「小さいおうち」のはじめのシーンが火葬場というのには驚いた。火葬場の煙突から煙が立ち上る光景は、たとえば小津の「小早川家の秋」でもあった。しかしいきなりヒロイン・タキ(倍賞千恵子)の火葬から始まる映画はなかなかないと思う。しかも釜の前に置かれた遺影の写真がヒロインの登場シーンなのだ。山田洋次監督は「おとうと」で臨終の場面を延々と撮っていたが、老境にさしかかりとうとう火葬や葬儀に思いを馳せたのだろうか。
倍賞千恵子が80代の老婆の役をやっていた。腰が曲がっていた。プログラムの本人の弁で「現場では『腰を曲げて曲げて』と監督に言われ、そこを注意しながらやった」と述べている。実年齢は72歳なので、たしかに少しつらいだろう。
また米倉斉加年の顔のシミと「目も足も3年前にダメになって」というセリフ。年をとると、だんだん体の自由がきかなくなる。極めつけは、大泣きしながらタキが語る「私、長生きしすぎたのよね」というセリフである。
80代の山田監督のホンネなのかもしれない。
次の論点は、山田監督には珍しい女性映画だということだ。男もつらいかもしれないが、「女もつらいよ」という映画だった。
時子(松たか子)は、この映画のなかでは一番寅さんに似て、自由奔放な性格だ。年始に来訪した客をみて「男ってイヤね。こんなときにも戦争と仕事の話しかしない」と吐き捨てる。そして恋愛では挫折を味わう。タキは、主人に従い、主人を立てる女、しかしいうべきときは毅然とした態度をとる。そういう「日本の女」的な面が、黒木華のベルリン映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)受賞につながったのだろうか。時子の姉、貞子(室井滋)は猛烈な教育ママで、原作では手塩にかけた息子を名門・府立高校(七年制、その後の都立大学)に進学させ東京帝大理科に入学させた。時子の女学校時代の親友・睦子(中嶋朋子)は雑誌編集者として時流に先駆け、かつ時流に流される生き方をしている。
また山田映画なので、やはり反戦映画でもある。
ショージ(吉岡秀隆)が出征するとき、「僕が死ぬときは、奥様とタキちゃんのためだ」との言葉に、タキは思わず「だめです。死んではいけません!」ときっぱりいう。このセリフは原作にはない。山田監督の強い思いなのだろう。
「母べえ」(山田洋次 2008年)と同じ時代(1940年代)を背景にしている。ただし玩具会社の常務と左翼学者では、家庭の映画でも違うストーリーになる。もちろん「母べえ」のほうが悲惨な日々のはずだが、こちらは5月の大空襲で夫婦共に自宅の防空壕で焼死してしまうのだから最悪の結果である。
役者としては、松たか子の和服姿がなかなかよい。前にみた「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」(根岸吉太郎 2009)を思い出した。
松の姉役・室井滋が麻布の奥様を演じられるとは思わなかった。「のど自慢」(井筒和幸 1999)の赤城麗子や「風の歌を聴け」(大森一樹 1981)の自殺する女の子をみた観客としては、時の流れを痛感した。4月からは朝ドラ「花子とアン」で主人公の母・安東ふじ役を演じるそうだ。
吉行和子はもう78歳なのにずいぶん若々しく、元気いっぱいにみえた。朝ドラ「ごちそうさん」では「ぬか床」という「難しい」役を演じているが、大したものである。
その他、脇役も豪華だ。チョイ役で、笹野高史(荘内の中学教員)と松金よね子(その叔母)、そしてあき竹城(タキの伯母)、林屋正蔵(マッサージ師)が登場する。また平成のタキの周囲には小林稔侍、夏川結衣、米倉斉加年が出てくる。木村文乃はこんなにきれいな人だとは知らなかった。山田映画なので、いつものように蒼井優でよいではないかもと思ったが、やはりもっときれいな人のほうがこの映画には合う。
この映画のひとつの主役は赤い瓦の三角屋根の家である。この家の姿からは、音羽の鳩山邸や大田区久が原の「昭和のくらし博物館」を思い出した。鳩山邸はステンドグラスや応接間、「昭和のくらし博物館」は台所や縁側、庭などである。そういえば玄関の脇にご主人の書斎があった。2階には3姉妹がつかう子ども部屋があり、以前は下宿人が住んでいた。
オレンジと黄色のステンドグラス、電灯の傘、玄関の床のタイル、応接間の壁紙、応接間の陶器の西洋人形がそれぞれ美しい。駒場の前田邸なら洋間の各部屋に暖炉があるが、サラリーマンの家なのでさすがにそこまではなかった。わたしにはわからないが、格子縞、棒縞、井桁絣など和服の模様や色、材質にもきっとこだわりがあるのだと思う。ブリキや木のおもちゃ、模型飛行機、タンク・タンクローのマンガなどもリアルでしっかりしていた。夜空には大きな星がたくさんまたたいていた。そして月が大きかった。田舎や避暑地までいかなくても東京でもたしかにこんなだった。
山田監督は映画監督なので、新藤監督のように100歳近くまで映画をつくり続けるかもしれないが、小津の晩年のように、もう円熟期の作品にみえる。2時間16分の長い映画だったが、長いとは感じなかった。
赤い屋根の家というので、場所は、たとえば東上線のときわ台あたりかと思った。宮前小学校という地名が出てきたので杉並かとも思ったが、じつは大田区雪谷が舞台だった。近くの石川台は「おとうと」で吉永小百合が薬局を開業していた場所だ。息子が通学する小学校は2駅隣の長原、住所は上池台になっていた。じつは山田監督は高校生のころそのあたりに住んでいたらしい。満州と山口県に住んでいたことは有名だが、卒業したのは小山台高校だった。
さてこの作品の脚本も平松恵美子との共作である。わたしは内心、この映画こそ平松監督の映画になるのではと期待していた。もしかすると今後も小津映画の野田高梧のような役割で共作を続けるのだろうか。この映画には、洗濯、掃除、雑巾がけ、アイロンかけ、調理、子どもの世話、病人の看病、など数々の家事仕事が出てくる。きっと平松さんがきめ細かく振付けたのではないかと思った。
☆教育ママの貞子が「本郷の誠之、青山の青南、麹町、番町、それと白金。この5つくらいに入れなければ、まともな中学へは行かれないわ」と時子に説教する。平塚らいてうや中村光夫が出た誠之、安岡章太郎、北杜夫が卒業した青南は知っていたが、戦前から番町、麹町は有名だったようだ。そして白金小学校からは小林秀雄、古井由吉を輩出した。原作の中島京子という人は、50歳前の若い人なのに府立高校といい、どうしてこんな古いことを知っているのか少し驚いた。
倍賞千恵子が80代の老婆の役をやっていた。腰が曲がっていた。プログラムの本人の弁で「現場では『腰を曲げて曲げて』と監督に言われ、そこを注意しながらやった」と述べている。実年齢は72歳なので、たしかに少しつらいだろう。
また米倉斉加年の顔のシミと「目も足も3年前にダメになって」というセリフ。年をとると、だんだん体の自由がきかなくなる。極めつけは、大泣きしながらタキが語る「私、長生きしすぎたのよね」というセリフである。
80代の山田監督のホンネなのかもしれない。
次の論点は、山田監督には珍しい女性映画だということだ。男もつらいかもしれないが、「女もつらいよ」という映画だった。
時子(松たか子)は、この映画のなかでは一番寅さんに似て、自由奔放な性格だ。年始に来訪した客をみて「男ってイヤね。こんなときにも戦争と仕事の話しかしない」と吐き捨てる。そして恋愛では挫折を味わう。タキは、主人に従い、主人を立てる女、しかしいうべきときは毅然とした態度をとる。そういう「日本の女」的な面が、黒木華のベルリン映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)受賞につながったのだろうか。時子の姉、貞子(室井滋)は猛烈な教育ママで、原作では手塩にかけた息子を名門・府立高校(七年制、その後の都立大学)に進学させ東京帝大理科に入学させた。時子の女学校時代の親友・睦子(中嶋朋子)は雑誌編集者として時流に先駆け、かつ時流に流される生き方をしている。
また山田映画なので、やはり反戦映画でもある。
ショージ(吉岡秀隆)が出征するとき、「僕が死ぬときは、奥様とタキちゃんのためだ」との言葉に、タキは思わず「だめです。死んではいけません!」ときっぱりいう。このセリフは原作にはない。山田監督の強い思いなのだろう。
「母べえ」(山田洋次 2008年)と同じ時代(1940年代)を背景にしている。ただし玩具会社の常務と左翼学者では、家庭の映画でも違うストーリーになる。もちろん「母べえ」のほうが悲惨な日々のはずだが、こちらは5月の大空襲で夫婦共に自宅の防空壕で焼死してしまうのだから最悪の結果である。
役者としては、松たか子の和服姿がなかなかよい。前にみた「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」(根岸吉太郎 2009)を思い出した。
松の姉役・室井滋が麻布の奥様を演じられるとは思わなかった。「のど自慢」(井筒和幸 1999)の赤城麗子や「風の歌を聴け」(大森一樹 1981)の自殺する女の子をみた観客としては、時の流れを痛感した。4月からは朝ドラ「花子とアン」で主人公の母・安東ふじ役を演じるそうだ。
吉行和子はもう78歳なのにずいぶん若々しく、元気いっぱいにみえた。朝ドラ「ごちそうさん」では「ぬか床」という「難しい」役を演じているが、大したものである。
その他、脇役も豪華だ。チョイ役で、笹野高史(荘内の中学教員)と松金よね子(その叔母)、そしてあき竹城(タキの伯母)、林屋正蔵(マッサージ師)が登場する。また平成のタキの周囲には小林稔侍、夏川結衣、米倉斉加年が出てくる。木村文乃はこんなにきれいな人だとは知らなかった。山田映画なので、いつものように蒼井優でよいではないかもと思ったが、やはりもっときれいな人のほうがこの映画には合う。
この映画のひとつの主役は赤い瓦の三角屋根の家である。この家の姿からは、音羽の鳩山邸や大田区久が原の「昭和のくらし博物館」を思い出した。鳩山邸はステンドグラスや応接間、「昭和のくらし博物館」は台所や縁側、庭などである。そういえば玄関の脇にご主人の書斎があった。2階には3姉妹がつかう子ども部屋があり、以前は下宿人が住んでいた。
オレンジと黄色のステンドグラス、電灯の傘、玄関の床のタイル、応接間の壁紙、応接間の陶器の西洋人形がそれぞれ美しい。駒場の前田邸なら洋間の各部屋に暖炉があるが、サラリーマンの家なのでさすがにそこまではなかった。わたしにはわからないが、格子縞、棒縞、井桁絣など和服の模様や色、材質にもきっとこだわりがあるのだと思う。ブリキや木のおもちゃ、模型飛行機、タンク・タンクローのマンガなどもリアルでしっかりしていた。夜空には大きな星がたくさんまたたいていた。そして月が大きかった。田舎や避暑地までいかなくても東京でもたしかにこんなだった。
山田監督は映画監督なので、新藤監督のように100歳近くまで映画をつくり続けるかもしれないが、小津の晩年のように、もう円熟期の作品にみえる。2時間16分の長い映画だったが、長いとは感じなかった。
赤い屋根の家というので、場所は、たとえば東上線のときわ台あたりかと思った。宮前小学校という地名が出てきたので杉並かとも思ったが、じつは大田区雪谷が舞台だった。近くの石川台は「おとうと」で吉永小百合が薬局を開業していた場所だ。息子が通学する小学校は2駅隣の長原、住所は上池台になっていた。じつは山田監督は高校生のころそのあたりに住んでいたらしい。満州と山口県に住んでいたことは有名だが、卒業したのは小山台高校だった。
さてこの作品の脚本も平松恵美子との共作である。わたしは内心、この映画こそ平松監督の映画になるのではと期待していた。もしかすると今後も小津映画の野田高梧のような役割で共作を続けるのだろうか。この映画には、洗濯、掃除、雑巾がけ、アイロンかけ、調理、子どもの世話、病人の看病、など数々の家事仕事が出てくる。きっと平松さんがきめ細かく振付けたのではないかと思った。
☆教育ママの貞子が「本郷の誠之、青山の青南、麹町、番町、それと白金。この5つくらいに入れなければ、まともな中学へは行かれないわ」と時子に説教する。平塚らいてうや中村光夫が出た誠之、安岡章太郎、北杜夫が卒業した青南は知っていたが、戦前から番町、麹町は有名だったようだ。そして白金小学校からは小林秀雄、古井由吉を輩出した。原作の中島京子という人は、50歳前の若い人なのに府立高校といい、どうしてこんな古いことを知っているのか少し驚いた。