アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

死の際の幽体離脱

2022-10-26 19:28:07 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎霊になっても孤独は変わらず

 

死のプロセスについては、四国のリモート・ヴューアーがバス転落事故の死者たちの死のプロセスを描写した丹波哲郎の「霊界旅行」も見てみたい。

 

丹波哲郎の「霊界旅行」で紹介されている事例は、光の存在に導かれて、バスが崖から転落した事故で死んだ25名のあの世での一人一人の消息を追う様子を描写して、霊界、地獄界の実情を明らかにしようというもので、霊界好きの人には恰好の読み物になっている。

 

日本霊異記からスウェデンボルグ、霊界物語まで、霊界紹介ものは数多いが、その手っ取り早い位置づけは、「人間は肉体オンリーの存在である」という先入観を払拭するヒントになるということ。

 

というのは、霊界にあっても、人間は個人としての霊から抜けられない。つまり霊界においても、自分は他人とは別であるという実感が変わらないからである。自分が他人とは別である限り、神と人とは実は同一である、という自覚は絶対に起こらない。

 

さてバスから転落した一女性の死の推移を某氏は、リモートビューイングした。

 

『ふと気が付くと、彼女のつぶれた肉体から淡い煙のような、蒸気のようなものがモヤモヤ立ち昇っていました。そしてその煙ようのものは、そこでグルグル渦のような運動をしながら、灰白色の球のようになりました。

 

さかんに活動するその灰白色は光を放ちながら、次第に濃縮して密度を増しているのに、その容積は反対に大きくなるんです。

 

そしてこの煙のような蒸気の如き物質がたえず彼女の横たわった肉体の方から供給されているのでした。

 

この肉体から放出される煙状の流れは、直径10センチ位で、空間にかかる球は徐々に大きくなり、かつ変形しつつ、ついには五十センチ、1メートルと大きな卵形となりました。

 

淡灰白の半固体状で、さかんに活動しているうちに、次第に人間らしい各部分ができかけてきました

 

まず腰部、そして首のあたりと、やっと人間のかっこうになってきたんです。

 

僕が目を見張って驚いているうちに、いつも見なれている南川弘子の完全な姿になったのです。彼女は事故の前と少しも変わらない姿で浮かんでいました。』

(霊界旅行/丹波哲郎/中央アート出版P95-96から引用)

 

これは、肉体外へのアストラル体の形成というようなものだろうと思うが、死はこのように進んでいくのである。

 

この光景をリモートビューイングした人は25人の死者全員を見たようだが、それだけでも相当な練達の士であると思う。彼は死者たちが、あの世で人生全体のパノラマ再生を大画面で見るところまで確認したのだった。

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チベット死者の書での死-2

2022-10-26 19:24:28 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎本物の死のプロセス-2

 

呼吸が止まって、心臓も止まったところから、肉体と意識が分離する直前までです。

 

2.内なる溶解

(5)80の概念からなる粗いレベルの意識がすべて溶解すると『鮮やかな白い心』(まばゆい光にあふれた秋の空)が現れてくる。(顕明)

 

※80の概念からなる粗いレベルの意識とは、五感と五感よりやや深い程度の、思考を伴う粗いレベルの意識。五感、恐怖、執着、飢え、渇き、喜び、驚きなど。

 

(6)『鮮やかな白い心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな朱色の心』が現れる。真っ赤に輝く太陽のように見える。(増輝)

 

(7)『鮮やかな朱色の心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな黒い心』が現れてくる。次第に真っ暗闇になる。(近得)

 

(8)プラーナ(ルン、気)の動きが弱まって、もっと微細なプラーナが起きると、失神したような状態は消え去り、まばゆいばかりの透明な光、もっと微細な『光明=原初の光、一切空』が現れてくる。

 

これは、別名母の光明と呼ばれる。これとは別に観想法の修行(イメージ・トレーニング)によって類似の窮極のイメージを培っている場合があるが、これを子の光明と呼ぶ。そして母の光明に子の光明を合致させることが、チベット密教の修行の目的になっており、これは空を悟る高い意識とされている。

 

この段階は、意識のポジションが肉体から出ていないことが特徴である。なんとなれば、肉体と意識の分離はこのあとで発生するからである。

 

従ってここで見ている母の光明とは、窮極(中心太陽、神、仏)の属性を見ていると考えられる。換言すれば、『原初の光』は、窮極(中心太陽、神、仏)そのものではないかと考えられる。

 

『原初の光』はチベット密教最大のポイントである。

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チベット死者の書での死-1

2022-10-26 19:20:47 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎本物の死のプロセス-1

 

まず最初は、五感の感覚がなくなり、呼吸が止まるまでのプロセスです。これは、ゆっくりと死が訪れる場合は、どんな人にも平等に起こる部分です。

 

ただし意識がはっきりしていること(清明であること)、肉体をメンタル体で離脱することが、この後のプロセスで『原初の光明』(神、仏、窮極)に出会い、何が起こったかを知る絶対条件となるように思う。

 

1.四元素と五感の溶解

 

(1)地の元素が衰え、水に溶け込む。(陽炎)

身体から力が抜けぐったりする。

視界が暗くなって、ものの輪郭がぼやけ、目を開けることも閉じることもできなくなる。

陽炎のようなものが見える。

 

(2)水の元素が衰え、火の元素に溶け込む。(煙)

快さも苦しみも感じなくなる。

唾液がでなくなり、口、喉がかわく。

音も聞こえず、耳の奥のかすかな耳鳴りも止まる。

漂う煙が見える。

 

(3)火の元素が衰え、風の元素に溶け込む。(蛍)

生前善行が優位の人は、下半身が最初に冷たくなる。生前悪行が優位の人は、上半身が最初に冷たくなる。   

匂いを嗅ぐことができなくなる。

呼吸が苦しくなり、吐く息がだんだん長くなり、吸う息がどんどん短くなる。

鍋底で光る火花のようなものが見える。

 

ソクラテスも下半身が最初に冷たくなった。ソクラテスは、人が何人かいる前で、毒を飲まされて、死のプロセスが進行している最中に、『まだ足に感覚はありますか』などとテレビの突撃レポーター並の取材を受けているのだから、お気の毒としか言う他はない。(プラトン/パイドン)

 

(4)風の元素が衰え意識に溶け込む。(燈明の炎)

身体を動かすことも、肉体的な接触も感じられなくなる。

鼻を通る息は、止まります(呼吸の停止)が、エーテル体の息はある。

燈明や松明の炎のようなものが見える。

 

呼吸が止まれば心停止するので、(4)は、世間で言う死のこと。でも続く以下の記述を見ると身体反応はできないけれど、意識は残っている。

 

※『チベット死者の書での死』で参考とした本

『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』地湧社

『三万年の死の教え』中沢新一/角川書店

『チベット死者の書』講談社

『チベット生と死の書』ソギャル・リンポチェ/講談社

『ゲルク派版チベット死者の書』学研M文庫

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本気と精神パワー

2022-10-26 19:15:56 | 只管打坐neo

◎教えてくれなくてありがとう

香厳は、師匠の大潙禅師に『父母未生以前の境地を体得して、一句もってこい』と命じられたが、できなかったので、長年集めた書物をすべて焼き捨て、寺の食事の給仕役をして年月を過ごした。

 

ある時香厳は、師匠の大潙禅師に、とても体得することができそうもないから教えて下さいと頼んだところ、大潙禅師は「私がお前のために教えてやるのはやぶさかではない。しかし、もしそうしたらお前は後で私をうらむであろう。」

という問答があり、後年香厳がその境地を体得した時に、「あの時教えてもらっていれば、このような喜びはなかった」とその配慮に感謝している。

 

この話は、単純に、回答を教えてもらえば、達成した時の感動が小さくなるという話ではない。

人生という問題に取り組むために冥想するとして、どの程度本気になれるかというのは、冥想修行では常に問題となるが、その本気度を高いままに維持するためには、回答をタイムリーに教えてもらってはならない。教えてもらうとその緊張が解けてしまって本気度が落ちてしまうことを言っている。

 

われわれが必死の力でもって、冥想するのは、精神的なパワーが後押しする場合であって、冥想の終着駅である窮極について知的概念的理解をした場合は、冥想に向けるパワーが低下するのだと思う。ここはあくまで、窮極まであと一歩と迫った香厳に対するアドバイスの話であるが、冥想と縁遠い普通の現代人に対しては、やや様相が異なるものの本気パワーの話題としては共通する。

 

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本山博の神様とのコンタクト

2022-10-26 19:12:23 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎その体験を見ている自分

 

本山博の最初の神様とのコンタクトは、20歳くらいの時。

 

本山博は、戦時中、鉄道の大きなレールみたいなものの先を尖らせて、それを吊るして、10人くらいで山の岩を掘ってトンネルを掘る作業をしていた。

 

そうした合間に、彼が一週間ほど前に亡くなった義弟が成仏するように壕のトンネルの中で一生懸命お祈りをしていたら、急に回りが光ったというか彼の身体も多分光った。その時に本当に神様とつながりができた。これが最初の神様とのコンタクト。

 

2回目は、最初の体験から7年くらい経って、二十四、五歳の時で、ヨーガを初めて1~2年経った時。この時に神様はこういう方で、自分の役目はこうで、自分はどういうところに神様によって上げられたかということが自覚できたそうだ。

(出所:神秘体験の種々相2/本山博/宗教心理出版P144-145)

 

霊がかり気味だし、体験とは言えない体験とまでは言えないかも知れないが、神様とのコンタクトは起きることは起きたのだろう。

 

ただそれをきちんと自覚して、評価するまでは、何年もかかることがある。評価するためには、「見ている自分」を冥想によって養っていくということが必要なのだろうと思った。

 

こういう話を率直にできる本山博氏は極めてフランクな人である。フランクなのは覚者の特徴ではある。

 

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原初の光について

2022-10-26 07:17:24 | アヴァターラ神のまにまに

◎起きることは起きたが、何が起きたかはわからなかった

 

肉体が死ぬと原初の光が発生する。以下の文では、原初の光のことを根源の光明と訳しているが、改めてその性質を見てみる。

 

『これまでに説明したように、心身の一切の構成要素は、死の過程で崩壊していく。肉体が死ぬと、五感や微細な四大元素が溶解し、さらには心のなかの通常の相が、怒り、貪り、無知といった煩悩とともに断たれる。こうして今世で悟りの心を覆っていたものがすべて取り除かれると、心の真の在りようを妨げるものは何ひとつなくなり、雲ひとつない澄みわたった空にも似た、根源なる究極の本質が顕れる。

これを「根源の光明がたちのぼる」という。ここにおいて意識そのものが法界へ、遍在する真理の空間に溶け込んでしまう。『チベットの死者の書』にはこの瞬間のことがこう述べられている。

 

一切の本性は虚空(そら)のように、空(くう)であり、さえぎるものなく、赤裸々である

中央も周辺もない、光り輝く空性そのものである

清浄にして、赤裸々な明知(リクパ)がたちのぼる。

 

またパドマサンバヴァは光明についてこう述べている。

 

始めの始めより生じることなき光明

おのずと生まれでた光明は、それ自体父母を欠いた明知の子供-―なんと驚くべきことか

誕生を体験することもなく、死の因を內包することもない――なんと驚くべきことか

明らかに見えるのに、誰一人見ることができない――なんと驚くべきことか

 輪廻のなかを彷徨(さまよ)いながら、なんら害をこうむらない――なんと驚くべきことか

仏性そのものと逢いながら、なんら益をこうむらない――なんと驚くべきことか

どこにも、誰のなかにも存在しながら認識されることはない――なんと驚くべきことか

にもかかわらず、あなたはこれ以外の果をどこか別の場所で得ようとする――なんと驚くべきことか

あなたのなかのもっとも本質的な部分であるにもかかわらず、別の場所にそれを求める――なんと驚くべきことか』

(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ著/講談社P425-426から引用)

 

この説明によれば、原初の光とは、父母未生の自分であり、本来の自己であり、宇宙全体であり、アートマン。つまり呼吸停止、脈拍停止して、肉体死が完成した時に、神仏を見るのだ。これは解脱への最大のチャンスである。

 

ところが、ソギャル・リンポチェは、「原初の光が立ち昇るのがすなわち悟りだという説を唱える者もいるが、そうではない。何が起きたかを把握できて初めて悟りなのだ。」というニュアンスのことを述べている。つまり、起きることは起きたが、何が起きたかはわからなかった場合があるということ。イエス来臨を毎日願っている人の許に、ある早朝イエスが降臨したが、当の本人は眠っていて気づかなかったのと同じ。

ここが、死んだ人すべてが悟るわけではないということ。

 

 

ソギャル・リンポチェは、微細にして広大な深みと絶対的な無限さをとらえるだけの準備ができていないと取り逃がすと言っている。

 

大量死が起こる時、人は、発狂・自殺するか、退行するか、大悟するかの三種に分かれるというが、誰の死のプロセスにおいても、解脱、大悟のチャンスは平等に訪れる。しかしながら、それをゲットできるのは、事前の準備ができていた者に限られるのだろう。

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