朝ドラの「ととねえちゃん」が、まもなく終了する。この番組の関連企画で「深川生まれの大橋鎭子さん」という展示(8月2日―10月2日)を門前仲町の深川東京モダン館で見た。
「協力:暮しの手帖社」となっているので暮しの手帖や大橋の年譜に関しては正しいはずだ。番組では「登場する団体や商品は実在のものではありません」という表示がエンディングでつねに出ていたが、案外一致していた。3人姉妹が雑誌編集に協力したのは本当で、1歳下の晴子(役名・鞠子)、5歳下の芳子(役名・美子)が創刊100号記念写真(1969年)に編集長の花森安治らとともに写っていた。
また創刊まもないころ銀座西8丁目の日吉ビル3階の事務所には大きな机がいくつも並んでおり、社員で手分けして雑誌発送作業をやっている写真があった
。たしかそんなシーンもあった。
暮しの手帖の売り物の商品試験ではベビーカー(60年)、脱水機付洗濯機(65年)、石油ストーブ(68年)の実験中の写真があった。
父武雄は38歳で亡くなり10歳の鎭子が喪主を務めた。
14歳のときに歯みがきを製造販売したことまで本当で驚いた(テレビでは小橋常子なのでKT歯みがきだったが現実にはオーシー歯みがき)
しかしもちろん現実とは違うこともたくさんある。
ドラマは浜松から始まったが、浜松と鎭子は縁はないようだ。
深川でも木場の東、深川区西平井町(現在の東陽5丁目)生まれ、ただし1歳で浜松とは逆方向の北海道・三笠市(札幌と旭川の中間)へ転居した。
父が結核で退職し、牛込、鎌倉と転居したあと住んだのは目黒ではなく品川区の大井町だった。
自宅は東京オリンピックのころ(1964年)に建てたことになっていたが、実際には1948年、「美しい暮しの手帖」を創刊した年に、大井に自宅兼撮影スタジオを建てている。ただこれが大きい家かどうかはわからないので、64年ころにも自宅を新築している可能性はあるが・・・。
展示で雑誌などの現物をみてわかったことがいくつかある。
創刊号(1948年9月)には、佐田稲子、小堀杏奴、森田たまなど女性有名作家、田宮虎彦、川端康成、扇谷正造、山本嘉次郎など豪華メンバーのほか中原淳一、戸板康二、藤城清治まで名を連ねていて驚いた。「スタイルブック」の蓄積はあるが、やはり花森に伝手があったのだろうか。
花森が66歳で死去したあと鎭子は58歳で編集長兼社長になる。その後、2004年に84歳で社主に就任、とあるのでおそらく84歳まで編集長だったのではないだろうか。とすると大したエネルギーだ。
宣伝ポスターが3点掲示されていた。「天ぷら油とサラダ油はじつはおなじものではないだろうか」(3号)「最近ビスケットを召上りましたか 舌が緑色や黄色に染まったでしょう ほとんどのビスケットは人工着色です」(2号)、「あなたは暮しの手帖を読んでいますか」(94号)である。
94号は明朝体だが、2号、3号は手書き文字を取り混ぜている。ちょっと平野甲賀を思い起こさせる。おそらく花森安治本人のデザインだろう。花森はデザインだけでなく、レタリングやタイポグラフィの才能もあったことを発見した。デザイン面では、強調したい「ビスケット」「黄」「人工着色」は赤文字になっている。また94号は活字を使用しているが、写植時代の切り貼りのように文字を左右にずらしたデザインにしている。暮しの手帖は100号ごとに1世紀、2世紀という通巻番号を使っているので、号数だけではいつごろのものかわからないことが少し残念だった。
これとは別に「たとえぼろぼろになっても この一冊はこれから後に生まれてくる人のために残しておきたい」というポスターがあった。「たとえぼろぼろになっても」の部分のみ手書き文字だった。これは評判を呼んだ「戦争中の暮しの記録」特集(1968年発刊96号、69年に単行本化)なので特別な思い入れがあったのだろう。
なお深川東京モダン館には、建物そのものにもいわれがある。この建物は関東大震災の震災復興事業で1932年3月に竣工した東京市営の食堂で「安くて栄養のある食事」を提供する施設だった。戦災で内部が焼けたが、戦後は都の公共職業安定所分室、区の内職補導所、福祉作業所として活用された。つまり社会事業や福祉事業の拠点施設だった。
一方、建物はシンプルが特徴のモダニズム建築で、屋外に面した階段室は2階まで全面ガラス張り、特徴ある6つの丸窓を備えている。そして玄関や階段には六角形のモザイクタイルが敷き詰められている。耐震耐火を重視し鉄筋コンクリート造で、2008年に国登録有形文化財に指定された。09年に江東区のまち歩きの拠点「深川東京モダン館」として開業した。展示・イベント・講座も実施し、2階の喫茶「にちよう」は週2回ほどの営業だが、ランチやスイーツを提供している。1階でも100円のコーヒーを飲むことができる。
見る価値のある施設なので、ちょうど通りかかった観光人力車の車夫の方もそういう説明をしていた。
モダン館屋内 全面ガラス張りで明るい室内とタイル貼りの床
深川の門前仲町というと富岡八幡宮、少し北へ行くと岩崎弥太郎がつくった清澄庭園がある駅だ。
このモダン館の近所には伊能忠敬住居跡の石碑が西100mくらい、小津安二郎生誕の地のパネルが北200mくらいにある。
小津は1903年、深川区亀住町(現在の江東区深川1丁目)の肥料問屋「湯浅屋」で生まれた。1913年父の郷里・松阪に転居したが10年後、19歳のとき家族が暮らす深川和倉町(現在の深川2丁目)に戻り、松竹蒲田に通った。
近くにある古石場文化センターに小津安二郎紹介展示コーナーがあるそうで、そのうち訪問したい。
下町、深川には滝沢馬琴、芭蕉、鶴屋南北などにちなむ観光スポットがたくさんあるようだ。また居酒屋も、門仲には有名な「魚三酒場」、煮込みの「大坂屋」、看板姉妹がいる「だるま」、森下に「山利喜」(やまりき)などたくさんある。歩いてみたいエリアだ。
☆朝ドラの次作は大阪制作の「べっぴんさん」、神戸のファミリアをモチーフにしているそうだ。さて大阪制作の朝ドラでわたくしが一番好きだったのは2003年の「てるてる家族」、大阪・池田のパン屋の4人姉妹のドラマだ。石原さとみ、上原多香子、浅野ゆう子、森口博子らが出演した。ちょうどBSプレミアムの朝7時15分から再放送されていた。
深川観光協会 深川東京モダン館
住所:東京都江東区門前仲町1-19-15
電話:03-5639-1776
休館日:月曜日、年末年始
開館時間 10時-18時(金・土曜日は19時まで)
入館料:無料
「協力:暮しの手帖社」となっているので暮しの手帖や大橋の年譜に関しては正しいはずだ。番組では「登場する団体や商品は実在のものではありません」という表示がエンディングでつねに出ていたが、案外一致していた。3人姉妹が雑誌編集に協力したのは本当で、1歳下の晴子(役名・鞠子)、5歳下の芳子(役名・美子)が創刊100号記念写真(1969年)に編集長の花森安治らとともに写っていた。
また創刊まもないころ銀座西8丁目の日吉ビル3階の事務所には大きな机がいくつも並んでおり、社員で手分けして雑誌発送作業をやっている写真があった
。たしかそんなシーンもあった。
暮しの手帖の売り物の商品試験ではベビーカー(60年)、脱水機付洗濯機(65年)、石油ストーブ(68年)の実験中の写真があった。
父武雄は38歳で亡くなり10歳の鎭子が喪主を務めた。
14歳のときに歯みがきを製造販売したことまで本当で驚いた(テレビでは小橋常子なのでKT歯みがきだったが現実にはオーシー歯みがき)
しかしもちろん現実とは違うこともたくさんある。
ドラマは浜松から始まったが、浜松と鎭子は縁はないようだ。
深川でも木場の東、深川区西平井町(現在の東陽5丁目)生まれ、ただし1歳で浜松とは逆方向の北海道・三笠市(札幌と旭川の中間)へ転居した。
父が結核で退職し、牛込、鎌倉と転居したあと住んだのは目黒ではなく品川区の大井町だった。
自宅は東京オリンピックのころ(1964年)に建てたことになっていたが、実際には1948年、「美しい暮しの手帖」を創刊した年に、大井に自宅兼撮影スタジオを建てている。ただこれが大きい家かどうかはわからないので、64年ころにも自宅を新築している可能性はあるが・・・。
展示で雑誌などの現物をみてわかったことがいくつかある。
創刊号(1948年9月)には、佐田稲子、小堀杏奴、森田たまなど女性有名作家、田宮虎彦、川端康成、扇谷正造、山本嘉次郎など豪華メンバーのほか中原淳一、戸板康二、藤城清治まで名を連ねていて驚いた。「スタイルブック」の蓄積はあるが、やはり花森に伝手があったのだろうか。
花森が66歳で死去したあと鎭子は58歳で編集長兼社長になる。その後、2004年に84歳で社主に就任、とあるのでおそらく84歳まで編集長だったのではないだろうか。とすると大したエネルギーだ。
宣伝ポスターが3点掲示されていた。「天ぷら油とサラダ油はじつはおなじものではないだろうか」(3号)「最近ビスケットを召上りましたか 舌が緑色や黄色に染まったでしょう ほとんどのビスケットは人工着色です」(2号)、「あなたは暮しの手帖を読んでいますか」(94号)である。
94号は明朝体だが、2号、3号は手書き文字を取り混ぜている。ちょっと平野甲賀を思い起こさせる。おそらく花森安治本人のデザインだろう。花森はデザインだけでなく、レタリングやタイポグラフィの才能もあったことを発見した。デザイン面では、強調したい「ビスケット」「黄」「人工着色」は赤文字になっている。また94号は活字を使用しているが、写植時代の切り貼りのように文字を左右にずらしたデザインにしている。暮しの手帖は100号ごとに1世紀、2世紀という通巻番号を使っているので、号数だけではいつごろのものかわからないことが少し残念だった。
これとは別に「たとえぼろぼろになっても この一冊はこれから後に生まれてくる人のために残しておきたい」というポスターがあった。「たとえぼろぼろになっても」の部分のみ手書き文字だった。これは評判を呼んだ「戦争中の暮しの記録」特集(1968年発刊96号、69年に単行本化)なので特別な思い入れがあったのだろう。
なお深川東京モダン館には、建物そのものにもいわれがある。この建物は関東大震災の震災復興事業で1932年3月に竣工した東京市営の食堂で「安くて栄養のある食事」を提供する施設だった。戦災で内部が焼けたが、戦後は都の公共職業安定所分室、区の内職補導所、福祉作業所として活用された。つまり社会事業や福祉事業の拠点施設だった。
一方、建物はシンプルが特徴のモダニズム建築で、屋外に面した階段室は2階まで全面ガラス張り、特徴ある6つの丸窓を備えている。そして玄関や階段には六角形のモザイクタイルが敷き詰められている。耐震耐火を重視し鉄筋コンクリート造で、2008年に国登録有形文化財に指定された。09年に江東区のまち歩きの拠点「深川東京モダン館」として開業した。展示・イベント・講座も実施し、2階の喫茶「にちよう」は週2回ほどの営業だが、ランチやスイーツを提供している。1階でも100円のコーヒーを飲むことができる。
見る価値のある施設なので、ちょうど通りかかった観光人力車の車夫の方もそういう説明をしていた。
モダン館屋内 全面ガラス張りで明るい室内とタイル貼りの床
深川の門前仲町というと富岡八幡宮、少し北へ行くと岩崎弥太郎がつくった清澄庭園がある駅だ。
このモダン館の近所には伊能忠敬住居跡の石碑が西100mくらい、小津安二郎生誕の地のパネルが北200mくらいにある。
小津は1903年、深川区亀住町(現在の江東区深川1丁目)の肥料問屋「湯浅屋」で生まれた。1913年父の郷里・松阪に転居したが10年後、19歳のとき家族が暮らす深川和倉町(現在の深川2丁目)に戻り、松竹蒲田に通った。
近くにある古石場文化センターに小津安二郎紹介展示コーナーがあるそうで、そのうち訪問したい。
下町、深川には滝沢馬琴、芭蕉、鶴屋南北などにちなむ観光スポットがたくさんあるようだ。また居酒屋も、門仲には有名な「魚三酒場」、煮込みの「大坂屋」、看板姉妹がいる「だるま」、森下に「山利喜」(やまりき)などたくさんある。歩いてみたいエリアだ。
☆朝ドラの次作は大阪制作の「べっぴんさん」、神戸のファミリアをモチーフにしているそうだ。さて大阪制作の朝ドラでわたくしが一番好きだったのは2003年の「てるてる家族」、大阪・池田のパン屋の4人姉妹のドラマだ。石原さとみ、上原多香子、浅野ゆう子、森口博子らが出演した。ちょうどBSプレミアムの朝7時15分から再放送されていた。
深川観光協会 深川東京モダン館
住所:東京都江東区門前仲町1-19-15
電話:03-5639-1776
休館日:月曜日、年末年始
開館時間 10時-18時(金・土曜日は19時まで)
入館料:無料