教科書に掲載しないといけない教材のことである。「こころの歌」(教育芸術社。教育出版では「にっぽんのうた みんなのうた」、東京書籍では「日本の歌 心の歌」)という特別のマークが付いている。国語など他の教科にはないが、音楽には文部省が官報告示し指導要領に法的拘束力があるとした1958年の当初から存在する。各学年4曲、合計24曲ある。唱歌の最初の国定教科書は1911(明治44年)に発行された。「日のまる」「茶つみ」「われは海の子」など共通教材24曲中13曲は1911年から14年の教科書に掲載された曲である。つまり天皇制で教育勅語下の明治時代の歌が21世紀の小学校で教えらる。懐かしい歌といわれるが、その意図を読み取る必要がある。
4年の「まきばの朝」、5年の「スキーの歌」は1932年(昭和7年)の第4期国定教科書(サクラ読本)に初掲載された。1932年は柳条湖事件(満州事変)の翌年、1月に上海事変が起こった年だ。牧畜や北の守りが強調されている。
1年の「うみ」、2年の「夕やけこやけ」、4年の「さくらさくら」など5曲は国民学校が発足した第5期の教科書(アサヒ読本)に掲載された。「うみはひろいな」の「うみ」は、じつは無邪気な楽しい歌とはいえない。この時期の修身二「日本は海の国」には「今の日本は、海国日本の名のとほり、いたるところの海洋に、日の丸の旗をかかげて、国の光をかがやかしながら活動してゐます。へさきに菊の御紋章を仰ぐ帝国海軍は、み国のまもりもかたく、太平洋から印度洋にかけて、その威力を張ってゐます。海国日本のほまれをあげるぶたいは、かぎりなく大きいのです。その廣いぶたいに、日の丸の旗をささげてすすむのが、私たちの尊いつとめです。」と書かれている。世界制覇のための海であり帝国海軍へ誘導するものだ。「うみ」もその関連で考える必要がある。
1977年の学習指導要領は、国旗国歌法制定以前の時期にもかかわらず「君が代」を国歌とした。この年、1年に「ひらいたひらいた」、4年に「とんび」、5年に「子もり歌」が共通教材に入った。「君が代」補助の役割を担うものだ。
89年学習指導要領はより国家主義的道徳教育を強化し、学校行事で「国旗を掲揚するとともに国歌を斉唱するように指導するものとする」と現場での強制を開始した。それまでは「斉唱させることが望ましい」だった。この年、「越天楽」(6年)が登場し、77年にいったん消えた「われは海の子」(6年)が復活した。教科書は3節までだが、5節の歌詞は「はだは赤銅さながらに」鍛え、6節は「浪にただよふ氷山」も恐れずと、北の守りが強調され、さらに7節では「いで軍艦に乗り組みて、我は護らん、海の国」という海軍賛美の曲である。6年の社会科で日清日露戦争が肯定され、東郷平八郎が教科書に登場した。
「蛍の光」は共通教材ではないが、現場からの要請が高いということで各社の5年の教科書に掲載されている。1881年(明治14年)の「小学唱歌集」に掲載されている(国定教科書には登場しない)。3節の終わりは「ひとつにつくせ、くにのため」、4節は「千島のおくも、おきなはも、やしまのうちの、まもりなり」という防人を送り出す妻の歌である。2年前の1879年は沖縄処分の年で、わたしの時代には「樺太の奥も台湾も」と教えられた。少し後の世代には「アリューシャンの奥もサイパンも」と教えられた人もいる。どちらも、当時は日本が占領し最終的に玉砕した島である。
繰り返すが、戦前と同じことがいま始まっている。
この後のフリートークで、参加者から「音楽の教員の同僚に、君が代指導を問題視する人が少ない」「被爆者やひめゆりのことを熱心に教えた30代の教え子が、ほとんど危機感を抱いていなくて残念だ」「高校でも奉仕の時間が押し切られて導入されている」など、学校の現在の問題が具体的にいくつも指摘された。
練馬・教育問題交流会では、昨年同様、区教委や校長に「日の丸・君が代」の強制反対の要請を出し、区内の高校卒業式でビラまきを実施する予定である。
☆「肉弾」(岡本喜八監督 1968)で九十九里付近の砂浜で小学生が「日本よい国 きよい国 世界に一つの神の国 日本よい国 強い国 世界にかがやく えらい国」と修身の教科書(19課)を読み上げるシーンがあった。すごい教科書だと強く印象に残っている。この集会ではじめて歌を聞いた。歌詞はまったく同じものだった。国民学校二年音楽教科書『うたのほん・下』に掲載されているそうだ。
●3月8日、4か所補筆修正
北村小夜さんは1925年、福岡・久留米生まれ。小学校のとき上海事変の爆弾三勇士を讃える旗行列に参加し、高等女学校ではチャーチルとルーズベルトを肉挽き器にかけたポスターをすすんで描く「軍国少女」として育った。教師は心のなかでは反対だったかもしれないが何も言ってくれなかった。もしあのとき「人道に反する」と一言いってくれれば人生が変わったかもしれない、と語る。戦後の1950年から36年間教員を務めた。いま83歳だが、とてもエネルギッシュな活動を続けておられる。
●逆らわない心と丈夫な体
わたしは、いろんなところで「戦争は教室から始まる」と言って歩いている。しかし、いまの状況は教室だけでなく、どこからでも始まりそうな情勢だ。
自衛隊派兵や改憲の動き、また「日の丸君が代」関係裁判で憲法を空洞化するようなおかしな判決を出す裁判所など権力側からの横暴な攻撃ももちろん問題だが、わたしたちの仲間の側がひるんでいるのではないか、その態度のほうが心配であり、危機感を感じる。たとえば「日の丸君が代反対」と言っていた人が、国旗国歌法が成立したとたんに「国旗国歌の強制反対」とはいっても「日の丸君が代反対」といわなくなった。また教育基本法が改悪されたとたん「元に戻そう」とか「もっとよい基本法にしよう」とはいわなくなった。こちらが後ずさりしているから向こうの攻撃が強くなる。
戦争をするには国民の「逆らわない心と丈夫な体」が必要だ。「逆らわない心」をつくるため教師に日の丸君が代処分を強行し「心のノート」など道徳教育を推進している。「丈夫な体」のために、学力テストと合わせて体力テストが行われている。わたしの時代と同じだ。また「元気アップハンドブック」が配布されている。早寝、早起き、テレビをみる時間などを、押し付けでなく、子どもが自分で決めていると思わせるように心理学の手法を使って編集されている。
健康増進法は、受動喫煙防止だけ強調されているが、総則には「生涯にわたり、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努める」こと、と国民の「責務」が定められている。国がなんのために国民に健康を責務としているのか考える必要がある。ガンの予防をはじめ国民の健康に最も熱心だったのはナチスドイツだった。
「心のノート」と修身の類似性について考える。自分が使った国定教科書は第三期(1918-1933 ハナ・ハト読本)のものだ。五十音を覚えたての1年生の夏休み明けのころ、修身の教科書にはじめて文字を入れて教えられるのが16課「テンノウヘイカ バンザイ」だ。次のページは17課「キグチコヘイハ テキノタマニアタリマシタガ、シンデモラッパヲ クチカラハナシマセンデシタ」。国民は天皇に忠義でないといけないということだ。続く18課は「トラキチノ ナゲタマリガソレテ、トナリノシャウジヲヤブリマシタ。トラキチハ スグトナリヘアヤマリニイキマシタ」。忠義の兵隊になるにはいい子でないといけないということで「トラキチ」が登場する。「心のノート」にもサッカーボールが隣の家の植木鉢をこわし、あやまっている少年のイラストが描かれている。そして「あやまちは、これからの自分をよくしていくための[たから]となります」と大きな文字で書かれている。まったく同じである。
巻頭に「このノートはあなたの心を大きく美しくしていくためのものです」と書いてあるが、大きなお世話である。
●唱歌は修身の手段だった
唱歌は「唱える歌」で、「唱える」ところに意味がある。かつて修身は首位教科に位置付けられ、すべての教科は修身的であり、とりわけ唱歌は修身の手段だった。たとえば修身で日露戦争の軍神「廣瀬武夫」を教え、唱歌で「轟く砲音 飛来る弾丸 荒波洗うデッキの上に・・・」と勇ましい歌を覚えさせる。二宮金次郎がどんなに親孝行だったか修身で教え「シバカリナハナイ・・・テホンハニノミヤキンジロウ」と歌わせる。唱えながら教える唱歌は、生徒への刷り込みに有効だった。
教育基本法改訂に伴い2008年3月に告示された音楽の新学習指導要領の「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」に「(5) 第1章総則の第1の2及び第3章道徳の第1に示す道徳教育の目標に基づき,道徳の時間などとの関連を考慮しながら,第3章道徳の第2に示す内容について,音楽科の特質に応じて適切な指導をすること」が新たに追加された。「第1章総則の第1の2」とは道徳教育を指し「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し」という文言も盛り込まれている。音楽は道徳と一体化させられる。かつて唱歌は楽しむためのものではなく国土愛と忠義・孝行のためにあった。戦前と同じことがいま行われようとしている。戦時中音楽は、国民の気持ちを奮い立たせ不動の構えを持続させるので「軍需品」といわれた。
また、国歌「君が代」について従来「いずれの学年においても指導すること」だったのが「いずれの学年においても歌えるよう指導すること」と、新学習指導要領には「歌えるよう」が追加された。
●共通教材の隠された意図
共通教材とは必ず教科書に掲載しないといけない教材のことである。「こころの歌」(教育芸術社。教育出版では「にっぽんのうた みんなのうた」、東京書籍では「日本の歌 心の歌」)という特別のマークが付いている。国語など他の教科にはないが、音楽には文部省が官報告示し指導要領に法的拘束力があるとした1958年の当初から存在する。各学年4曲、合計24曲ある。唱歌の最初の国定教科書は1911(明治44年)に発行された。「日のまる」「茶つみ」「われは海の子」など共通教材24曲中13曲は1911年から14年の教科書に掲載された曲である。つまり天皇制で教育勅語下の明治時代の歌が21世紀の小学校で教えらる。懐かしい歌といわれるが、その意図を読み取る必要がある。
4年の「まきばの朝」、5年の「スキーの歌」は1932年(昭和7年)の第4期国定教科書(サクラ読本)に初掲載された。1932年は柳条湖事件(満州事変)の翌年、1月に上海事変が起こった年だ。牧畜や北の守りが強調されている。
1年の「うみ」、2年の「夕やけこやけ」、4年の「さくらさくら」など5曲は国民学校が発足した第5期の教科書(アサヒ読本)に掲載された。「うみはひろいな」の「うみ」は、じつは無邪気な楽しい歌とはいえない。この時期の修身二「日本は海の国」には「今の日本は、海国日本の名のとほり、いたるところの海洋に、日の丸の旗をかかげて、国の光をかがやかしながら活動してゐます。へさきに菊の御紋章を仰ぐ帝国海軍は、み国のまもりもかたく、太平洋から印度洋にかけて、その威力を張ってゐます。海国日本のほまれをあげるぶたいは、かぎりなく大きいのです。その廣いぶたいに、日の丸の旗をささげてすすむのが、私たちの尊いつとめです。」と書かれている。世界制覇のための海であり帝国海軍へ誘導するものだ。「うみ」もその関連で考える必要がある。
1977年の学習指導要領は、国旗国歌法制定以前の時期にもかかわらず「君が代」を国歌とした。この年、1年に「ひらいたひらいた」、4年に「とんび」、5年に「子もり歌」が共通教材に入った。「君が代」補助の役割を担うものだ。
89年学習指導要領はより国家主義的道徳教育を強化し、学校行事で「国旗を掲揚するとともに国歌を斉唱するように指導するものとする」と現場での強制を開始した。それまでは「斉唱させることが望ましい」だった。この年、「越天楽」(6年)が登場し、77年にいったん消えた「われは海の子」(6年)が復活した。教科書は3節までだが、5節の歌詞は「はだは赤銅さながらに」鍛え、6節は「浪にただよふ氷山」も恐れずと、北の守りが強調され、さらに7節では「いで軍艦に乗り組みて、我は護らん、海の国」という海軍賛美の曲である。6年の社会科で日清日露戦争が肯定され、東郷平八郎が教科書に登場した。
「蛍の光」は共通教材ではないが、現場からの要請が高いということで各社の5年の教科書に掲載されている。1881年(明治14年)の「小学唱歌集」に掲載されている(国定教科書には登場しない)。3節の終わりは「ひとつにつくせ、くにのため」、4節は「千島のおくも、おきなはも、やしまのうちの、まもりなり」という防人を送り出す妻の歌である。2年前の1879年は沖縄処分の年で、わたしの時代には「樺太の奥も台湾も」と教えられた。少し後の世代には「アリューシャンの奥もサイパンも」と教えられた人もいる。どちらも、当時は日本が占領し最終的に玉砕した島である。
繰り返すが、戦前と同じことがいま始まっている。
この後のフリートークで、参加者から「音楽の教員の同僚に、君が代指導を問題視する人が少ない」「被爆者やひめゆりのことを熱心に教えた30代の教え子が、ほとんど危機感を抱いていなくて残念だ」「高校でも奉仕の時間が押し切られて導入されている」など、学校の現在の問題が具体的にいくつも指摘された。
練馬・教育問題交流会では、昨年同様、区教委や校長に「日の丸・君が代」の強制反対の要請を出し、区内の高校卒業式でビラまきを実施する予定である。
☆「肉弾」(岡本喜八監督 1968)で九十九里付近の砂浜で小学生が「日本よい国 きよい国 世界に一つの神の国 日本よい国 強い国 世界にかがやく えらい国」と修身の教科書(19課)を読み上げるシーンがあった。すごい教科書だと強く印象に残っている。この集会ではじめて歌を聞いた。歌詞はまったく同じものだった。国民学校二年音楽教科書『うたのほん・下』に掲載されているそうだ。
●3月8日、4か所補筆修正