アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

窮極の呼吸法・胎息

2022-10-28 12:27:03 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎まず食事のコントロールから

 

道教でこれぞ窮極の呼吸法というべきものは胎息である。胎息を極めた葛玄は、ひどく酔った時や夏の暑い盛りには、必ず深淵の底に潜って一日ほど経ってから上がってきたそうだ。

 

抱朴子によると胎息のやり方は次のとおり

1.鼻の中に気を引き入れて閉ざし、心の中で120まで数える。

 

2.120になったら、かすかに口から息を吐き出す。吸うのも吐くのも音が聞こえないほどにして、水鳥の羽毛を鼻と口の上に付けておいても、羽毛が動かない程度。入る方が多く、出る方が少ないようにする。

 

3.慣れてきたら120から段々数を増やしていく。千になると老人も日一日と若返る。

 

4.気を巡らすのは、毎日夜半から正午までの生気の時間帯とすること。

 

5.大食してはいけない。生の野菜や脂っこいもの、生魚などを食べると、気が強くなって閉ざしにくくなるので、これを食べてはだめ。それに、怒ると気が乱れ、気が自然に溢れ出ることができなくなるので、怒ってはならない。

(参考:平凡社/抱朴子)

 

 

抱朴子では、房中術だけやってもだめ、呼吸法だけやってもだめで、この二つに金丹を飲むことを併せた3つやって初めて成るとしているので、これはクンダリーニ・ヨーガの厳格な修行ルールと見た。

 

平素から高級食材コーナーを見て回るグルメの方や、油料理の多い外食中心の方では、まずトライする前提条件がないということになるだろう。ダイエットでも、まず食事のコントロールからということだが、食事のコントロールもそれなりに志が必要なのものだと思う。

 

 

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慧春尼

2022-10-28 12:25:02 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎周囲に理解者なし

 

室町時代のこと。慧春尼は、相模の糟谷の人で、物凄い美人だった。兄が小田原・最乗寺(曹洞宗)の開山である了庵慧明。

 

彼女は、女ざかりの若い時期に男に興味を持たず30歳を超えてしまったのだが、ある日、最乗寺に兄了庵を訪ねて出家したいと切り出した。兄が断ると、慧春尼は鉄火箸を真っ赤に焼いてそれを顔に縦横に押し当てたので、兄も出家を認めざるを得なかった。

 

禅寺での修行に入ってからも、彼女の美貌の面影を慕う男性は引きも切らず、さる男僧は、彼女の袖に長い恋文を投げ入れた。

 

慧春尼は即座に「とてもおやすい御用です。但しお互いに僧の身の上なので、世間並みにデートすることもできない。あなたと会いたい場所は甚だ険難な場所なので、あなたは約束通り来て思いを遂げることができないでしょう」と意味深な返事を書いた。

 

了庵禅師が上堂して、一山の全員が集まって水を打ったように静まっているところに、突然衣を脱いで素っ裸になった慧春尼が出てきて、ラブレターの男性を指さして、「約束は守るから、さあ今ここで、さあさあ。」と招く。

 

禅師も師匠もあっけにとられたが、かの男性は、脱兎の如く山を逃げ出した。

 

この脱俗ぶりは、臨済の同僚の普化もびっくりだが、臨済も普化のことをやりすぎだとなじったことがあるが、なぜ普化がそうなのかをちゃんと理解していた。

 

一方慧春尼は、周囲に彼女のことを理解してくれる同じ境涯の人物がいなかったようだ。つきまとって修行の邪魔になるストーカー僧はいたが。兄も今一つだったようだ。

 

さて最乗寺山門前の大岩に薪が山と積み上げられた。慧春尼は、自ら周りの薪に火をつけ、薪の中央に坐った。

 

これにうろたえたのか、兄の了庵は、「熱いか、熱いか。」などとわかりきったことを問うのに対し、彼女は「冷熱は生道心にはわからぬ」と。・・・・最後まで誰も彼女のことをわからなかった。

 

 

同じ火定では、霍山の景通禅師は、仰山との問答が残っている人だが、正午に自ら蝋燭をとって薪の上に上り円光相を示し、紅炎の中に降魔の勢いを示したという。

 

甲州恵林寺の快川禅師が、山門楼上で織田信長に焼かれて、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」と云ったのは、受動的に火に焼かれたものであり、上記2例とは異なるように思う。

 

華亭の船子和尚は、悟りを得た弟子をゲットできたので、自分で船を転覆させて死んだ。

 

これらは、死にざまを自由にするということだが、生死を超えるという本来の意味は、死にざまだけのことではないだろう。

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無想の境

2022-10-28 12:21:56 | 究極というものの可能性neo

◎意識下に座る

 

道者笹目秀和氏が、崑崙山頂ムッツァータンゴにて重要なレクチャーを、疏勒仙人より受けた。仙師とは、疏勒仙人のこと。そして、

 

『その日の夕刻、月を拝する鎮魂(坎水印)を終えて、山上洞窟の最後を行じたのであった。

 

翌日意識下に座っていたようでもあるが、眠っていたもののようでもあるし、失神状態であったようでもある。

 

フト己に還ったとき、仙師は、・・・・・・

「気がついたか。天界遊行とまではゆかないまでも、しばらく今のような無想の境にある修行が必要なのだ。坎水、離火、別々に行じても、やがて自然に合一の境に入るものである。さてこれから地の玄境に行って‘坎離印’の秘法を授けることにしよう」といって洞窟を出た。

 

日は中天にあったのをみて、洞窟の打坐は昨夜来のことで、随分長かったことに気づいたのである。』

(神仙の寵児/笹目恒雄/国書刊行会P265から引用)

 

笹目秀和氏は、クンダリーニ・ヨーギ。クンダリーニ・ヨーガでも、このように無想の冥想がある。想念停止は只管打坐の専売特許ではないことがこれでもわかる。ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスも時間を止めると言う。

 

その先に天界遊行があることを示唆してくれている。天界遊行とは、レジャー、トリップとしての天界遊行ではなく、人間の本来持つ自由の発揮・行使というようなもので、決して霊がかりなアストラル・トリップもどきのものではないのだろうと思う。

 

これだけ長時間座れる人も多くはない。道元や松島の瑞巌寺の雲居希膺などもそうした人。

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観想法専用ルーム サムデ・プク

2022-10-28 12:20:03 | 密教neo

◎タシルンボ寺郊外の洞窟修行

 

20世紀初め、スェーデン人スヴェン・ヘディンは、チベットのシガツェのタシルンボ寺に逗留した。タシルンボ寺は、巨刹ではあるが、中共成立時以降さんざんに破壊された。

 

ヘディンは、タシルンボ寺の郊外のサムデ・プクという絶壁の麓に作られた冥想用石小屋を見た。洞窟には戸も窓もなく、石で封じられている。

 

この洞窟の奥には泉が沸いており、一条の狭い溝が壁の下の地面に沿って通じていた。これは上下水完備し、環境的に恵まれている。この溝を通してツァンパとバターの食事が差し入れられる。6日連続で食事を受け取らないときは、死んだものとして洞窟の入り口が開けられる。

 

中には一人のチベット密教僧が修行していて、既に3年になるという。通例山の封鎖された洞窟での観想修行は数か月なのだと思うが、3年は長い。この洞窟の主は死ぬまでここに居ることを誓ったという。

3年前にこの洞窟で死んだ先住僧は12年ここで生きたという。

 

食事の差し入れが毎日あるだろうから、ヘディンが気にするように真っ暗闇だけの生活ではないと思う。

 

ただ社会性を一切断ち、一生洞窟で修行することを選んだ僧の覚悟には凄みを感じる。キリスト教でも一室から一生出ない修行もあった。補陀落渡海はこれに似ているが、数日で勝負がつくところは厳しい。

 

20世紀の感覚遮断実験の環境は似たような環境だが、ギブアップ・ボタンを押せば出れる。

 

さはさりながら、観想修行を邪魔されない環境は得難いものである。

(参考:チベット遠征/スヴェン・ヘディン/中公文庫p368-375)

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偽のサマーディに気をつけよう

2022-10-28 06:54:31 | 無限の見方・無限の可能性

◎サマーディとは個人の体験ではない

 

サマーディとは三昧のことであり、ディヤーナ=定とは全く異なる。定は人が出たり入ったりできるが、

サマーディは人が体験するものではないので、サマーディに出たり入ったりすることはできない。

 

サビカルパ・サマーディ(有相三昧)は、いわば世界全体のことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

 

ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)は、ニルヴァーナのことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

 

だから世間でサマーディに入るとか出たとか言っている場合は、眉唾物の可能性があると思う。

 

大雑把に言えば、水中でサマーディは抱朴子の葛玄、火中でサマーディは慧春尼、標高7千メートルの低酸素低温の高地でのサマーディは崑崙山脈の仙人

封鎖洞窟でのサマーディはチベット密教の修行者たちがあり、水中火中土中などいろいろな悪条件下のサマーディはあるものだと理解はしている。

 

だが、苛酷な条件下で冥想することがサマーディではないだろう。つまり、既に神人合一して、宇宙全体が自分と一体となり『宇宙が自分だった』という実感にあっては、『サマーディに出入りする』などという表現はしないものであり、またなにもかもないニルヴァーナにあってもそれを『サマーディに出入りする』という言い回しはしないのではないだろうか。

 

かつまた葛玄も慧春尼も、水中に何日いたから偉いとか火中に何時間いたから偉いとは思っていないのではないか。そういった苛酷な条件の冥想継続時間をサマーディとはいわないのだろう。

 

肉体からそのエッセンスの状態に往復する時間は、私の印象では、せいぜい数秒なのであって、数時間とか数日は、エッセンス・タイムではないと思っている。

 

苛酷な条件の冥想時間の話ではないが、OSHOバグワンは、偽のサマーディについて詳しい説明を残してくれている。多くの人が偽のサマーディに騙されている可能性はあるのではないか。

 

『理解しておくべき、見せかけのサマーディもひとつある。それは第四身体で起こり、サマーディのように見えるが、そうではない。日本の禅僧の言葉によると、それは「さとり」だ。これは見せかけのサマーディだ。それは、画家や彫刻家や音楽家が、完全に芸術の中に没頭している時に到達する状態だ。彼らは大いなる至福を体験する。これは第四身体―サイキックな 次元―で起こる。朝の太陽を眺めたり、メロディーに耳傾けたり、ダンスを見たり、花が咲 くのを眺めたりしている時、マインドが完全に出来事の中に引き込まれると、見せかけのサマーディが起こる。こうした見せかけのサマーディは、睡眠や偽りのシャクティパットによっても、引き起こされる。アルコールや、マリファナ、LSD、メスカリン、ハッシシなどの麻薬によっても引き起こされる。』

(奇跡の探求Ⅱ/和尚/市民出版社P414-415から引用)

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人と神仏を結ぶもの

2022-10-28 05:46:53 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第一章】冥想とは何か

◎人と神仏を結ぶもの

 

『人と神仏を結ぶものが冥想である。これにより人は真人間になり、善のみを行い悪を行わない人間に生まれ変わる。』

 

日本人の生活には、年末年始の寺社参拝があり、節分、春秋のお彼岸の供養、お盆の墓参り、赤ちゃんのお宮参り、七五三、車両のお祓い、更にはイースター、ハロウィン、クリスマスと黙って生活していれば、神仏とつながっている実感を持てる風俗習慣となっている。

 

その一方で、国民全体の貧困化と核家族化により、人は孤立を深め、経済的メリットと便利ばかりを追求する姿が当たり前とされる地獄的な社会が展開されるようになっている。

 

こうした中で、人は本来愛に生きるものであって他人を傷つけることなどできはしないという実感に生きるものである。そんな人間が真人間であるが、そうなるには、ある絶対的な意識の極限状態を経て、善のみを行い悪を行わない人間に生まれ変わることが求められる。

 

このあらゆる正誤とりまぜた情報、意識を操作するテレビ、スマホなどに日夜正気を脅かされている生活の中で、人と神仏のつながりを確かめては暮らすためには冥想が必要である。

それは最初はまねびで入るが、やがて大輪の花となって咲くことになる。

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