アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

新婦の部屋で結ばれる-2

2022-10-29 16:45:24 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎エデンの園追放以前のアダムに戻る

 

グノーシスにおける単独者とは、原人、完全な人のこと。それは、エデンの園追放以前のアダムのことである。

フィリポによる福音書§71にエバと分離する以前のアダムが完全体、原人であることが示される。そのやり方は、エバを再び合体させることであって、それが聖なる結婚となる。

 

フィリポによる福音書から。

『§71 エバがア〔ダ〕ムの〔中〕に在ったとき、死はなかった。彼女が彼〔から〕離れたとき、死が生じた。もし再び彼女が入〔り込み〕、また彼が彼女を自分に受け入れるならば、死はなくなるであろう。』

(ナグ・ハマディ文書2/荒井献ほか訳/岩波書店P86から引用)

 

これに対し、トマス福音書の語録75では、逆にアダムが新婦エバの部屋に入るという比喩で両性具有が実現し、原人となることが覚醒であることを表現している。これが天国と地獄の結婚である。

 

『イエスが言った、「多くの人々が戸口に立っている。しかし新婦の部屋に入るであろう者は単独者(だけ)である」。』

(荒井献著作集 7 トマス福音書 荒井 献/著 岩波書店P186から引用)

 

両性具有とは、男女の違いもなく、生死の違いもなく、神と人との分離もなくということで、個なる人間の立場の極みに近い。神仏を知る、見る、ワンタッチするという一過性のものよりも、両性具有は難しい。法律により私権が保護され、合法の名のもとに神仏の目から見れば明らかに悪であることを平気で大規模に行っているこの時代に生きる我らの頭では、理解しがたい種類のものであるから。

 

イエスが活躍した時代ですら、原人、両性具有をテーマにしていた。

 

神人合一と言うは易いが、両性具有を生きるというのは、禅の十牛図で言えば、第六騎牛帰家なのだろうから、見仏見性見神の第三見牛よりも上の境地である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新婦の部屋で結ばれる-1 

2022-10-29 16:42:49 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎聖なるものの聖なるもの

 

フィリポによる福音書で、イエスがマグダラのマリアにしばしば口づけするのを見て、あなたは我々弟子のすべてよりもなぜマリアの方を愛すのですかと質問したところ、イエスは、なぜ私は、あなた方をマリアのように愛さないのだろうかと問い返してきた。

 

 

フィリポによる福音書§76では、洗礼が聖なる家であり、「聖なるものの聖なるもの」とは新婦の部屋のことである。さらに洗礼には復活と救済があるが、救済は新婦の部屋の中にある、と新婦の部屋を解説する。

 

さらに§79では、女は、新婦の部屋で夫と結ばれるものであり、新婦の部屋で一つになったものたちはもはや離れることがないだろうが、アダムとエヴァは新婦の部屋でないところで結ばれたから分かれたのだ、と。

 

復活と救済の先にあるので、神を知っていることは勿論のことだが、不可分の両性具有の起きる場が、俗人の想像するような場ではないことを強調して、「新婦の部屋」と言っているように思う。

 

この両性具有のことを花婿と花嫁から成ったものと説明もしているが、それでは却ってわからないのではないだろうか。

古事記でも両性具有の伊都能売について全く解説していないように、準備のできた者だけに語るべきことなのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死神死仏から伊都能売

2022-10-29 16:39:22 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎国は富み世人栄ゆる神の代を開かせ玉ふは伊都能売の神

 

古事記に一行だけ神名が書かれてあって、日本書紀には記述のない伊都能売神。

キリスト教では聖霊を非常に広い意味で使っているが、伊都能売神は、あらゆる二元対立を超えた至誠であり、聖霊でもある。

 

古事記に一か所だけ出て来て、しかも神名しか出てこない。この伊都能売神こそは、空であり、本来の自己である。出口王仁三郎は、伊都能売神を殊更に強調したのだが、その意図は汲まれるべきである。

 

古神道は一般に多神教と言われるが、一神教であると出口王仁三郎が断言するアーキテクチャーが、伊都能売である。自らが鎮魂して伊都能売に至るのだ。

 

出口王仁三郎が自らを変性女子と唱えたのもそういう意図。平たく言えば、天照大御神は、高天原の天の真名井での誓約で男神を生み、須佐之男命は女神を生み、これにより、天照大御神は変性男子、須佐之男命は変性女子。この二者の誓約により両性具有の伊都能売が成立した。

 

古神道はともすれば自分自身の悟りとあまり関係のない帰神、チャネリングが主流と思われているが、むしろクンダリーニ・ヨーガ系の鎮魂の方がメインの時代となっている。鎮魂の一つの里程標が伊都能売である。

 

『世の中の百の出来事おしなべて伊都能売の神の守らぬは無し

上下の差別も付けず平等に世を救ひます伊都能売の神

地の上に建てる宗教悉く伊都能売の神守りますかも

 

山川も百も樹草も禽獣も恵みに浴せる伊都能売の神

肉体のなやみは更なりたましいのいたづき癒し玉ふ伊都能売

宗教や政治文学芸術に産業幸ふ伊都能売の神

 

天震ひ地は鳴り響く災厄も只一声に止むる伊都能売

渇きたる教に真清水あたへつつ死神死仏を生かす伊都能売

国は富み世人栄ゆる神の代を開かせ玉ふは伊都能売の神

 

伊都能売の神の出でまし寿ぎてあなたこなたに万年青はやれる

天も地も皆伊都能売のいさほしに安く治まる御代近づきぬ

もろもろの聖の教は多けれど伊都能売教に優れるは無し』

 

(昭和二年 四号 神の国/出口王仁三郎から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神仏は天国と地獄の先にある

2022-10-29 06:39:40 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

1.神仏は天国と地獄の先にある。

 

神仏と言えば、天国的極楽的なものとほとんどの人が思い込んでいる。究極の真理を悟った者の生きる姿は常に天国的であるし、人は天国的に行動せねばならないからでもある。

 

だが、人間は、肉体と精神でできており、精神は常に天国的にあることも可能だが、肉体の方は、排せつがあり、老病死があり、地獄的なものを持って生きざるを得ない。

 

神仏は天国的なものだけの先にあるのであれば、釈迦の成道直前に悪魔は出現しなかっただろうし、イエスも大悟覚醒直前の荒野で悪魔は出現しなかっただろう。

 

つまり神仏は、天国的なものと地獄的なものを両方含めた先にあるのだ。これを天国と地獄の結婚とか両性具有といい、やや現代人にはなじみがない。

 

天国と地獄の結婚あるいは両性具有とは、男女の違いもなく、生死の違いもなく、神と人との分離もないということ。こうした状態は、個なる人間の立場の極みに近い。

 

だが、これは既に常識的社会人の通念を越えたものであって、経済的メリットと便利優先に凝り固まった人には理解しがたいものである。

しかしながら、ここから『無駄なもの、意味のないもの、無用の用』の価値が出現する。

 

これが、神仏は天国と地獄の先にあるという意味である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする