アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

フィリポによる福音書の復活

2022-10-22 12:52:20 | 密教neo

◎永遠のアイオーンへと昇る

 

以下は、グノーシスの文書であるが、濃厚にエジプトの密教的思想を受け継いでおり、悟りを自我の死と復活として、いわば自明のものとして位置付けており、生前での冥想修行による死からの甦りを推奨している。

 

『断章72 フィリポによる福音書 §63a(第二巻81頁)

 

われわれがこの世の中にいる限り、われわれにとって益となるのは、われわれ自らに復活を生み出すことである。それはわれわれが肉を脱ぎ去るときに、安息の中に見出されることとなり、中間(=死)の中をさまようことにならないためである。

 

断章73 フィリポによる福音書 §90a(第二巻94頁)

「人はまず死に、それから甦るであろう」と言う者たちは間違っている。もし、初めに、生きている間に復活を受けなければ、死んだときに何も受けないだろう。

 

断章74 復活に関する数え§14-16(第三巻301-302頁)

それだから、わが子レギノスよ、復活に関して決して疑うことがないように、もしあなたがかつて肉を備えて先在していたのではないとすれば、あなたはこの世界に到来したときに肉を受け取ったのである。

 

とすれば、どうしてあなたはあの永遠のアイオーンへと昇ってゆくときにも、肉を受け取らないであろうか。肉よりも優れたものが、肉にとっての生命の原因となっているのである。

 

あなたのために生じたものはあなたのものではないのか。あなたのものであるものは、現にあなたとともに在るのではないのか。

 

(以下略)』

(グノーシスの神話/大貫隆/岩波書店P162から引用)

 

アイオーンとは万物を指すとすれば、アイオーンに昇っていくとは、アートマンとの合一を指し、密教において典型的な「体験とはいえない体験」のことを指し、

正統的教説であると思う。

 

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OSHOが青いオームの字を見る

2022-10-22 12:31:25 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎オームの文字は死ぬときにしか見えない

 

OSHOバグワンは、死の前年の8月、オームの字を見た。これは『和尚と過ごしたダイアモンドの日々/マ・プレム・シュンニョ/和尚エンタープライズジャパンP429-430』に出ている話。

 

彼は死の前年にずっと体調が悪く、8月には徐々に衰弱する自分の肉体が、これ以上の生存に堪えられなくなりつつあることを感じていた。

 

8月20日彼は、「これは本当に不思議なことだ。オームの文字が目の前に見える。オームの文字は死ぬときにしか見えないのだが」と語って、サンスクリットのオーム字をノートに書いて、弟子たちに見せた。

 

9日後、彼はこんどは「青い色をしたオームの文字がいつも私の目の前に見える」と言い出した。

 

側近のシュンニョによれば、当時OSHOバグワンの骨は急激に脆化していて、その原因は医師の所見によれば、放射線を浴びせられたことによる。

 

OSHOバグワンは、アメリカでの拘置中にタリウムという猛毒を摂取させられた他に、強力な放射線をも浴びたのだろう。それにしてもアメリカで被爆して5年後に歯や骨の脆化が起こるとは、結構な線量だったに相違ない。

 

シヴァ・サンヒター3.73

『ヨーギーはこれらの業(カルマ)の元素を聖音オームを以って滅ぼすべし。彼は業の果報をこの一生の間に味わいつくすためにカーヤヴューハの行法を修了すべし』(カーヤヴューハとは肉体の種々の部分を配列する神秘的な方法。)

 

一生の最後に吽字(オーム)が出現して、その一生の善行悪行の精算にかかるというのはありそうなことである。

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エーテル体の色

2022-10-22 12:14:30 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎エーテル体-3

◎肉体の回りの青みがかった光

 

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによれば、エーテル体の色は、白みがかった青。エーテル体は、半物質であり、彼によれば、地水火風空の五大のうち善性優位の風エレメントで形成されるものがエーテル体であるとする。(魂の科学/スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ/たま出版P186-187)

 

エーテル体の色と大きさに関連するOSHOバグワンの記述には以下がある。

 

○肉体の回りの青みがかった光

 

OSHOバグワンによると、エーテル体は、肉体の回りの青みがかった光として見えるという。

 

エーテル体は、全体として肉体型でもなく、球体でもなく、神経をそのまま取り出したような傘の骨型であるという。

エーテル体は半物質であり、死によって崩壊する。

 

『この青みがかった形態、この青みがかった光こそが、エーテル体の存在だ。あなたには幾つもの体がある。

 

この技法はエーテル体に関わっている。エーテル体を通じて、あなたは最高のエクスタシーに入ることができる。体は七つある。どの体も〈神〉の中に入るのに使える。どの体も扉となる。

 

この技法はエーテル体を使う。エーテル体はもっとも認識しやすい。ほかの体はもっと深くにあるので、認識するのも難しくなる。

 

エーテル体は肉体のすぐ近くにある。エーテル体は二番目の体だ。肉体を取り巻いている。肉体を貫き、肉体を取り巻いている。ぼんやりした光、青い光が、ゆるやかな衣のように取り巻いている。』

(生の神秘/OSHOバグワン/市民出版社P276から引用)

 

短文だが、重要なポイントが複数含まれている。

 

七つのボディのどれでも神の中に入るのに使える。エーテル体であっても。これは意外である。どうやってそれをやるのだろう。気功系のテクニックだろうか。

 

エーテル体が青い光。青い光といえばオルゴン・エネルギー。

 

『この電気的な力も、エーテル体を通じて現れる。エーテル体は電気的な体だ。

 

あなたがエネルギーに充ち溢れているときには、エーテル体の範囲も大きい。でも悲しんだり、落ち込んでいるときには、体のまわりにエーテル体はない。体の中に後退している。

 

だから悲しんでいる人間、落ち込んでいる人間の近くにいると、自分もまた悲しくなる。悲しみの極にいる人間が部屋に入ると、自分も何らかの異状を感じる。なぜなら、悲しんでいる人間のエーテル体が、たちまちこちらにも影響を及ぼすからだ。その人間は搾取者となる。その人間のエーテル的エネルギーが落ち込んでいるため、他人を栄養とするようになる。』

(上掲書P278から引用)

 

OSHOバグワンの説明では、このようなエーテル体の電気的性質を踏まえて、何もしないままに自分の回りの青い光を見ているままにいれば、その青い光は増大し広がっていく。

 

こうしてエーテル体は生体エネルギーの蓄電池となるが、そのエネルギーを幹から枝そして花に向かわせる方法については説明をはぐらかしている。

 

ここでグルのサポートが必要になる。エーテル体のエネルギー横溢から先には、人前では明かせない秘密があるのだろう。

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人間の肉体の可能性

2022-10-22 12:11:02 | 冥想アヴァンギャルドneo

1.肉体を温める

河口慧海のチベット旅行記で、ヒマラヤのさる峠を越える時に遭難しかける話が書いてある。峠と言ってもチベットなので標高5千メートルはある峠の話で、吹雪に降り込められるので、零下20度とか30度とかの状態であろう。 慧海は、暖房もない、テントもないその山中で、一夜坐禅を組んで、身体を温めるのだ。夜が明けて、定から出て見ると吹雪は止んでおり、九死に一生を得たということである。

 

笹目仙人が鶴仙に乗って、崑崙山脈の標高7千メートルの地の年齢500歳の仙人に会いに行った時も、最後は、坎離印を呪することによって肉体を温めた話が出て来る。 (笹目秀和/モンゴル神仙邂逅記)

 

どちらにしても定という状態のもとに内分泌腺を活発化させ、体温を上げることができるという例である。 分かりきった肉体でも想像を絶した可能性もあるのである。

 

2.人体の自然発火

意図的にそういう状態を造り上げたのかどうかわからないが、人体の自然発火の例もあり、さらなる肉体の可能性を示唆している。ある特殊な条件下では人体が灰になるということ。屍解(肉体が虚空に消えること)と関係あるのだろう。

 

コーネリア・ザンガリ伯爵夫人は、正常な健康状態で床に就き、翌朝焼死しているのが発見された。ベッドから1メートル30センチほどのところに灰が積もり、靴下をはいた夫人の脚はそのままだったが、頭は半分焼けて、脚の間にあった。翌朝焼死しているのが見つかった。その他の部分は、ほとんど全部灰になっていた。だが、部屋そのものには、脂っぽい煤がついていた他には何の異常もなかった。ベッドの上の毛布は、夫人が夜中に起きてベッドから出たかのようにまくれていた。また夫人が叫び声を上げた形跡はなかった。

 

また1951年7月フロリダ州に住むミセス・リーザーという女性が、ひじ掛け椅子に坐っているうちに煙に包まれ焼失してしまった。残ったのは頭蓋と左足と背骨の一部だけで、頭蓋は野球のボールぐらいの大きさに縮んでいた。ひじ掛け椅子の内張りは燃え、椅子の脇にあったテーブルと椅子の間の絨毯も燃えていたが、それ以外に室内で燃えたものはなく、床から約1メートル30センチのところから上のほうに脂っぽい煤がついているだけだった。これほど徹底的に人体を焼くには、千七百度の熱が必要だとされる。

(これ以外にも、マイケル・ハリソンの「天からの火」には同様の例が何十件も収録されているそうです。=出典:「フランケンシュタインの城」コリン・ウィルソン)

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好きと嫌い 私欲と無私

2022-10-22 12:07:07 | 究極というものの可能性neo

◎えり好みの陥穽

 

好きと嫌いの間の壁は薄い。同様に私欲と無私の境目の壁は薄い。

 

ほとんどの子供は、利己的な性質を持って育ち始めるが、幼稚園や学校で利己的なところを隠して協調的に他人と暮らすことを学ぶ。

 

それは、日本では、挨拶や礼儀というものに象徴されるが、それは本質的な無私を体したものでなく、表面的な無私にすぎないことがほとんどである。

 

巨億の富を持つ人が百万円を寄付しても、それは私欲の壁を越えてはいない。だが、千円しか持ってない人が、それを本当に必要とする他人に布施するならば、私欲の壁を越えたといえる。

 

これは、東日本大震災で、インドの少女が日に百円も稼がないのにその金を寄付してくれたシーンをテレビで見てぎょっとした人もいると思うが、そういう類のことである。

 

スワミ・ラーマは、ヒマラヤでの洞窟での修行中、一日一食。その中身は、チャパティ1枚、野菜少々、ミルク一杯だったが、ある日見知らぬ修行者が来訪したので、師がそれを彼に与えなさいという指図に不承不承従った。

 

スワミ・ラーマは、その指図への反発を子供じみた空腹感と切って捨てている。だが、それが「飢え」の正体であり、そんなに空腹感が簡単に克服できるものならば、禅堂で食事の際に餓鬼に米を備えるさば(生飯)や施餓鬼、食べ物の供物などは、さほどの必要性はないことになる。

 

自分の好き嫌いにこだわることで、人は日々私欲の壁を厚く高く築き上げていき、青年になる頃には、私欲の堅城に住んでいる人も結構多い。

 

その堅城から飛び出して出家した釈迦のような人物も稀にいるが、そこに起居するほとんどの人は、私欲、好き嫌いを超えた境地を想像することすらできず、世間が億万長者を称賛するのにやや卑屈な気分で追従する。

 

禅の三祖僧さんの信心銘の冒頭に、ただ選りごのみさえしなければ、とあるのを見てなぜえり好みかと不思議に思う人もいるかもしれないが、えり好みとは私欲の根源だからである。

 

今、自己実現するためには、十全の私欲全開で、ポジティブ思考でないといけないなどという考え方が流行っているが、それは、えり好みしないという壁の向こうを想像もできない人たちの習いである。

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性エネルギーと頭人間

2022-10-22 12:04:25 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎エネルギーの頭への集中と狂気

 

現代人は、性に向かうべきエネルギーですらも、頭に向かう。人間のボディには複数の代表的エネルギープールがあって、それは、生殖器、腹、頭なのだが、現代では文化的要因により、エネルギーは、ほとんど頭に向かう。

 

その結果、人の頭の中は、昼は思考、思考、夜は、夢、夢と休むことがなくなる。

 

手足も腹も頭に従属する機械に成り下がり、肉体では、頭だけが生きている。現代人は、頭人間である。

 

だから、とても多くの夢、とても多くの思考と、頭の中での沢山のトラフィックが発生する。

 

だが、それをやめる方法はないことはないが、もっと効果的な方法はある。それを全身に分散させる方法である。

 

もちろん、それは全エネルギーが頭にあるのであまりにも混雑している。頭は多くのエネルギーを運ぶように設計されていないので、あなたは狂って行く。

 

こうしたメカニズムで狂気は生み出される。狂気は私たちの文化によって生み出される文化的な病気である。

 

※頭に集中したエネルギーを全身に分散させる手法は、呼吸法、柔軟体操、ジョギング、禅の経行、気功、OSHOバグワンのダイナミック・メディテーションなどがある。

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本当にしっくり来るものを求める時代

2022-10-22 12:00:23 | 究極というものの可能性neo

◎バーチャル・リアリティーは頭の延長

 

バーチャル・リアリティーは低層霊界であることは、以前述べた。

 

頭、マインドは、視覚や聴覚で得られる情報で世界を構築したがる。見えるもの、聞こえるもので大枠を構成し、見えない部分、聞こえない部分は過去の経験や推測で補う。これがバーチャル・リアリティーの姿。

 

中世日本人は、肚人間であって、人間は肚ができているかどうかが問われた。

現代は、悪いことを人に隠れてやっていても、頭・マインドが良いことが第一とされる頭人間の時代。

 

感覚刺激と既成概念だけで作り上げた世界には珍奇、物珍しさはあるかもしれないが、人をうんと唸らせる本物感と神秘の深みはない。

 

バーチャル・リアリティーを感じさせるゴーグルの開発が盛んだが、数時間の着用でも頭が痛くなったりするのだろう。バーチャル・リアリティー用ゴーグルは、洞窟で一人で長期間暮らす実験のモバイル版のようなものだ。

 

21世紀中葉にもなろうとする今、人は内に向かい七つの身体という新たな地平を神仏とコンタクトを欠かさぬように生きる時代となりつつある。

 

頭・マインドをいじる道具は無数に増えた。動画チャンネル、youtubeなど動画提供ツールが花盛りすぎて、余暇のすべてを充てても見られるすべての映画や動画を見る時間がないことを皆感じる時代となった。

 

外的刺激のピークの時代になったのだ。

外的刺激を卒業する時代になったのだ。

 

本当のもの、本当にしっくり来るものを求める時代となったのだ。

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時間の様式

2022-10-22 11:57:18 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎ヤキ・インディアンの天意・神意

 

神秘家たちは、時間などない世界が真相であり、その上で今ここという紙芝居の三脚の上で画像が変貌していくのが時間だなどという説明をすることがある。

 

ヤキ・インディアンのソーマ・ヨーギ、ドン・ファンは、時間の様式についてカスタネダに対して次のような説明をする。

『ドン・ファンは少し間をおいてつづけた。「人間の持って生まれたエネルギーは限られている。そしてこのエネルギーは、人が生まれ落ちた瞬間から、時間の様式によってもっとも有効に使われるようシステマティックに展開されるのだ」

 

「時間の様式って、どういう意味なんだい?」私はたずねた。

 

「時間の様式とは、知覚されつつあるエネルギー・フィールドの束のことだ」彼は答えた。「わしは人間の知覚は、時代とともに変わってきたと思っている。現実の時間がその様式を決定する。

 

無数の束のなかから、どのエネルギー・フィールドの束が使われるべきかを決めるわけだ。ところが時間の様式、つまり選ばれた数少ないエネルギー・フィールドを扱うことで、その人間の利用可能なあらゆるエネルギーが費やされてしまい、他のエネルギー・フィールドを使う余裕はまったくなくなってしまうんだ」』

(沈黙の力 意識の処女地/カルロス・カスタネダ/二見書房P9から引用)

 

エネルギー・フィールドが時代によって変わるとは、人間の世界観が時代によって変わること。

 

カルロス・カスタネダの説明では、呪術師の初心者は、エネルギーを蓄積する訓練をまず行う。やがてそのエネルギーで、通常使えないエネルギー・フィールドのいくつかが使えるようになる。これが呪術。

 

そして宇宙には、測り知れない言語を絶した一つの力が存在しているのだが、呪術師たちは、これを『意志』と呼ぶ。宇宙の万物は環によって『意志』に結びつけられており、呪術師の関心事は、その環を語り、理解し、利用すること。ところが、時に日常生活でのささいな心配事で、環が汚れるから、環をきれいにし続けるために呪術を用いるが、これは途方もなく難しい。

 

だから呪術師は、日常生活においては、環をきれいにしたままにして行動することを学び、その一方で言葉を介在させず高い意識状態において『意志』から直接知識を引き出す。

 

これを読むと、『意志』とは神仏であり、環とはクンダリーニのエネルギーコード。そのコード自体時代によって変わっているとは、自意識が腹人間から頭人間に移行していたり、あるいは、イエスの時代のように沢山言葉を語る人間が少なかったから言葉自体の影響力が大きかった時代から、現代のように言葉が氾濫しすぎて言葉が雑音と大差なくなってしまった時代に変わってしまったこと。

それでなくとも、言葉自体時代によって大きく変わる。日本語だって、100年前の文書は読めるが150年前の北村透谷の文章あたりになると、いわゆる古文ではないものの、読むのに骨が折れたりする。

 

環をきれいにする行動とは、善を行い悪をしないことだろうと想像はできる。『意志』から直接知識を引き出すとは、天意神意をうかがうということ。

 

ヤキ・インディアンの呪術も世界標準の宗教の体裁を有している。

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グルジェフのエーテル体

2022-10-22 10:43:29 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎遠隔治療の原理

 

遠隔治療と呼ばれるものがある。効くか効かぬかは、施術者によるが、その原理的なものについて、グルジェフが言及している。

 

まずグルジェフは、最後の晩餐でイエスが弟子たちにパンとぶどう酒に混ぜて与えたものは本当にイエスの血であったと主張する。

 

あらゆる生命体は、その周辺にエーテル体(大気)を持っている。そのエーテル体の大きさは、生命体により異なる。人によりエーテル体の匂いは相違するので、犬などはその匂いをかぎ分けることができる。

 

人体で産出される成分の一部は、消化、呼吸など他の物質を変換させるために使われるが、残りの部分はその人のエーテル体になっていく。つまり失われるということ。

 

知者は、純良な物質を自分の中に蓄積することを知っているが、純良な物質が大量に蓄積されると、人間の中に第二のより軽い体(アストラル体のことか?)が形成されるという。しかしふつうの人のエーテル体においては、蓄積されず、絶えず消費され、内面の動きにより補充される。

 

人のエーテル体は、必ずしも球状ではなく、絶えずその形を変え、緊張した時や、脅威や危険にさらされたときは、緊張した方向に伸びる。そうすると反対側は薄くなる。

 

エーテル体は、一定の空間でその人に引きつけられているが、一定の限界を超えるとエーテル体を構成する細かい粒子の群れが引き離され、戻って来ない。人が動くときに、エーテル体が一方向に甚だしく引っ張られると、その人のエーテル体の粒子が引き離されて背後に残り、跡が残る。この跡はかなり長い間残ることがある。

 

こうした跡を、神域、聖域、墓所などで、聖者のバイブレーションとして感じることができるわけだ。

 

エーテル体の粒子は、衣服、下着、その他その人の持ち物に定着するので、その人のバイブレーションとして残る。

 

催眠術や、遠隔現象は、この原理を応用したものである。遠隔現象を起こす能力を持っている人は、この跡をその人自身のエーテル体半物質で埋めることができる。

相手の持ち物があれば、その持ち物で相手との(無線的)接続を行い、その持ち物の周りにワックスや粘土で肖像を作り、そうしてできたイメージに作用するという方法でその人自身に作用する。

(出典:グルジェフ/弟子たちに語る 第四部/メルクマール社)

 

グルジェフは最後の晩餐に与えた食物には、イエスのエーテル体が含まれていたので、血そのものを与えたのと同じであると説明している。

 

OSHOが弟子に与えた形見の品が、弟子の家の片隅に置かれているが、その弟子が一向に修行しないところを、OSHO自ら幻視しているシーンが書かれているところがある。

 

聖者の形見の品は、このようにエーテル体を媒介として、そのバイブレーションを長く残しているものだろうから、その場所が、聖域同然になってしまう。

だから仏舎利、聖遺物、聖骸布など、聖者の遺品に類するものに対する丁重な扱いは、故のないことではなかったのである。

 

また遠隔作用がエーテル体レベルだけかという点についても、議論はある。

 

また超能力者は内臓を痛めがちというのも忘れてはならない視点である。

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テトラビブロスとエーテル

2022-10-22 07:08:28 | 無限の見方・無限の可能性

◎無数にある世界の見方

 

占星術の古典であるテトラビブロスが和訳されたので、読んでみた。これは、グノーシス的世界観盛んなりし時の産物であって、地上界(物質界)とエーテル界と天上界の三つに世界が区分されているというのが前提になっている。

 

曰く、宇宙の力はエーテルを媒質にして地上に伝搬する。つまり、宇宙あるいは霊界パワーは、半物質たるエーテルを媒介に現実を変容させていく。エーテルは、地球の周りに拡散、浸透しており、世界は、地水火風+エーテルの五元素で構成され変化している。

 

太陽、月、古代五惑星は宇宙あるいは天上の側に存在し、日々人間に影響を与え続けている。

 

当時の人間は、頭人間でなく腹人間であったとしても、人間の側に肉体は勿論、エーテル体あり、霊体(アストラル体、メンタル体)があるという説明にしなかったのは奇妙である。

 

神を知るあるいは宇宙全体を知るということは、特定の世界観にこだわらないという、人間の無限の可能性に生きるということだから、テトラビブロスの時代は、そのような人と天上は別物であって中間にエーテルもあって、天意・神意を知るには、天体の動きを契機に自分の中を覗き込みましょうということにしたのだろうと思う。

 

今や七つの身体論は知られるようになったが、七つの身体論のよくできた説明ですら、無数にある世界全体や人間についての説明の一つにすぎないという。

 

それは何を示唆するかと言えば、えり好みをしない、好き嫌いをしない、先入観を打破するということであって、世界の見方は無数の見方が可能だが、その一つにこだわってはいけないということ。

 

この表現には、万人が六神通のような超能力が使えることが前提になっているようにしか思えない。悟りを超能力獲得のステップとして考えるのはまずいが、逆に超能力には、そういう側面が見え隠れする。

 

さて道教の修行者だった笹目秀和は、崑崙山脈の7千メートル付近に行くのに素手でつかまりながら巨大な鶴(鶴仙)に乗った。これは明らかに超能力だが、どうすれば鶴仙に乗れるようになるのかと崑崙山の仙人に問うと、先入観を持たないことというようなニュアンスのことをアドバイスされるシーンがある。

 

人生を卒業して、転生を終了し、あらゆる先入観を捨てることが、求道の前提であることを真摯な修行者なら知っている。その結果が、大悟覚醒だが、それには、超能力発現も伴うものであって、俗人には想像もできぬ世界観で生きることになるらしい。

 

そこから出る説明が、エーテルと天体と地上連動のテトラビブロスの世界観であったり、えり好みをしないとか、先入観を持たないという誰でもわかる平易な言葉になるのだが、その奥底には未悟の者には想像もできぬ含意があるのだろうと思う。

 

OSHOバグワンが、青いオームの字を目撃する話は、常識として知っておくべき話の一つだろう。

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