アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

狂人のアストラル体あるいは精霊

2022-10-15 10:46:10 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎神を信じ、神にあるもののみがそれを語れる

 

アストラル体あるいは精霊は、永遠不壊ではなく、天人五衰というようについには衰亡するものである。

 

まずダンテス・ダイジ。

『A「自分に合わなかったやり方でね、無明を払おうとした場合どうなるんですか?」

ダン「うーん、自分に合わなかったものだったら止めちゃうだろう、その内に、うん。」

 

A 「よくあの、真言なんかで気の狂う人いるじゃないですか?」

ダン「うん、いますね。」

A 「あれも勿論その誤ったやり方の一つの結果でしょ?」

ダン「うーんと、気狂うっていうのはそれも人による。例えばね、ある人にとっては気が狂うよう、或いは、本当に狂う。つまり、えーと、どんな言葉をここでは使っているのか、

 

まあ何でもいいや。

意識下がものすごいアンバランスになるんだね。或いは、神智学的に言うとアストラル体にものすごい猛烈な反動がくるんだけど。癖がついちゃうんだけど。

そういうものって経験しなくっちゃならない人もいる。それから、経験する必要もないのにそういう状態になってしまう人もいる。」

 

A 「それを全部憑依で片づけている人もいるんですけど、それはどうなんですか?」

ダン「うん、うん。それはその人の立場としてはそれでかまわない。うん。だから、それは誰がその理論っていうかね、そういうものを使うかっていうことが全てだからね。常にそれだけ。

 

客観的に、つまり一つの思想っていうのはさ、決して表現できないものっていうのを表現しようとするもんでしょ。そうすると、誰がそれをそういう風に表現したかっていう事が全てだ。

 

だから、全く憑依でもってすべて片づけて構わないよ。けど、それは誰がそう片づけてるかって言うんだ。で、君がある人がって言った。ある人って言うのはさ、憑依っていうものの体系っていうのかな、その換言体系ね、その実体験をこう換言してゆくっていうのか、言葉に。そういう体系のやり方っていうのでずっと入った人だし、そして自分の体験っていうのを本当に持っている人だから。だから、今、それで構わないって、俺は言ったったんだ。』

(君がどうかい?雨宮第慈講話録2/渡辺郁夫編P4~5から引用)

 

そして出口王仁三郎。

『精霊の生命が亡ぶ事があるかと聞くのか、無論あるよ、現に生て居る人即ち肉体をもつて居る人にでも精霊の生命を失つて居るものがある。彼の発狂者の如きはそれであつて、生きながら既に邪霊の為めに、全く精霊の生命を亡ぼされて仕舞つて居る。永遠の生命といふのは、神を信じ、神にあるもののみが享有し得る特権である。』

(水鏡/出口王仁三郎/P94から引用)

 

健全なアストラル体あるいは精霊というのがあり得ることを両者とも想定している。しかし、アストラル体を健全にすることが治癒になり得るだろうという素人考えを見抜いたからか、ダンテス・ダイジは一本調子なそんな思いつきをはぐらかしにかかった。

 

アストラル体は感情を呼吸する。アストラル体の健康とは人間にとって何を意味するのか。それがわからない限りは、アストラル体だけ健康であっても何の意味があろうかと言っているような気がする。

 

そこで出口王仁三郎は、神を信じ、神にあるもののみが、それを論じるに値すると言っているが如きである。

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呂洞賓の10のテスト-2

2022-10-15 10:39:04 | 道教neo

◎他人のために命を差し出すことに躊躇なし

 

呂洞賓の10のテストの続き。

 

テスト6

呂洞賓が外出して家に帰った時、家の財産はすべて盗賊に盗まれ、食糧さえも無くなっていた。だが、呂洞賓は怒りの色も見せず、いつものように耕作をはじめた。ある日、畑を耕していると、鍬の下から数十枚の金塊を掘り出した。しかし、呂洞賓は一枚も取らずに、そのまま金塊を埋めた。

 

テスト7

呂洞賓が街で銅器を買って帰ると、その銅は全部黄金だと分かった。呂洞賓はすぐに銅器を売っていた人を見つけて、それを返した。

 

テスト8

あるヒッピーのような道士が、市場で薬を売っており、「この薬を飲んだらたちどころに死亡し、転生した後、得道できる」と話していた。10数日を経ても、その薬を買う客はいなかった。さて呂洞賓がこの道士の薬を買うと、道士は「速やかに死の支度をするが良い」と告げた。呂洞賓はこの薬を飲んだが、結局何も起こらなかった。

 

テスト9

呂洞賓が客船に乗って河を渡っていると、河の中ほどに至ると、河の水が急に氾濫し、風も波もにわかに猛り狂った。乗客はみな恐れおののき泣き叫んだが、呂洞賓は端座し、動かなかった。

 

テスト10

呂洞賓が一室で一人で修行していたところ、突然、目の前に無数の魑魅魍魎が現れ、撃たんとするもの、殺そうとするものが無数に現れた。しかし呂洞賓は毫も恐れることはなかった。

血だらけの一人の鬼みたいなものが、「あなたは前世で私を殺した。今日その借りを返してくれ」と泣きながら、呂洞賓を責めた。呂洞賓は「人を殺したならば、命で償わなければならない」と語り、刀を探しに行って自殺してその命で返そうとした。すると急に、空中に大音声が響き渡り、魑魅魍魎たちは一瞬のうちにすべて消え去った。

 

その後、呂洞賓のマスターの鍾離権が現れて、「私はあなたを10回試したが、あなたはすべて心を動じさせることなく乗り越える事が出来た。必ずや仙人に成ることができるだろう」と話した。その後400年間、呂洞賓は世の中に現れたり消えたりした。宋徽宗は政和年間に、呂洞賓を「好道真人」と封じた。

 

 

テスト6とテスト7は不意の不運と幸運に対処する姿勢を問われている。人間の財産はその積徳の多寡に応じて定まっていると見れば、不意の不運の後には幸運がめぐり、不意の幸運の後には不運が巡ると予想する。しかしこれは、功利性、自分のメリットの視点でしかない。

ここは、求道者としてすべてを捨てられるかどうかが問われているのだから、自分の生命維持に必要な分以上のものは天に返すという『天意』優先の行動規範を持っていると見るべきだろう。

 

テスト8は、呂洞賓は、薬を服用して自分の生命を捨てて道を成就(成仙)したいということに迷いもケレン味もない。果たして彼は、躊躇なく死の毒薬を飲んだがその結果は別のことである。

 

テスト9は、人間は髪の毛一本自分の思い通りに白くも黒くもできないからには、自分の船上の生命を自分でなんとかできるわけではない。

 

テスト10は、天国的なものを求めていく修行の途中の最終段階で、こうした魔が出現するもので、釈迦、イエスなどでもこういうのが出て来る。

また「他人のために自殺してあげる」のを厭わないのは、西郷隆盛の僧月照との入水や、ダンテス・ダイジの竹富島の幽霊に乞われて自殺した話と同じで、覚者なればこそできる業である。

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呂洞賓の10のテスト-1

2022-10-15 10:34:49 | 道教neo

◎無私と打算

 

呂祖全集などに道教のスーパースター呂洞賓の受けた10のテストが載っている。

 

最初は黄粱一炊の夢。そして10のテストの前半部。

 

呂洞賓は、唐代、山西省蒲坂県永楽鎮の人で、海州刺史呂譲の子と伝えられている。幼少より聡明で、科挙に行く途中に、仙人の鍾離権に出会い、修行の道に誘われたが、出世の夢を捨てられず断った。

 

 その日、鍾離権と一緒に宿泊した呂洞賓は、黄粱を煮る間に夢に入った。夢の中で、彼は科挙に合格して出世し、二度、裕福な家庭の娘と結婚し、たくさんの子供をもうけた。さらに40年後、一国の丞相となり、10年の間の国家を牛耳った。しかし、その後、罪を犯して、家財をすべて没収され、家族は離散し、一人で荒野をさまようことになった。

 

 鍋の黄粱(こうりゃん)が煮え切らぬうちに、夢から覚めた呂洞賓に、鍾離権は「先の夢に、浮き沈みと栄辱のすべてが示されたであろう。50年は一瞬であり、昇ったり下ったり、栄華を極めたり恥辱を受けたり、いろいろのことがあっても、世人の一生はまるで一つの夢に過ぎない」と語った。この話を聞いた呂洞賓は、鍾離権について救世の術を求め修行することを決心した。

 

テスト1

 呂洞賓がしばらく家を不在にして遠方に旅して後、帰宅したところ、家族が全員病に倒れ、亡くなっているのを目にした。彼は動揺することなく、棺桶をそろえ火葬の準備をした。すると、たちまちにして死んでいた家族が生き返った。

 

テスト2 

 呂洞賓が市場で物を売っているとき、客と交渉して売買の価格が決まったが、買手はその値段の半分しか払わなかった。これに対して呂洞賓は、何も言わずに商品を買手に渡した。

 

テスト3

 ある日、家の前に1人の乞食が来たとき、呂洞賓はすぐに金や物を上げたが、乞食は感謝するどころか、却って布施が足りないと言って呂洞賓を罵った。これに対して、呂洞賓は何度も笑顔で謝まった。

 

テスト4

 呂洞賓が山中で羊を放牧していたとき、空腹のトラが猛烈な勢いで駆けてきて羊の群れを追った。呂洞賓は羊の群れとトラの間に立ち、羊を守ろうとしたところ、トラはそこから離れた。

 

テスト5

 呂洞賓が山中のあばら家で読書していると、一人の18歳ぐらいの絶世の美女がやってきた。帰宅する途中で道に迷い、日も暮れたので、この家で休ませてほしいと言った。呂洞賓は承諾した。夜になると、この女性はあの手この手で呂洞賓に迫って、一緒に寝るよう求めた。呂洞賓は心を動かすことなく固く断った。この女性はこうして3日間呂洞賓につきまとったあと、立ち去った。

 

第一のテストは家族が生き返ったがそれはまずあるまい。話全体をオブラートに包んで不条理のショックを緩和している。ヨブ記に似ている。

 

第二、第三のテストでは悪人に理不尽な仕打ちを受けても反撃しないのは、相手もよくよくのことだろうと斟酌しないとできる業ではない。

 

第四のテストでは、誰も見ていない場所での無私である。これは現代人が最も欠くところ。

 

第五のテストでは、釈迦やイエスの成道前の誘惑みたいに誘惑がやってきた。この段階では、天国的なものを求めていたからこそ、これが起きたのだろう。

 

(続く)

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ケルト神話のルーグ

2022-10-15 10:23:37 | 時代のおわりneo

◎キリスト教以前のヨーロッパの信仰の中心

 

ルーグは、ヘルメスに比定されるあらゆる技能の神である。

 

ある日ルーグは、キリスト教到来以前のアイルランドの中心地ターラの王宮の大宴会にやってきた。

 

何か特別な技芸がないと王宮に入ることを認められなかったので、ルーグは、私は造り職人だと紹介したが、門番は、既に王宮にいるのでダメだと断ったすると、ルーグは、私は鍛冶屋だと紹介した。すると門番は鍛冶屋もいるのでダメだと断った。

 

そこで、ルーグは戦士だ、ハープ奏者だ、英雄だ、詩人だ、歴史家だ、妖術師だ、治療師だ、祝宴の酌人だ、金属加工師だと自分の技能を紹介し続けたが、ことごとく既にいると断られた。

 

そこでルーグは、これらの技能をすべて一人で持っている者はいるかときいたところ、いなかったので、やっと王宮の大宴会に入ることを認められた。

 

またルーグは、双六(ボードゲーム)や馬術や球技を発明した。ルーグは、片目、片足で戦場に登場し、鍛冶屋であり、戦争の神であることも象徴する。

 

更にルーグ崇拝は、キリスト教到来以前のアイルランドだけでなく、ヨーロッパ全域にわたっていたらしい。フランスのリヨンや、オランダのライデン、ドイツのライプチヒなどは、すべてルーグの城塞という意味のルグドゥヌムという言葉から派生したことが知られている。

 

古代ローマのカエサルも、ルーグの神像が他の神に比べて非常に多いことを述べており、ローマ以前は、ヨーロッパ全域で非常に人気のある神だったことがしのばれる。キリスト教がこの寺院や神像を破壊する時は、非常に抵抗されたようだ。

 

ローマでは、キリスト教以前はミトラ信仰やキャペレ信仰が強かったようだが、イギリス、フランス、ドイツなどでは、ルーグ信仰が相当な勢力であったようだ。

 

ルーグについては、北欧神話の主神オーディンの箴言のようなまとまったものがないので、興味深いエピソードからその面影を想像するしかないが、現世利益を見せながら、正しいもの、本当のものに導いて行こうとするやりかただったことがしのばれる。

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真の幸福とは何か-1

2022-10-15 07:19:57 | 覚醒のアーキテクチャー

◎幸福と冥想

 

効果を求める冥想は邪道であると唱える場合、これから冥想を始めようと思う人にとって何が問題となるかと言えば、自分にとって幸福とは何かということになる。

 

実は、アヴァンギャルド精神世界の18年においても本当の幸福について悩んでいたのは、最初の数年であって、徐々に悩むことはなくなっていた。

 

人間にとって、幸福とは、富貴、栄耀栄華、長寿と健康などいろいろな相がある。そうやって迷う人のために紫微斗数でも四柱推命でも西洋ホロスコープでも人間の諸相を12宮や12室に区切って、財産、兄弟と旅、家庭、母、男女交際、子孫、健康と部下、配偶者、対人関係、死、遺産、高等教育、出世、友人等々の側面があることを見せるものだ。

 

だが冥想、meditationというものに取り組む場合、人生上の願望実現ということは捨て去る、あるいは、卒業せねばならない。そのことは、さまざま聖典や聖者のエピソードで語られているものだ。

 

だが世間一般の人は、いきなり世俗の願望実現はあきらめなさいなどと伝えても、まず納得できるものではないので、便法として冥想すれば天国に入る、地獄に落ちない、願望が叶うなどと言ってやるものだ。

 

どのような願望があるかは、お寺や神社のお守り売り場に行けばわかる。曰く、交通安全、家内安全、恭喜発財、学業成就など現世利益。だが、それって本当の幸福なのか。

 

また人間が健全な情感を育んでいくためには、幼少期に母の充分な愛が必要なものであって、そうやって子供は最初親に守られて、長じて段々と自我が形成されて親離れするのが順路である。

 

一方両親が早く亡くなるような生い立ちの場合、このような世俗的幸福の実現可能性のハードルはかなり高いものだ。また臆病な性格の人にとってはそういう境遇は特にきついものだ。

 

そして当面、自分は死なないとして、老いの問題と、死によってすべての人間関係、財産が失われるという問題が将来に立ちはだかっている。

 

つまり世俗的幸福一般は、不安定なものだということに気づくことが、不愉快ではあるが、遅かれ早かれやって来る。これは、面白からぬ現実だ。

 

そこを含めて、直面せよと聖者覚者は唱える。

冥想に取り組ませるため、そんな彼らでも誤解を恐れず感情的反発を避けるため、最高の幸福は、天国の人も老化するので、天国を超えたものである。それが涅槃、ニルヴァーナ、弥陀の慈悲の大海などと示す。

 

だが、実際の聖者たちの行動では、世俗の幸福は常に無視される。人生を卒業したのだから当然だが、俗人の目からは受け入れがたいものがある。

 

釈迦は、リッチな王子として生まれたのに、妻子を棄てて一人ジャングルでの冥想修行に入った。

呂洞賓は、科挙に合格して大政治家になって権勢を振るうことを願っていたが、高粱を煮る間にまどろんで、官途について栄達して、最後は没落するところまで、一生の最初から最後まで、夢で見た。そこで、科挙をあきらめ人生を卒業し、錬丹修行に入ることにした。

 

このように青少年には真の幸福と世俗的願望実現の違いについて、納得してくれるかどうかは別にして、こうした説明はしておくべきなのだろうと思う。

 

そして縁あって、聖人、覚者と初めて出会った時に「すべてを棄ててきたか?」と問われてびびらないで欲しいと思う。

 

冥想修行では、先入観念を棄てよ、固定観念を棄てよとよく言われるのだが、それはそういうことでもある。

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