アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ダンテス・ダイジの教えの全貌-4

2022-10-11 06:58:29 | ダンテス・ダイジの風光

◎古神道

 

ダンテス・ダイジと古神道の関わりと言えば、出口王仁三郎だが、あまり見えにくい。彼は、大本教の短期セミナーに参加し、立替立直しを学び、鎮魂帰神も学んだことがあるらしい。

 

霊界物語に三神系という主要神の系図があるが、その中の野立彦神こそダンテスであるという説明も自らしている。古神道の言霊では、返しというのがあり、NODATEはDANTEに返るのだろうか。

 

彼の冥想道手帳に次のものが入っている。

1.天の数歌

 「一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万」

(読み:ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ )

天の数歌を唱えれば、あの世もこの世もまとめて修祓できる。

 

2.われもなく現世(うつしよ)もなくただ一人神の御前(みまえ)に平伏(ひれふ)しをろがむ

(出口王仁三郎/大本の道 第6章 祭─惟神の大道に所載)

 

3.大本宣伝歌

 「朝日は照るとも曇るとも

月は満つとも欠くるとも

たとへ大地が沈むとも

まがつの神がすさぶとも

誠の力は世を救う

 

三千世界の梅の花

一度に開く神ののり

開いて散りて実を結ぶ

月日と土の恩を知れ

 

この世を救う生神(いきがみ)は

高天原(たかあまはら)に神集(かむつど)う

 

神がおもてに現われて

善と悪とを立て別(わけ)る

 

この世を創(つく)りし神直日(かむなほひ)

心も広き大直日(おほなほひ)

ただ何事も人の世は

直日に見直せ聞直せ

身のあやまちは宣(の)り直せ。

 

ああかんながらかんながら

たまちさちはえましませよ」

 

世界全体の立替立直しが発生し、誠の力により、善なる者だけが次のみろくの世に残っていくことを宣伝している。

 

4.冥想道手帳ではないが、「われは空行く鳥なれや」の歌を大変気に入っていて、揮毫などしていた。

この歌は、出口王仁三郎が高熊山の一週間修行で大悟した際に詠んだ歌。まるでダンテス・ダイジ自身が出口王仁三郎になったかのような心酔ぶりである。

『我は空行く鳥なれや

○○○○○○○○○○(原文のママ)

遥に高き雲に乗り

下界の人が種々(くさぐさ)の

喜怒哀楽に囚はれて

身振足振りする様を

我を忘れて眺むなり

 

実げに面白の人の世や

されどもあまり興に乗り

地上に落つる事もがな

み神よ我れと倶(とも)にあれ』

 

ダンテス・ダイジは、出口王仁三郎の古神道とのかかわりについてあまり言及していないかに見えるが、本田親徳、出口王仁三郎と続く日本近代の神業に密接にかかわっていたことは疑いもないと思われる。

 

だが、弟子たちに大本教に入信せよなどと指示した例は聞かない。その辺は、大本教との関わりについては距離を置いていた印象がある。

 

私も最近でこそ、出口王仁三郎の事績や大本教の歴史や概要についていささか承知しているが、1970年代においては、ネットもなく、さほど情報を集めることもできなかった。

 

ただしダンテス・ダイジが、殊更に日本に出現し、かつ出口王仁三郎に大いに関心を寄せ、その鎮魂帰神の技と生き様に大いに感銘を受けていたことは、はっきりしている。ダンテス・ダイジは、社会性、特に政治方面には関わりは薄かったが、古神道に係る部分は例外的に霊的に関与していたと見るべきだろうと思う。ここはご神業であるがゆえに隠されている部分ではある。

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ダンテス・ダイジの教えの全貌-3

2022-10-11 06:57:25 | ダンテス・ダイジの風光

◎ソーマ・ヨーガ

 

求道者は、いつの時代も悟り薬を求める。何のために?

生きる苦悩と死の恐怖を超え、無上の歓喜を求めるために。

 

ダンテス・ダイジは、高弟の一人に対して、『死とは、水を張ったバケツから腕を引き抜くようなものだ。』と語ったそうだ。

 

薬物ジャングルの探検者ティモシー・リアリーが妙なことを書いている。ケタミンによって引き起こされる臨死体験に際して、『それを経験する者が誰もいないのに、宇宙の全情報が通り抜ける』のだそうだ。これは、例の『体験とは言えない体験』の別の表現である。

 

『ケタミンが引き起こす遊体離脱体験はしばしば浮遊感を伴い、トンネルを通り抜けている感じに近いという。またどんなに高用量のサイケデリック・ドラッグも自我の喪失感では、ケタミン投与にかなわない。それを経験する者が誰もいないのに、宇宙の全情報がどうやって通り抜けていくのか、それをR.U.シリアスは不思議に思ったという。ケタミン体験において死はとてもリアルだ。この世界と次の世界との間の薄い膜を肌で感じることができ、しかもそれは恐ろしくない。他のサイケデリック・ドラッグでの死で体験するようなパニック感が、ケタミンの場合には皆無だ。ケタミン体験の最中は、置き去りにしてきた世界のことがほとんど気にならない。』

(死をデザインする/ティモシー・リアリー/河出書房新社P220から引用)

 

このケタミン体験では、肉体に戻れない不安など毛ほどもないことが示される。水を張ったバケツから腕を引き抜くとは、そういう感じなのだろうか。

 

ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスに師事したカルロス・カスタネダは、ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)を長年探求したが、そのほとんどの年月は、本番ともいうべき“飛び込む”時節までに、自分の関わってきたすべての人に別れを告げるなど、自分の準備に費やされた。

 

西洋錬金術書に“近道”というような表現が出てくることがある。近道として、ソーマ、向精神性薬物を一定量摂取さえすれば悟れるかといえば、決してそんなことはない。まず準備ができているかどうかが問われる。

 

富士山登山でも、八合目まではなんということはないが、それ以上になると低酸素により高山病を感じ、かなりの人が登山路にうずくまっていることに似る(田中陽希のTV番組グレートトラバース富士山)。

 

ソーマ・ヨーガと言えば、古代インドのベーダの昔から伝承され、その価値の奇天烈性は、漁師のおしっことして与えられたりすることで象徴される。

 

また準備が完全にできていなければ、似非サマディーなる見神見仏にとどまる。自分が死んではいないのだ。

 

1960年代から70年代にかけ、薬物規制のゆるかったカリフォルニアとメキシコを舞台に描かれた長編小説のカルロス・カスタネダのシリーズは、1980年代から90年代には日本でもよく読まれた。

 

どんな冥想でもそうだが、正しいグルのいないソーマ・ヨーガは危険である。クンダリーニ・ヨーガが危険とされるのと同様に。

 

ダンテス・ダイジのソーマ・ヨーガでは、常にドン・ファン・マトゥスが意識されていたのだろう。カルロス・カスタネダへの言及は多い。

只管打坐も含めたラージャ・ヨーガでは、常に先入観を壊す、先入観を排除するという修行も行われる。ソーマ・ヨーガでは、そこを飛び越えるがゆえに、それに耐えられるかどうかというポイントは常にある。

 

今の時代は、うつ病の蔓延により、向精神薬がどのようなものか実体験している人が多いが、治療の方向性は、社会人として適応させることに向かっているので、そもそもソーマ・ヨーガとは方向が異なる。

 

それでもアヤワスカにまともにチャレンジした藤本みどりのような人もいるので、危険をはらむトラップ付超特急のようなメソッドとしてソーマ・ヨーガはあり続ける。

 

そうやって成功せず討ち死にした無数の人もいることは、カルロス・カスタネダのシリーズに記載されているし、クンダリーニ・ヨーギ本山博が霊界で目撃したような人々の中にもいたのだろう。

 

道教の魏伯陽も弟子の準備ができているかどうかを確認するために毒薬をあおった。

 

ソーマは逃げないが、まずは自分の準備ができる時節を待たねばならない。だが時節が待ってくれるかどうかは、一生一回きりしかない我々にとっては心もとないものである。

 

ダンテス・ダイジのメディテーション・トラベル・ガイドには何篇かのソーマ・ヨーガをテーマにした詩があるが、その一部。

『素直であればいい

混乱や恐怖や不可解な中でも 

ただ素直であるしかない

天国だろうと地獄だろうと 

俺はあるがままでいるしかない

 

ドラッグ・ソーマの神は 

時にトリップ者を 

トリップの袋小路に誘い込む

 

それはトリップ者が 

耐えられるぎりぎりのトリックだ

 

そしてこの耐え難い 

トリックパズルを 

解くやり方は

 

素直であること 

それのみである

 

恐れるな

恐れにどんな根拠もない

 

今こそ 

君はすべてのすべてを見る 

君がすべてのすべてだ』

(メディテーション・トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジ/ソーマ・パイロットの言葉から引用)

 

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ダンテス・ダイジの教えの全貌-2

2022-10-11 06:56:41 | ダンテス・ダイジの風光

◎まず否定はせず肯定するのが常だった

 

ダンテス・ダイジの著書『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』に四つの章があり、マントラ禅、丹田禅、クンダリーニ・ヨーガ、只管打坐と四つの章が並んでいるので、たいていの人は、この四つの門が彼のメインの教えなのだろうと勘違いをする。

 

だが彼の裏主著というべき『老子狂言』では、老子という只管打坐系の覚者を看板に掲げてはいるが、悟ったままに遊ぶ、あるいは醒めたままで狂言するの如き、およそ社会性とは全く無縁の自分の運命を自由自在に生きる覚者の姿が次々と描かれている。

 

ダンテス・ダイジの弟子たちには、マントラ禅、丹田禅、クンダリーニ・ヨーガ、只管打坐をメインに修行した者たちが多いのだろうが、彼自身のエピソードを追ってみると、出口王仁三郎の古神道とヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスのソーマ・ヨーガの影響も見え隠れする。

 

ダンテス・ダイジの基本姿勢は、誰か有名宗教家や他人の修行法について、まず否定はせず肯定するのが常だった。『それでも、いつかは窮極に至ることはできる』などと云って・・・・。真言立川流とか、宗教ではないが国家を邪境化する共産主義には否定的だったが、それは例外的である。

 

つまり彼は、その修行法が間違っていようが、彼の目からは誤った修行法に打ち込んでいる人も既に神であり、またそんな修行者も何生か後には大悟するという遠大なサイクルの下にそう言っているのだろうと想像される。

 

だがそういう姿勢は、邪教を世にはびこらせることを妨げないということにもつながっていく。ダンテスの悪影響としてそのことを自ら一章を割いて説明しているのだが、そのことですら、わかる人にはわかる類のことである。

 

かくして現代は、経済的利益と便利を求める罠に完全にはまったがゆえに、このcovid-19の先の視界に世界全面戦争が見え隠れすることになり、恐惶をきたしている人も増えつつある。ダンテスの悪影響なくば、次の至福千年の開花の全面性は完璧を期せなかったか。それは、あなたのせいではなく、ダンテスの悪影響のせいか。

 

『悟りのテクニシャン

 

私は宇宙のカラクリを

見抜くテクニシャン。

 

すべての道術家がそうであるように

私はこのテクニックに、

すべてをかけているつもりだ。

 

そして 

すべての答え——

私自身の愛と全智全能とを 

いくたびか知り

そして、それと合一した。 

 

が、

私は何も知らない。

尾骶骨が痛むように···』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

ダンテスの悪影響とは、最後の

『が、

私は何も知らない。

尾骶骨が痛むように··』

のところですね。

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ダンテス・ダイジの教えの全貌-1

2022-10-11 06:55:44 | ダンテス・ダイジの風光

◎原典救世主入門の位置

 

ダンテス・ダイジが存命であれば、72歳。当時20代だった弟子たちも老いた。何千人かいた彼の知己の中で弟子とされるのは、その極く一部なのだろうが、それは布教の時期別に4グループに分かれているとされる。

 

彼は、その人一人の時、所、位に応じた教えというのを徹底していたがゆえに、彼の教えの全容は、そのすべてを知ることがない限りわからない、ということになる。

 

ダンテス・ダイジは、他心通、宿命通を用いて相談者の境遇と未来と過去を見抜き(相談者の守護霊がオレに報告しにくる、などと説明していた)、すこぶる親身に相談者にアドバイスをしていた。それは、布教などというものではなく、本当に親切な人生相談のようなものであった。

 

一方で、禅者には、一瞬の隙をも見せず峻厳に応対し、クンダリーニ・ヨーギに対しては、慈母のような優しい応対であった。

 

ダンテス・ダイジは、文章を残すことに相当に心胆を砕いていたが、主著なるものがあるわけではない。彼の存命中の著作は、私家版の超宗派的冥想など何種かあるが、商業ベースでは、ニルヴァーナのプロセスとテクニックだけ。

 

原典救世主入門は、リチャード・バックの小説に断片が掲載されていたのを、出所はアトランティス時代のダンテスの教えだったとして、全章を復刻してみせたもの。ただ、感情人間であっただろうアトランティス人に向けて書かれたものであって、全体に現代人にとっては、やや大時代な部分があるかも知れない。なぜなら現代人は、彼と友人として出会っているからである。1万二千年前のアトランティス当時は、主導的宗教グループ、アメンティの一員対大衆というベースで原典救世主入門が書かれたのだが、今は、知性の発達により原典救世主入門に書いてあることなどいわば常識として闊歩する人間が多いのである。

 

だが理屈でわかっていても、それを生き切るのはなかなか大変なことである。

 

すべての人間が、何のために生きるかが、自分につきつけられた公案となって久しいが、それに沿って愚直に素直に、あるいは肩ひじ張らずにやれている人に出会うことはとても稀かと思いきや、最近意外にその愛と自由の断片を持っている人が多いことに気づかされてもいる。このあらゆるマインド・コントロールの嵐でサクラン(錯乱)した時代であってすら。

 

それが、日本教の懐の深さでもあり、それがダンテス・ダイジが20世紀に日本を舞台に選んだ理由でもあるのだろう。

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チャクラと七つの身体-1

2022-10-11 06:40:38 | チャクラと七つの身体neo

1.七つの身体についての誤解

七つの身体と言っているのは、主に神智学系の人とバグワンとスワミ・スリ・ユクテスワだ。といってもスワミ・ユリ・ユクテスワはローカ(次元)と呼んでいる。仏教なら地獄界から仏界にいたる十界と呼んでいる。3者の内訳の区分はやや異なっているが、実質的な相違はない。

 

そもそも7つの身体などと言うから、チャクラやメンタル体以上の世界が個別身体の延長であるという誤解の大きな原因となっていることは否めない。

肉体はバラバラでも実はおなじ一人なのだという認識を先に強調していくべきだったのに、より霊がかった興味を引きやすい話題として人間には同時に七つのレベルで身体が存在しているという話が先に広がってしまったようだ。

 

まるで7枚の衣服を着るように7つの身体があるわけではない。ポイントとなるのは、衣服のように各人が別々の身体を有するのは第五身体のコーザル体(原因体、スピリチュアル体)までであるということだ。第六身体であるアートマン(コスモス体(神霊体))からは、個人というものはなくなるので、誤解をおそれずに(説明してはいけないが)言えば、皆が共通の身体となるようなもの。

 

人間の進化にとっては、第一身体の肉体からスタートして第七身体の神(涅槃、ニルヴァーナ)に至るステップというのが観念的には理解しやすいとはいうものの、第六身体から、すべての他人と一緒であるというのは、社会通念からしても生活実感からしてもありえない話である。

ところが、そちらのほうが真実である人がいるのである。七つの身体説では、第六身体から一緒というのが、観念ではなく、現実そのものであるというところが要である。

 

※仏教の十界:地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界。

 

霊がかかった話というのは、先祖の因縁がどうだからあなたはこうなのだとか、水子霊がどうだから、今こうなのだとか、あなたは前世でこういうことをしたからこうなのだという話のことである。通俗の霊の話とは、エーテル体、アストラル体の話のことだからであるが、そのような通俗心霊話そのものは冥想の深化にはあまり役に立たない雑談のようなものだ。摩訶止観(天台智、6世紀)の昔から、魔境にかかわるものとしてあまりお勧めではない。

 

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七つの身体 総論

2022-10-11 06:37:42 | 【七つの身体】【ザ・ジャンプ・アウト-04】neo

◎七つの身体 総論

 

七つの身体論は、現在の肉体人間だけが人間であるという、社会通念に基づく科学からすれば、キワモノにしか見えない。しかし通常の人間は肉体人間に止まるものではないことの証拠となる、とある超能力を有している。

 

それが背後から来る他人の視線を感じるという特殊な能力のことである。われわれが単なる肉体人間であれば、見えも聞こえも臭いも味もなく、触れもできない、背後から来る他人の視線を覚知するセンサーが肉体ではないことを、誰もが容易に想像することができるのではないかと思う。

 

さて七つの身体の基本的な説明は次のとおり、

 

 

①第一身体

肉体。 物質。

 

②第二身体

エーテル体 経絡に相当する。エネルギーコードの骨格(傘の骨みたいな形)というものに近いと言われる。

気合、意思力、勇気、体力などの根本的源泉。半物質。

 

③第三身体

アストラル体 幽体と呼ばれる。肉体に相似した形。これ以上は物質次元ではない。

 

④第四身体

メンタル体 高次の感情と精神活動を司る。透明で光輝いていると言われる。

 

⑤第五身体

コーザル体 肉体と世界を形作っている最後の個別性。球形の光と見えると言われる。

 

⑥第六身体

アートマン 個別性即ち我はなくなったが、『在ること』=有が残っている状態。

 

⑦第七身体

ニルヴァーナ 涅槃。なまえもなく、言葉では説明できない。

 

七つのチャクラが存在するのはメンタル体までなので、七つのチャクラが世界全体を示すシンボルというわけにはいかない。世界全体を示すには、七つの身体論こそが必要かつ十分なのである。

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人と神の「実際のところ」-6

2022-10-11 03:52:39 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-6

 

(原文6 完)

『人間という奴は、

つねに小便一部を残している。

それでいいんだ。

すべてがすべてになるのは、

すべてだけだ。

 

ああ、あなたはそれほどまでに

不安という観念を

愛しているのですね。

 

無駄口ばかりたたいている。

そうなっていくそれでいいというのに。

久遠の戯れは続く。

何のためでもなく・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

本来の自分、アートマン、宇宙全体、第六身体と自分が合体するのはよい。だが、自分がそれと合体したことを思い出として記憶しているし、合体から抜けて我に戻る時、他人に戻ってもいいはずなのだが、もとの自分に戻る。この辺が“小便一部”という言葉になっているように思う。

 

それを残していれば、最初は神との至福の感覚を忘れないだろうが、いつかそれを忘れ、自分というものが不安の種に変貌していくことを見るのだろうと思う。

 

老子狂言に【メシアン・ハンドブック】という詩があり、その一節に

『君は 

あらゆるものとともに死ぬ 

君も世界も 

もともとありもしないここに

あらゆるものが戯れている

 

いうなれば 

君達は

体験ではない体験

それ自身を 

再体験しようとしている』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

この『もともとありもしないここに

あらゆるものが戯れている』

に戯れの構造の解き明かしがされている。

 

戯れという言葉には、不真面目さが伴う。が、もともとありもしない今ここというニルヴァーナと、我々が実際に生きているこの生は一回きりでのっぴきならないものであるという現実とは、相容れるところがない。だから全体として見れば、戯れというある意味で気合の入らない用語を充てているのだろう。

 

『もともとありもしないここ』から帰ってきた人の生きる姿は、悪事をしない、善いことだけをする、であることも、誤解を防ぐためには忘れてはならないだろう。

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