◎エデンの園追放以前のアダムに戻る
グノーシスにおける単独者とは、原人、完全な人のこと。それは、エデンの園追放以前のアダムのことである。
フィリポによる福音書§71にエバと分離する以前のアダムが完全体、原人であることが示される。そのやり方は、エバを再び合体させることであって、それが聖なる結婚となる。
フィリポによる福音書から。
『§71 エバがア〔ダ〕ムの〔中〕に在ったとき、死はなかった。彼女が彼〔から〕離れたとき、死が生じた。もし再び彼女が入〔り込み〕、また彼が彼女を自分に受け入れるならば、死はなくなるであろう。』
(ナグ・ハマディ文書2/荒井献ほか訳/岩波書店P86から引用)
これに対し、トマス福音書の語録75では、逆にアダムが新婦エバの部屋に入るという比喩で両性具有が実現し、原人となることが覚醒であることを表現している。これが天国と地獄の結婚である。
『イエスが言った、「多くの人々が戸口に立っている。しかし新婦の部屋に入るであろう者は単独者(だけ)である」。』
(荒井献著作集 7 トマス福音書 荒井 献/著 岩波書店P186から引用)
両性具有とは、男女の違いもなく、生死の違いもなく、神と人との分離もなくということで、個なる人間の立場の極みに近い。神仏を知る、見る、ワンタッチするという一過性のものよりも、両性具有は難しい。法律により私権が保護され、合法の名のもとに神仏の目から見れば明らかに悪であることを平気で大規模に行っているこの時代に生きる我らの頭では、理解しがたい種類のものであるから。
イエスが活躍した時代ですら、原人、両性具有をテーマにしていた。
神人合一と言うは易いが、両性具有を生きるというのは、禅の十牛図で言えば、第六騎牛帰家なのだろうから、見仏見性見神の第三見牛よりも上の境地である。