アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-6

2022-10-07 19:37:18 | アヴァンギャルド精神世界18年の回顧neo

◎人類全体の進化

人類全体が進化する時期が到来した。

人間の進化形は、大悟覚醒を経て、人が神と共に生きていく形。さりとて、人間の進化形とは、いろいろな表現の仕方がある。

1.人間が第六身体、第七身体に至るという、体験とは言えない体験を経て、神仏とともに生きる。

2.悪いことをせず、善いことだけをして、真理を以て生きる(諸悪莫作、衆善奉行)

3.人の目には涙もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。(聖書ヨハネの黙示録21章)

4.「何ものも救うことはできないし
救う必要もない
このことを頭によらずに理解したら
君は正真正銘の救世主であり
救うというマインドなしに
すべてを救うように生きている」
(ダンテス・ダイジ/アメジスト・タブレット・プロローグP21から引用)
そんな人だらけの時代。

5. 無用の用、無価値の価値に直観的に気がついて、冥想を習慣とする人ばかりで成る霊的時代。自分の微細身である霊があることは誰にとっても当たり前の感覚であり、上昇する気であるウダーナ気の原理を利用した墜落しない飛行メカニックが登場する。

6.七福神の楽遊びの時代
苦と悲嘆のない七福神の楽だけの時代にして、万人が長寿となり、悪行を行う者はいない。
労働は午前だけ3時間。天候は5日に一回風が吹き、10日に一回雨が降る温和な気候(五風十雨)。     
天皇が世界の君主となり、人々は181段階の身分に組織される(トップは大神)。
現代の技術文明は破壊されほとんど残らないが、「電信」だけは残る。
人口は大幅に減り、山陽地方に十万都市が一つ、山陰地方に十万都市が一つという程度。金持ちは各地方に一人しか置かず、お金が要る場合は彼から引き出す。

全人類が進化するとは、全人類一斉に進化する構想と五月雨式に個々ばらばらに進化していく構想があるようだが、時代がここまで煮詰まってくれば、どちらになるかほとんど決まっているのではないか。ノストラダムスらが見た1999年のエポックが20年ほど延期された結果はどちらに転ぶのだろうか。

さて人類全体の視点もさることながら、人一人が今日できることはたかが知れているからには、今日も坐り、神仏を敬い、生きていく。
最後にダンテス・ダイジの詩を挙げる。人類は、愛の時代に進化するのだ。

「【オカルティックに】

この中有界タイプの世界文明は、
20世紀末に終わる。
現代文明とは、マニピュラ・チャクラとアナハタ・チャクラとのバルドのことである。
欲望満足と『愛』との上下運動のことである。

文明の終末なぞ、別にどうということはない。
この世のあらゆるものは産まれ生き死ぬ。
呼吸は、出息で死に入息へと再生する、
入息は終り出息が始まる。
そのように、あなたは死ぬのだ!


おお、限りなく愛しいマーヤよ!
六道のつじよ!  
さようなら・・・・
すべては、あなたのためにあるのではない。」
(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

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アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-5

2022-10-07 19:32:29 | アヴァンギャルド精神世界18年の回顧neo

◎物事を変えるには相当に早い時期から準備が必要

戦争や国家レベルの飢餓やパンデミックが発生した際に、それを避けるにはどうすればよかったかなどと考えるものだ。

ところが、人間一人のできることはたかが知れているし、また人間一人が自分の意志や努力を以てしても髪の毛一本白くも黒くもできない。

だからと言って知らない他人である聖者やスーパーマンが登場したところで、この価値観が多様化し、自分勝手にして、メリット・デメリットや金や便利に敏い人々が、国家的危難を前もって避けるために、禁欲的にして無欲の努力を毎日繰り返せるとも思えない。

またそのような国家的クライシスは、何十年も前に霊界で起こっていた事件が現実化したものであるなどと、したり顔に述べたとしても、追い込まれた現実は何も変わらない。

至福千年、すべての人が悟っている時代に大規模にチェンジする場合を想像する場合、どんなどうしようもない人でも神仏に祈るような真剣な精神状態が起こる危機を想定せざるを得ない(凡夫の耳も菊の年)。

ところが、人が本当に意識的であって覚醒しているのは、強盗にナイフを突きつけられて金を出せとやられているような時だけである(OSHOバグワンの所説)。

これは、自分が殺されるかもしれないという恐怖が人を覚醒させ、本気にさせるメカニズム。これをダンテス・ダイジは、恐怖の恵みと呼んだ。そのステージでは、人は、石になって聞くまい見るまいとする人、発狂(自殺)する人、悟る人のいずれかに追い込まれる。

自分も巻き込まれる国家的危難が起こってからは、このようにあっという間に追い込まれて、とてもではないが事前にそうならないような行動をとって対策するどころではない。

人は一般に、追い込まれて誤った選択を強いられるのを嫌うものだ。いわんやその選択で自分の生死や人生もう一度やり直しとなるようなことであれば。

よって、国家的クライシスを避けるためには、物事をありのままに見て、本気で生きることが相当に早い時期からできる人が、相当な数でそろわないとできないと思う。

ありのままに見て、本気で生きるには、結構生きるための情熱が必要なものである。それは、実のところ生得的なもので、今生に生まれてきてからでは何とかなるものではない場合がある。そういう人も少なくないが、そういう人たちも何生か後にはそういう段階に進むことができるのだろう。

旧約聖書ソドムの町では、そんなちゃんとした人は10人もそろわなかったので、核兵器で滅亡した。いわんや日本でそんなちゃんとした人が何人必要なのかはわからないが、できることは自分がちゃんとした人になることだけ。

だからこのブログは、我が試論なのである。悟っていない自分は他人を教えたり指導することはできないが、18年の試行錯誤の跡は人によっては役に立つ部分もあったのではないかと思う。

またこのブログでは、人文科学の本を参照することが大半なのだが、古書ネット通販の発展で良質な古書ほどすごい値段になっており、昔より貧困化した若い求道者が原典にあたることはますます難しくなっているのだろうと思う。その点で、故意に引用を増やしてきたところはある。

そして1990年代以前に比べると良書の出版がここ20年はとても少ない印象がある。良質な書き手が少なかったのは、大物覚者が1990年代までに既にいなくなったからなのだろう。

いよいよ時代は、気候も社会も人心も荒れ始め、爛熟を極めている。こういう時期には若い聖者、覚者が続々と出る時節なのだと思う。私も自分の努力の傍ら、それを期待したい。

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アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-4

2022-10-07 19:31:04 | アヴァンギャルド精神世界18年の回顧neo

◎わが身一身で、あらゆる冥想法を試すわけに参らぬこと

このブログでは、カテゴリー区分に冥想法の種類を用いてはいるが、肝心の冥想法自体にほとんど深入りしていない。例外的に只管打坐については、古典である普勧坐禅儀の紹介は行っている。

それはなぜかと言えば、各冥想法の窮極に至る部分は明かされていないからである。

いろいろな冥想法で本当にそれで悟れるかどうかを試すには、自分でその行法の正師について、その瞑想法で自分を死なねばならない。自分を死ぬとは、自殺のことではなく、自我が死ぬということ。

悟りに至る様々な冥想法がある。ただ坐る、マントラを唱えて坐る、坐相は固定し雑念は放っておいて坐る、特定の観想を行う等々。

複数の冥想法について、それぞれの冥想法で大悟できると述べるには本来自分がその冥想法で大悟する必要がある。だが、人は一生に一度大悟するのがせいぜいであって、大悟を二度するためには、二度目も相当の準備をせねばならない。

そして大悟覚醒は、OSHOバグワンの言うように生存確率がさほど多いものではないということがある。事程左様に二度大悟するというのは困難であって、いわんや複数の冥想手法でそれぞれ最終ステップまで極めたなどと言う人物はそう多いものではない。

世にクンダリーニ・ヨーガと只管打坐を極めたのは、釈迦とダンテス・ダイジのみなどという説があるが、一方で誰がその真実を検証できようか。

また冥想手法それ自体の危険性も問われるアスペクトもあり、ソーマ・ヨーガ、カーマ・ヨーガなどは、その結果と事後のことを考えれば、おいそれと悟り後の入鄽垂手(にってんすいしゅ)のことなど展望できない。

このようにわが身一身で、あらゆる冥想法を試すわけに参らぬから、事実上検証不可能な冥想手法群を比較する物差しとして、七つの身体論を用いた。また冥想十字マップという視点軸もある。

七つの身体論の検討は、【ザ・ジャンプ・アウト】にて実施済。【ザ・ジャンプ・アウト】では、人間の輪廻転生のリアリズムについて言及が不足していると感じて、【エクスタシス 夢の夢なる】で研究してみた。

さらに万人が悟る時代として、何をどう知的理解して納得して初めて冥想行に向かうかを考えた場合、それに必要な考え方を構成してみようと【真剣から無駄へ-世界の戯れ】を始めた。

「万人が神仏を知る時代」などと掛け声は勇ましいが、その内実は暖簾に腕押しであって、相当に厳しい。このブログの試みに見るように、一人一人のできることはたかが知れている。それでも日々それを積み上げ、束ねた先に至福千年の時代を見るのだ。

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アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-3

2022-10-07 19:29:38 | アヴァンギャルド精神世界18年の回顧neo

◎相としての組織宗教衰退と万人が神仏を知ること

古代エジプトの過ぎ越しの頃、悪玉エジプト人は、善玉ユダヤ人を奴隷としていた。神は、圧政を続けるエジプトのすべての初子を撃ち殺すという予告を行った。だが条件がついており、家の二本の門柱とかもいに子羊の血がついている家には、その災いは及ばないとした。これに従い家に子羊の血を塗ったユダヤ人の幼児は存命し、後のエジプト脱出につながっていく。

情け容赦もなく、神の手が人を殺害していくというイメージは恐ろしいもので、人は本能的にそういうシチュエイションでは、救済を必要とする。

死後地獄に落ちるというイメージもこれまた恐ろしい心理に追い込まれがちになるもので、地獄に落ちないように生きて、天国、極楽に入るようになるためには、わが宗派に入信しなさいというのは、これまでの組織宗教やらカルトの定番手口だった。地獄絵図、地獄漫画、地獄説話、地獄AVを豊富に用意して、恐怖によってオープンになったところにつけこんだのは、キリスト教であり、浄土系仏教やカルトなどだったわけだ。禅ではそういう手口は用いないが、禅の中興の偉人白隠ですら幼少時は地獄を恐れた。

古代エジプトの時代も今も、万人にとって死は避けられるものではないが、幼児や思春期以前の人において、死は対処に困り、いわんや地獄もお手上げになってしまうものである。

ところが、あらゆるまともな宗教の窮極は天国・極楽ではなく、天国も極楽も地獄も超えた先にある。ともすれば、組織宗教、大衆宗教では、天国も極楽も地獄も超えた先(解脱)については、説明しづらく理解を得ることも困難であるから、ちゃんと解き明かさないままになっており、聖性の香りだけを漂わせるようにしているものだ。

その点において禅では、「説明できないものは説明できない」の一点張りであり、これを老婆親切と言う。

天国や極楽を目指す宗教において、自分が死ぬというのは、天国や極楽に入るためということになり、わかりやすいが、輪廻転生を超えた解脱ではない。仏教でもキリスト教でも実は最終到達点を天国や極楽に入るところには置いていない。

おまけに最終到達点は、言葉で表現できず、3DのGPSマップでも指し示すことはできないし、最もやっかいなことには金で手に入れたり、他人からもらったりすることができない。

時代は、大きく各人が自分でその最終到達点を目指す方向に舵を切られた。

そうした人間の側の進化の段階を踏まえ、「天国・極楽を目指す」大衆宗教・組織宗教の命脈がまもなく尽きるという予言・予告がひたひたと行われるようになってきたわけだ。

仏教が終わる、キリスト教が終わるというのは、大変なことである。だが、それは、イエスや釈迦と友達づきあいができる程度に万人が神を知るようになるということを意味する。万人が神を知っている時代に、もはや仏教やキリスト教は不要なのである。
だからイエスは弟子たちの足を手ずから洗って、釈迦はみんなの見える前で弟子の迦葉(かしょう)に蓮華を見せた。

なお、密教系、クンダリーニ・ヨーガ系、古神道、道教では、最初から天国・極楽・地獄を超えた究極を目指す構成を有してはいる。だが、それも大衆化すれば、自ずと堕落変質した部分ができることに変わりはないのではないかと思う。

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アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-2

2022-10-07 19:28:15 | アヴァンギャルド精神世界18年の回顧neo

◎出口王仁三郎

私は大本教の信者であったことはないが、大本教の東京本部と亀岡の本部に行ったことがある程度の横好きである。

最初に興味を持ったのは『巨人出口王仁三郎』という文庫本を読んでからであって、それから大学図書館で大本神諭の予言に触れて出口ナオ、出口王仁三郎が日本人の生存確率をひどく低く見ていることに暗澹としたものだ。

大学生のうちに霊界物語を読んだが、正直言って、全82巻中最後の9巻天祥地瑞の格調の高さは感じられたものの、わかったとは言えなかった。

出口王仁三郎は、六度死んでいるわけだが、その後の分析で、高熊山の最初の大悟が極めて重要であって、神人合一(中心太陽突入)したかどうかはわからないが、彼の人生の方向性を決めたのはそこだったように思う。

肝心要めの六回の死で、それぞれ何が起こったかについて記録がないのはとても残念なことだと思っている。

出口王仁三郎で重要なのは、古神道の伝統に則り、神下ろし(帰神)をメイン手法として教団内で進めたが、降りて来る神がひどすぎて、膝ジャンプなども続出。結局神下ろし(帰神)を教団内で行うのはやめた。以後鎮魂がメインとなった。だが、素質のある高弟に鎮魂の秘儀を伝授したはずなのだが、結局その仔細は明かされず、戦後の大本教系教団(生長の家、世界救世教など)の隆盛につながったことだけはわかる。

誰に伝授されたかということよりも、大本教が二度にわたり官憲に教団ごと弾圧されたことが日本の将来の姿を決定づけたことの方にむしろ注目すべきなのだろうと思う。

一回目の第一次大本教事件は、1921年2月12日発生し、出口王仁三郎の逮捕、本山神殿の破壊が行われた。これは、日本全体で言えば、1945年の太平洋戦争の敗戦に照応する。

第一次大本教事件以後教団は再度隆盛になったが、二回目の第二次大本教事件は、1935年12月8日発生。出口王仁三郎の逮捕、本山神殿の破壊、また焚書、信者の拘束や出頭命令は三千人に及ぶと言われる。これは、第一次大本教事件よりも徹底したものであって、出口王仁三郎の収監は、7年の長きにわたった。

第二次大本教事件は、今後次に来る日本の再度の敗戦を示すものであり、1945年の敗戦よりさらに徹底したものであることが示されている。

出口王仁三郎の受難をイエスに比して考えるむきもあるが、そうではあるまい。それには、彼の立替立直し論を知らねばならない。

彼の立替立直しは、三段であって、まず自分自身の立替立直し、二段目が日本の立替立直し、三段目が世界の立替立直し。ノアは破壊にして立替。ナオは復興にして立直し。三段目まで進んで、宗教のない世界、みろくの世、至福千年となる。

自分自身の立替立直しは、鎮魂という冥想法がメインであって、自分の死に臨み(出口王仁三郎は六度死ぬ)、神を知る。

世界の立替立直しに先行して、日本の立替立直しが発生。この際、日本人の生存確率やら蒙古への西遷などが問題となる。次に世界の立替立直しがあるが、滄海変じて桑田となるようなことが世界的に起こる。そこで外国人の生存確率が問題となる。

日本と日本人の将来に殉じた出口王仁三郎は、官憲の弾圧にあったことで、かえってまま子扱いされたままであるが、見る目のある人には感じるところがあるのではないだろうか。

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アヴァンギャルド精神世界18年の回顧-1

2022-10-07 19:25:28 | アヴァンギャルド精神世界18年の回顧neo

◎ブログを始めた頃

冥想をテーマにしたブログということで、18年前に「アヴァンギャルド精神世界」はスタートした。始めた頃の偽らざる気持としては、時代の存続のため、人類存続のために、生活において冥想が根付くことの一助になれば、ということが動機であった。そして、宗派を超え、無宗派であってもよいが、冥想実践・研究するブログが雨後の竹の子のように殖えて行ってくれればよいなどと思ったのだ。

18年たってみれば、そのような超宗教的な冥想の研究、普及を標榜するブログは、わがブログを除いてほとんど見当たらない状態である。勿論特定の一宗派の道を進んでいく宗教ブログも大変結構なことだと考えてはいる。

このブログは、一貫してgooでやってきた。初期の頃は、コメントは書き放題であって、削除機能もなかったから、実質的に掲示板と変わることはなかった。今も昔もそうだが、記事と何の関係もないコメントを書く人は多いもので、そういう人は自分でブログを立ち上げるか、掲示板に書くかすればよいのにと思っていた。何年かたって、コメント公開非公開、削除機能がついてからは、記事に関係のないコメントはなくなった。

人間の知識は、樹木のようなものであり、いろいろな書物に実際に当たっていく中で、芽が出て、葉も出て枝が増えやがて大樹のようになっていく。2005年当時は、はかない若芽のようなブログであり、とても痩せて力のないブログだったが、18年たってみれば、それなりにわかってきたところも多い。

人間の悟り方には三種あり、大神を憑依させる(神下ろし)、見神・見仏、神人合一であるが、結局この18年で大悟することはできなかった。ただ選ぶべき道程としては、見神・見仏から神人合一のルートなのだろうと思う。

時代はこれから、再度の軍国主義に向かい、その体制を整備する中で、自由な発想、自由な思索、形式や既成概念にとらわれない生き方の研究・実践はどんどん認めない、恐ろしく逼塞した時代に進んで行くのだろう。

それはなぜかと言えば、人間が神知らぬことがあまりに当たり前とされる時代になり過ぎたからである。人間が進むべき方向がここに来て、本来進むべき方向とあまりにも乖離してしまったからである。

またそれはなぜかと言えば、テクノロジーの進展により少数者、為政者が大衆の思想、言論を簡単に規制、コントロールできるようになったからである。神知らぬ権力者は、当然にそうしたテクノロジーを自分のために行使するものだ。

大衆もほとんど神を知らず、為政者も神知らずでは、そこに起こるのは大規模な混乱のみである。

2022年9月22日BS日テレ深層NEWSで、ロシアのプーチンが繰り返し核使用を言及していることについて笹川平和財団小原凡児氏がコメントをしていた。曰く、核には戦術核(小型)と戦略核(一国を滅亡させる規模のもの)がある。最初は、戦術核で始まるが、それは人の少ない場所に落とされるのではないか。だが被害国が戦術核を持っていれば、戦術核で反撃するが、戦術核を持っていなければ戦略核で反撃せざるを得ない。よって、戦術核の使用は、全面核戦争に発展する可能性を孕む、と。

これで気になったのは、「最初の戦術核は、人の少ない場所に落とされる」というところ。昔ダンテス・ダイジが核戦争を予言して『荒野に火の玉が燃える』と言ったのだが、なぜ荒野なのだろうと長年疑問に思ってきたが、それが氷解した。荒野への核攻撃は威嚇として始まるが、全面核戦争への引き金になり得るということ。

神知らぬ国ほど乱暴狼藉だが、ところで神知る国は、神を知っている人の多い国は、どこにあるのだろうか。

この日常性の危うさの中に、冥想へのニーズがある。

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禅の主人公

2022-10-07 17:19:08 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎自分自身を演技する

 

人間そのもの自分そのものになること、自分そのものを演じきることが人生であり、そこで自分が主人公として生きることこそが、神仏に至る道である。

 

自分が主人公を演ずるという見方は、禅にもある。禅の公案集である無門関に主人公の話がある。

 

『瑞巌の彦和尚は、毎日自分に向かって、「おい主人公」と喚びかけ、自分で「はい、はい」と応えた。

「しっかり醒めていなさい」

「はい」

「どんな時も他人に騙されてはいけませんよ。」

「はい、はい。」と自問自答するのが常であった。』

無門関第十二則 巌喚主人。

 

無門禅師は、修行者は彼の真似をしてはいけないとする。認識する者と認識される者が別々のままだから。だが、そこで行き詰り切って先に行くこともある。

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OSHOの高弟の死

2022-10-07 16:58:47 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎肉体へ帰還せず

 

OSHOの高弟で、元ハノーヴァー公国のウェルフ王子30歳(道名ヴィマルキルティ)は、1981年1月5日、日課のウォーミングアップをしている時に脳出血で倒れた。そして1月9日の晩に悟りを得て、翌10日に亡くなった。

 

OSHOの弔辞

「ヴィマルキルティは、祝福されている。彼はわたしのサニヤシン(弟子の修行者)の中でも数少ない選り抜きの一人て、ここにいる間中その信頼は一瞬たりとも揺らがなかった。

 

その信頼はトータルだった。彼は一度として質問をせず、一度として手紙もよこさず、一度として問題を持ってくることもなかった。彼の信頼は、だんだんと彼をして完全にわたしと溶け合わせてしまうほどのものだった。

 

彼は世にもまれなハートをもった一人だった。あのような質のハートは、この世界から消えてしまった。彼こそ本当の王子だ。本当に気高い、真の貴族だと言える。

 

貴族の位というは、生まれとは関係ない。それはハートの質と関係があるのだ。そして私のみた限り、かれはこの地上でもっともまれな、最も美しい魂のひとりだった。」

(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社から引用)

 

OSHOは、ヴィマルキルティは、脳出血で倒れた時にまだ悟っていないのを知っていた。それで倒れてから7日間プーナの病院の呼吸装置にかけておくように命じた。死の前日ヴィマルキルティが、「すること」から「しないこと」への境界線を超えたことをOSHOは確認した。(「すること」は、人間としてすること。「しないこと」は人間としてしないこと、つまり神としてすること)

 

この境界線を超えるためには、肉体と魂が別であることを熟知していることの他に肉体を持っていなければならないので、その肉体の内臓は、もうぼろぼろだったけれど、境界線をを超えるまで、病院の人工呼吸装置で延命させたというニュアンスのことを、OSHOは解説している。

 

OSHOは、「ヴィマルキルティが、二度と肉体に戻って来る必要がないだろう。彼は目覚めて去ってゆく。ブッダフッド(悟り)の状態で去っていく。」と評した。OSHOは、肉体への帰還についてはあまり関心がなかったようだ。インド人は、宇宙意識(ニルヴァーナ)まで到達することについて関心は高いが、そこから日常に戻ってくることには関心が薄いのだろう。それがインド的伝統なのだろう。

 

ヴィマルキルティが、インド・プーナの同じコミュニティでOSHOと暮らしながら、一度として、質問しにも来なかったというのは、覚者OSHOのバイブレーションを味わうだけでよかった段階だったのだと思う。

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念仏の一遍の悟り

2022-10-07 15:47:29 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎となふれば仏もわれもなかりけり

 

兵庫の宝満寺で一遍は、紀州由良の法燈国師に参禅していた。国師が、「念仏して覚醒」を公案として提示されたので、一遍は、次のように詠んだ。

 

となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして

 

法燈国師は、この歌を聞いて「未だ徹していない。」とおっしゃったので、一遍は、また詠じ直したところ、国師は、その歌を覚醒と認めて、手巾・薬籠を与え印可された。

 

となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏

 

 

世界の宗教統一から宗教忘詮という流れがあるように一見思われるのだが、仏教は末法時代で法滅尽経というものまである。世界の宗教統一とは、一宗一派が他の組織宗教を壊滅せしめて世界制覇するという修羅の道筋のことではあるまい。カルトは別として、真正の神仏を最終目標としている宗教ならば、宗派の如何を問わず、もともと世界の宗教に違いはなく、統一されているのだと見るのではないか。

プロセスとテクニックは異なっても、あらゆるまともな宗教はニルヴァーナを目指している。

 

そこでことさらに、「世界の宗教統一から宗教忘詮」ということを考えて見ると、宗教統一は既に成っているのだから、「宗教忘詮」にどうやって進むかということだけが問題となる。

「宗教忘詮」とは、「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」のこと。南無阿弥陀仏の声を聞いている自分が残っていては印可されなかった経緯を見れば、それを忘れなければならないとわかる。

 

それが、全組織宗教の滅亡なのか、個人の中で「宗教を忘れ去る」ことが起こるのかは知らないが、そういうことが起きねば、次のユートピアがないだろうということはわかる。

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あらゆるものに神性を見る

2022-10-07 11:06:00 | 老子neo

◎老子第39章 昔之得一者

 

『そもそも、この世界の発現においては、それは無有一如の玄なる道を得たからである。天は、この無有一如の玄なる道を得て以って清いのであり、地はこれを得て以って寧らかなのであり、神は是れを以って霊なのであり、谷はこれを以って水が盈ちるのであり、万物はこれを以って生じるのであり、候王は是れを得て以って天下の範となるのである。

 

これ等がこのようになるのは、天は決して清となろうとしてこのようになったのではなく、若し自ずからこうなろうとしたならば、忽ち天は裂けてしまうであろう。地もまた同じことで、自ずから寧らかになろうとしたならば、おそらく動揺して休む時がないであろう。

 

神が自ずから霊となろうとしたならば、おそらくは、その霊妙力が減じてしまうであろう。また谷が自ら水を盈たそうとしたら忽ち水枯れてしまうであろう。万物が自ら生じようとしたならば、忽ち絶滅してしまうであろう。候王が自ら貴く高い人間となろうとしたら忽ちその王位は失われてしまうであろう。

 

だから貴いものは、それだけで貴いのでなく、賤しいものがその根本を成しているのであり、高いものはそれだけで高いのではなく、低いものがその根基を為しているのである。これだから帝王たちは、自分を呼ぶのに孤(幼くして親のないもの)寡人(老いて配偶者のないもの)不轂(轂のない役立たぬ車)というようなことばを使うのである。

 

これは賤しいもの下のものをもって本と為しているということを表しているのではないか。そうではないか。事実、車でも、その部分をこれは輪、これは御光、これは心棒というようにいちいちその部分を数え立てていくと、車というものがなくなってしまうように、卑賤があって高貴があるので、卑賤を無視すれば、その上に立つ高貴も認められなくなるのである。

 

だから玉と石が一方はつやつやと光あって何処までも美しく貴く、一方は粗っぽく光なく、どこまでも賤しくて全く別々であるような、そういう考え方を好まない。』

 

単純な相対的なものの片側の有用を説く議論に堕していると読まれかねないところがある。

 

ところが、この世なる現実世界は、絶対なるものは何もない。絶対なるものが何もなければ、優劣は必ずあるものであり、五感による現実を越えた至聖の世界なる現実を優れたものとすれば、われわれの生活実感であるこの世こそが劣った世界である。

 

その2つの世界の微妙な中間なる天の浮橋に、我々は立ち位置をとっている。従って貴賤あるからといって賤しい側を毛嫌いして捨てるのはそのバランスを失うことになることを戒めるのが主旨だと思う。

 

賤しい者がやって来たとしても、拒めたものではないだろうと老子は言っているのではないだろうか。その中にも神性が輝いている。

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人と神の「実際のところ」-2

2022-10-07 08:01:22 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-2

(原文2)
『信頼とは何だろうか?
それは、信頼なぞ 
どうでもいいということにほかならない。

低いものは
どんなに高きものも秘めている。

冥想が冥想を戯れている!
だが副主人公である
君には
戯れはないんだ。』
(上掲老子狂言から引用。)

信頼が起こるシーンはある。南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏、オームなどをマントラというが、マントラを何回も繰り返しマントラそのものに成りきり溶け込んだ時、その真心、信頼、誠意(バクティ、大慈大悲)が、心身の浄化・調整、生命力の活発化、感情の安定をもたらす。つまり、マントラシッディで、信頼が起きる。

これに対してOSHOバグワンの高弟の一人であるハノーヴァー公国の王子ヴィマルキルティは、OSHOバグワンのコミューンで病死したが、長期間そばにいながら、一度も質問にも来ないという信頼ぶりだった。

そうした美しい関係性すらもどうでもいい時節が来る。

さて、低いものは高きものも含むという表現は、錬金術文書によく出てくる言い回し。だが老子にもあり、老子は只管打坐系での大悟ながら、後世中国では、錬丹系の教祖としても祀り上げられることになってしまった。

老子第39章 昔之得一者では、『貴いものは、それだけで貴いのでなく、賤しいものがその根本を成しているのであり、高いものはそれだけで高いのではなく、低いものがその根基を為しているのである。これだから帝王たちは、自分を呼ぶのに孤(幼くして親のないもの)寡人(老いて配偶者のないもの)不轂(轂のない役立たぬ車)というようなことばを使うのである。』などと一読してわかった気分になる説明をしている。

だが、老子は無有一如の玄なる道を大前提としており、『低いものは高きものも含む』のは、その前段のシーンと位置づける。

『冥想が冥想を戯れている』は、ダンテス・ダイジの文章では、いわば最後の方に置かれる決まり文句。『冥想は世界全体にして、なにもかもなしである戯れ』であるとする場合には、君の出番はなく、そこには戯れもない。

冥想は副主人公というのは、自分が残っている冥想。主人公というのは、禅での頻出用語。

君が冥想している限りダメなのだと、やんわりと諭している。

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