多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

都内散策 目白の森のなかの永青文庫

2010年12月02日 | 都内散策
地下鉄西早稲田から明治通りを500mほど北上すると新目白通りとの交差点に出る。都営荒川線が走っており、右折して200mほど東に歩くと面影橋に出る。神田川にかかるこの橋は姿見の橋ともいわれ、美しい名前の由来は、在原業平が水面に姿を映したとも、鷹狩に来た3代将軍家光が名付けたともいわれると、解説板に書かれていた。

橋を渡ると豊島区に入り、100mほど行くと右に南蔵院、左に高田氷川神社、少し先に真言宗豊山派の金乗院、目白不動と寺社が集まっている。南蔵院は、落語の怪談「乳房榎」ゆかりの地として有名で、明治時代の力士の片男波、音羽山、二子山、花篭などの墓がある。
道を引き返し神田川沿いに下っていくと、オリジン電気、神谷印刷などの工場が並ぶ。また東京染小紋の染物工場もある。水洗いのため神田川を利用し、いまでは印刷業と並び新宿区の地場産業に成長した。東京染ものがたり博物館は一見民家に見えた。面影橋の次は仲之橋、その次は豊(ゆたか)橋、さらに駒塚橋と続く。
駒塚橋を左折すると胸突坂という急な坂がある。上り口の右手には雰囲気のある木の門の関口芭蕉庵がある。1670年代に芭蕉がこの地に3年間住んだと言い伝えられ、1726年芭蕉の33回忌に弟子たちが木像を祀る芭蕉堂を建てたのが始まりだそうだ。
坂を上ると蕉雨園の大きな建物がある。ここは宮内大臣田中光顕の屋敷を講談社の野間清治が購入した。その隣は椿山荘で、もともとは日本陸軍の創始者・山縣有朋の屋敷でその後藤田平太郎の藤田組の所有になった。平太郎は長州出身で大阪で活躍した政商・藤田財閥の2代目である。

さて坂を上った左手の木立の緑のなかに鉄筋3階建の古い建物があった。肥後熊本54万石の16代当主・護立が設立した永青文庫である。
永青文庫は藩主細川家が収集した6000点の美術品と7000点の文書等資料を管理保存する博物館で1972年から一般公開されている。「短刀 無銘正宗」など国宝8点、「色黒き猫図 菱田春草」など重要文化財31点を含む。展示しているジャンルは絵画、茶道具、書跡、染織、甲冑などである。
この日は「茶入れ」34点の特別展示をしていた。茶道具には、茶碗のほか、茶釜、茶筅(ちゃせん) 、柄杓(ひしゃく) など数々あるが、そのなかで茶入れとは、抹茶を入れる小さな壺のことである。口径2.5-5センチ、高さ5―10センチの本当に小さな壺である。壺そのものだけでなく入れ物の袋や木箱も美しい。根付と同じようにミニチュアを愛でる日本人の美意識の結果のひとつだろうか
細川家の2代忠興は千利休の高弟だった。忠興は関ヶ原の合戦の戦功により徳川秀忠から、利休が大事にしていた茶入れを賜った。その茶入れ「利休尻ふくら」も展示されていた。
護立は文人で、学習院で志賀直哉や実篤と同級だったこともあり、白樺派の「金庫番」だったそうだ。その息子が護貞で、第79代内閣総理大臣・護煕の父である。総理引退後、妻の佳代子はマスコミにでても本人は焼物三昧の生活でめったにみかけない。しかし「季刊永青文庫」には理事長として文章と肖像写真を載せている。さらに護煕の長男・護光の「徒然熊本だより」というコラムまで掲載されている。
館内はクラシックな雰囲気が漂い、照明器具、洋書が並ぶ本棚などが美しい。ただ残念なことに館内撮影はいっさい禁止だった。この建物は、細川侯爵家家政所(事務所)として、現在和敬塾にある本館同様、1936年に建てられた。
江戸時代の熊本藩の上屋敷は丸の内、赤穂浪士が切腹した中屋敷は高輪にあった。目白には下屋敷があり幕末には3000坪に過ぎなかった。その後、神田川から目白通りまで土地を買い増し敷地は3万8000坪に増えた。
文庫の東側は下りの急坂になっており、池の回りを散策できる回遊式の大きな日本庭園が広がる。いまは文京区立新江戸川公園となっている。

隣は男子大学生の寮である和敬塾、4階建ての寮が何棟もあり7000坪の敷地を有する。前川製作所の創業者・前川喜作が1955年に細川家から譲り受けて開設した。本館は1926(昭和11)年建築の旧細川侯爵邸である。1926年のチューダー様式というと、1929年建築の駒場の前田邸とほぼ同じ時期である。延べ床面積は1863平方メートルなので2/3である。月2回程度予約制で見学できる。
目白通りに出ると、右手に61mの鐘塔で有名な東京カテドラル、左手には目白台運動公園という大きな公園がある。テニスコート4面、フットサルコート2面、多目的広場はサッカーコートが2面ほど取れるほどの大きさだ。どうしてこんな場所にこんなに広いスペースがあったのかと思ったら、1万平方メートルの公園の1/5は田中角栄邸の跡地で、相続税対策で物納されたものそうだ。そういえば隣に「田中」という門柱が立っていた。
目白駅方向に向かうと、日本女子大学の成瀬記念講堂(1906(明治39)年建築)、新泉山館(国際交流施設)、付属小学校、幼稚園などが立ち並ぶ。その横の坂を下ると、もとの面影橋に戻る。全部で2.2キロの散策だった。

☆面影橋は出目昌伸の映画「神田川(1974)の舞台である。喜多條忠・南こうせつのあの「神田川」を映画化したものである。早稲田大学生だったみちこと忠が同棲していたアパートはこの近くだったらしい。「横丁の風呂屋」は西早稲田3-1-3にあった「安兵衛湯」がモデルで、喜多條忠がつくった詩を電話で受けた南こうせつは、受話器を置きギターを取りに行くたった5分の間に作曲した(本橋信宏「60年代 郷愁の東京」主婦の友社)
東京のまちは坂が多い。坂の上はお屋敷町、坂の下は町工場や商店、アパートであることが多い。高級住宅地といわれる場所ほどその傾向が強い。たとえば白金や麻布、松濤はその一例だ。やはりここもそういう場所だった。歩いて面白いのはもちろん下町なのだが、市ヶ谷砂土原町や千駄木も同じかどうか、確認してみたい。
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