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検定「道徳」教科書はどんな内容?

2017年06月01日 | 集会報告

5月27日(土)午後、東大農学部の教室を使いどうなる? 子どもと教育  「特別の教科 道徳」 のねらいは?」という学習会が開催された(主催:民主教育研究所子どもと教科書全国ネット 21日本民間教育研究団体連絡会子どもの権利・教育・文化 全国センター安倍教育政策 NO・平和と人権の教育を!ネットワーク  参加108人)。
来年4月から道徳の教科化が始まるため、今年3月24日小学校道徳教科書の検定結果が公表された。教科書の法定展示は6月に始まるが、具体的内容や特徴を知りたいとこの学習会に参加した。そこで小佐野正樹さんの「「道徳」教科書はどんな内容?」を中心に紹介する。教科書展示会を見たりアンケートを書く際に大いに参考になる報告だった。また糀谷陽子さんの「まとめ」の発言の内容がすばらしかったので、少し詳しく紹介する。

まず俵義文さん(子どもと教科書全国ネット 21 事務局長)から「「特別の教科 道徳」 のねらいは?」という報告があった。これは道徳教育の背景の解説である。
安倍の「教育再生」政策は、1 グローバル企業がグローバル競争に勝ち抜くための「人材」育成(新自由主義)と2 戦争をする国の「国防軍」とそれを支える「人材」育成(国家主義)を目指すものである。どちらの「人材」育成も「愛国心」「道徳心」が不可欠である。安倍「教育再生」の目玉が次期学習指導要領であり、それを先行実施する道徳教育だと考える。
安倍はいったい何が死にかけているので「再生」しようとしているのか。日本は1947年施行の憲法、教育基本法により戦後民主主義教育が実施された。しかし10年ももたず自民党と文部省により壊されていった。行きつくのは戦前の教育システムの再生である。
戦前の教育は教育勅語の下に行われたが、全面的に具体化するのは修身だった。修身は主要4教科、国語、地理、国史、修身の筆頭教科に位置付けられた。今回の学習指導要領で道徳は「特別の教科」として位置づけられた。教育における総動員体制の仕上げである。子どもを個性のない均質な人材として作り上げようとしているのがいまの教育政策だ。教育に、企業が生産性向上のため品質管理で使ってきたPDCAサイクル(プラン、ドゥー、チェック、アクション)が採用される。

渡辺雅之さん(大東文化大学准教授、民研「道徳教育プロジェクト」委員)は「「特別の教科 道徳」の問題点」というタイトルで次のように述べた。
道徳の問題点にはどういうものがあるか。学校での道徳教育には学習指導要領によるしばりがかけられている。背後にあるのは文科省、そして政府・財界だ。実践的な課題としては3つあり、まず徳目主義だ。ある一定の徳目を立てて子どもたちの思考をそこに落とし込む。立てられた徳目以外には求めないという流れになる。たとえば「かぼちゃのつる」という教材がある。かぼちゃがどんどんつるを伸ばし、スイカがいやだといっても、回りが注意しても伸ばし、最後は荷車にひかれつるが切れ、「痛いよう痛いよう、アーンアーン」と泣く。22の徳目のひとつ、わがままはよくない、というものだ。授業では、かぼちゃのお面を付けて「かぼちゃの気持ちになってみよう」とやる。ひとつの結論に流し込むので、「考え、議論する、対話する」とは真逆になっている。
次の問題は心理主義だ。心理主義とは問題が起きたとき、それはあなたの心の持ち方が悪い、あなたの心の持ち方を変えればよいということだ。例としてジャン・バルジャンの「銀の燭台」がある。謙虚に広い心をもち人を許すことが推奨される。しかし時代背景として、革命後の社会の混乱、民衆が立ち上がる問題、社会的階層、などさまざまな問題があり、キリスト教の問題、貧困格差の問題などがあり「ピエール神父の広い心」にだけ狭めてはいけないはずだ。心がけが悪い、自分が悪い、自己責任だということになる。
3番目に偏狭なナショナリズムがある。これは簡単にいえば「日本すごい」というものだ。たとえば「天使の声」という3.11のとき南三陸町役場で防災無線を担当し最後まで放送して流され死亡した遠藤未希さんの話だ。安倍は総裁選のときの秋葉原での街宣で「命を捨てないと日本を守れないということを身をもって教えてくれた」とスピーチした。しかしよく考えると、災害に対するインフラが脆弱だったということだ。もうひとつ「日本人はすばらしい」は排外主義とセットになっている。
教科としての道徳にどう対抗するかという参加者からの質問に、3つの対抗軸を提示した。
まず全面主義としての道徳性の教育だ。これは学校全体の教育、たとえば合唱コンクールをつかった教育だ。必ず指揮者やパートリーダーをめぐりもめごとが起きる。子どもたちはそれを解決しながら多くを学ぶ。これは指導要領にも書いてあるので堂々とやれる。
次に教科のなかでということだ。たとえば社会科は人間や社会について考える教科だからそのなかで学ぶ。理科では科学的な真実を学ぶ。本当の感性を学ぶことになる。
3つめは「道徳科」のなかでだ。これからは教科なので教科書を使っているかなど、チェックが入るだろう。そのときの道は2つある。ひとつは既存の教材を読み替えて使うことだ。たとえば「オオカミ少年」はウソをつくと食われて当たり前という話だ。そこに「でもこの子はどうしてウソをついたんだろう。考えてみよう」と子どもに問いかける。「さびしかったからかもしれないね」「なぜ村はずれに子どもが一人で住んでいるんだろう」「大人はひどいよね」となるかもしれない。もうひとつは現代的課題を取り入れることだ。たとえばオリンピックを取り上げ、憲章に「国ごとの世界ランキングをつくってはいけない」とあることや難民選手団の話を出すことだ。

次に小佐野(こさの)正樹さん(東京民研共同研究者、元小学校教員)から「「道徳」教科書はどんな内容?」という検定済み教科書についての報告があった。
検定教科書は全部で8社、1年から6年までなので48冊、さらにそのうち3社から書込み式の別冊が出ているので全部で66冊の教科書が検定の対象になった。一方66冊に対して付けられた検定意見が合計で244か所、1冊あたり3.7件。今回初めての検定なのに異常に少なかった。なぜか、出版社側が自主規制した結果だ。
その結果、「私たちの道徳」や民間副教材に出ていた作品が8社すべてあるいは過半数の出版社に採用され横並びの教科書になった。たとえば「はしの上のおおかみ」「かぼちゃのつる」「手品師」などである。
それでも、「感謝」の内容の教材で「お年寄りへの感謝が足りない」という意見が付き、文章も挿し絵も、消防団のおじさんが消防団のおじいさんに差し替えられたものもあった。

また、新聞に取り上げられたように、パン屋が和菓子屋に変った教科書もあった。
また、これまでは特定の語句(たとえば南京虐殺の人数)に対する意見だったのが、今回は「全巻」(単元や節や見開まるごと)対象で「学習指導要領の内容に照らして、扱いが不適切」というような抽象的かつ恣意的な判断にもとづく意見がみられた。
以下、内容で共通することが10取り上げられた。
「自分自身に関すること」「人との関わりに関すること」で1年生の最初のページはほとんどの教科書はみな「楽しい学校、学校大好き」だ。「学校きらいだよ」という子どもがいたらどうなるのか。最初から楽しくてもう大好きでないといけないというふうに当てはめている。「楽しい」「明るい」「仲よく」「誠実に」というような言葉が非常に多い。
「集団や社会との関わりに関すること」では みんなのためにできること、どちらかというと自分は抑えて集団に寄与する人間像が美化されている。こういう内容が非常に多い。高学年になると権利と義務について書いてある内容がたくさんある。細かく見ていくと結局義務ばかり言いたがる。権利ばっかり主張していると、あなたの義務はいったいどうなるだろうという結論である。
「節度、節制」、「礼儀」の項目がある。「日本の心とかたち」という文章があり、このなかで 真のおじぎ、行のおじぎ、草のおじぎが紹介される。「草のおじぎ」は出会いがしらに会釈する程度、これは頭を下げるのは15度のおじぎ、「行のおじぎ」はていねいにあいさつするときで30度、ちゃんとあやまらないといけない「真のおじぎ」は45度、挿し絵付きで、角度まで決まっている。型にはまって行動様式を教え込むものが多い。
今回の道徳から、読む道徳、考え話し合う道徳に転換したというが、それぞれの教材の後に「考えよう」「学びの手引き」のような欄を設けて、話し合ったり考えたり演じたりする課題が設定されている。たとえばいじめの教材の最後に「いじめる役」「いじめられる役」「傍観する役」をそれぞれ演じる。低学年では「わがままをしないで明るい気持ちで過ごせたらひとつ色を塗る」というものがあった。1年に35時間授業があれば担任はすべて点検しないといけなくなる。
その他、「生命や自然、崇高なものとの関わり」では、うわべだけの観念的な見方を押しつける内容が多い。「家族愛、家庭生活の充実」では、祖父母、両親、兄弟がそろった絵に描いたような家族像が描かれ、現実の家族とかけ離れた内容が多い。「国旗と国歌」では国旗・国歌観の露骨な押し付けをしている。
しかし厳しい教科書検定のなかで「世界人権宣言」や「子どもの権利条約」を載せた教科書もある。

右・「世界人権宣言」の解説、左・「子どもの権利条約」
決まったことを押しつける教科書がこれからどういう問題を引き起こしていくか、いっしょに考えていきたい。今年は教科書展示会がある。

質疑、意見交換では、科学的視点の重要性、戦前には国家神道にもつながった宗教的情操、今回の道徳は教師も縛ることになるという問題、また家庭との問題、など多岐にわたった。一般の保護者から「地域のお母さんは「みんなと仲よくできる子」を望む人が9割、こういう人たちに問題意識や危機感を伝えるにはどうすればよいのか」という切実な声も上がった。
最後に糀谷(こうじや)陽子さん(子どもの権利・教育・文化・全国センター事務局長)から「まとめ」の発言があった。すばらしい内容だったので、少し長くなるが、過去に実践された道徳教育の部分を中心に紹介する。

感じたことがふたつある。ひとつは 教科書が科学的ではないし、なによりも人類が積み上げてきた人権とか個人の尊厳、平和、民主主義に裏付けられたものではないこと、保護者の期待に応える教科書にはなっていないことだ。もうひとつは小佐野さんの話の別冊としてつくられているワークシート的な部分のこわさだ。明るい気持ちになったらひとつ色をぬりましょうというようなかたちになっていて子どもたちはいろんなことを書かされるが、これは評価につながる。
けれども人間には内心の自由があるし、それを表に表さない自由もあるとわたしは思っている。わたしが担任として道徳の授業をやるとき、感じたことを書いてもらうが、「出さなくてもいいよ、名前は書いても書かなくてもいいよ、ペンネームでもいいよ」というふうにして書いてもらっている。そして集めて打ち直して次の時間にみんなでそれを読みあう。そしてみんなが書いたものを読んで、「また感じたことがあったら書いて」といって書いてもらい、また集めて配って読みあう。そういうことを繰り返すなかでクラスの雰囲気がすごくやさしくなっていくというのを感じた。「この人の意見に賛成」という言葉が出てきたり、「わたしはそういうふうには考えないけど」と、違う意見だということを書くときの書き方がすごくやさしい。そうやってみんなに自分の気持ちを受け止めてもらえる安心感のなかで子どもたちはいろんなことをさらに考えていったと思っている。
一人の子が卒業式のあとわたしににくれた手紙のなかで「わたしは自分の意見をいわないことが世の中では大事なことだと思っていた。でも糀谷先生のクラスのなかで生活してみて、むしろ自分の意見をいったほうがよいことがあるんだということがわかりました」と書いてくれた子がいる。しかしこれからの道徳ではもうそういうことはできなくなるんだと思う。子どもは自分の名前を出して、そして評価されることを前提に自分の考えや自分の姿を表さなければいけない。
この間いろいろ学習してきたなかでわたしがいちばん印象に残っているのは、国民学校世代の方が言われた言葉だ。「戦前の教育でわたしが学んだことは、人間が建前で生きるものだということだ。いままた同じことが学校で始まろうとしているんじゃないか」という言葉だ。いまおとなに対しては共謀罪で、そして子どもたちに対してもこういうかたちで人間の心を型にはめて統制しようとする企てが本当に強まっていると思う。それはまさに戦争前夜であって、これは教育の問題としてだけでなくやはり憲法改悪反対の大きな総がかりのなかにも位置付けて闘っていく必要があるのではないかと思う。

☆糀谷さんの話に出てきた、感じたことを書いて読みあいまた書いて読みあうという方法は、増田都子さんの「紙上討論」とよく似ていると思った。社会科教育か道徳教育かという違いはあるが、「書いて読みあう」の繰り返しが、集団作業で大きな成果を生むという点で同じだ。また今回の学習指導要領の目玉である「アクティブ・ラーニング」は本来はこういう教育方法を指したのではないかと思った。
「紙上討論」の具体例についてはこちらの4回シリーズを参照していただきたい(リンク)。

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