◎神を信じ、神にあるもののみがそれを語れる
アストラル体あるいは精霊は、永遠不壊ではなく、天人五衰というようについには衰亡するものである。
まずダンテス・ダイジ。
『A「自分に合わなかったやり方でね、無明を払おうとした場合どうなるんですか?」
ダン「うーん、自分に合わなかったものだったら止めちゃうだろう、その内に、うん。」
A 「よくあの、真言なんかで気の狂う人いるじゃないですか?」
ダン「うん、いますね。」
A 「あれも勿論その誤ったやり方の一つの結果でしょ?」
ダン「うーんと、気狂うっていうのはそれも人による。例えばね、ある人にとっては気が狂うよう、或いは、本当に狂う。つまり、えーと、どんな言葉をここでは使っているのか、
まあ何でもいいや。
意識下がものすごいアンバランスになるんだね。或いは、神智学的に言うとアストラル体にものすごい猛烈な反動がくるんだけど。癖がついちゃうんだけど。
そういうものって経験しなくっちゃならない人もいる。それから、経験する必要もないのにそういう状態になってしまう人もいる。」
A 「それを全部憑依で片づけている人もいるんですけど、それはどうなんですか?」
ダン「うん、うん。それはその人の立場としてはそれでかまわない。うん。だから、それは誰がその理論っていうかね、そういうものを使うかっていうことが全てだからね。常にそれだけ。
客観的に、つまり一つの思想っていうのはさ、決して表現できないものっていうのを表現しようとするもんでしょ。そうすると、誰がそれをそういう風に表現したかっていう事が全てだ。
だから、全く憑依でもってすべて片づけて構わないよ。けど、それは誰がそう片づけてるかって言うんだ。で、君がある人がって言った。ある人って言うのはさ、憑依っていうものの体系っていうのかな、その換言体系ね、その実体験をこう換言してゆくっていうのか、言葉に。そういう体系のやり方っていうのでずっと入った人だし、そして自分の体験っていうのを本当に持っている人だから。だから、今、それで構わないって、俺は言ったったんだ。』
(君がどうかい?雨宮第慈講話録2/渡辺郁夫編P4~5から引用)
そして出口王仁三郎。
『精霊の生命が亡ぶ事があるかと聞くのか、無論あるよ、現に生て居る人即ち肉体をもつて居る人にでも精霊の生命を失つて居るものがある。彼の発狂者の如きはそれであつて、生きながら既に邪霊の為めに、全く精霊の生命を亡ぼされて仕舞つて居る。永遠の生命といふのは、神を信じ、神にあるもののみが享有し得る特権である。』
(水鏡/出口王仁三郎/P94から引用)
健全なアストラル体あるいは精霊というのがあり得ることを両者とも想定している。しかし、アストラル体を健全にすることが治癒になり得るだろうという素人考えを見抜いたからか、ダンテス・ダイジは一本調子なそんな思いつきをはぐらかしにかかった。
アストラル体は感情を呼吸する。アストラル体の健康とは人間にとって何を意味するのか。それがわからない限りは、アストラル体だけ健康であっても何の意味があろうかと言っているような気がする。
そこで出口王仁三郎は、神を信じ、神にあるもののみが、それを論じるに値すると言っているが如きである。