アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

六祖慧能の思量しない禅

2022-10-23 21:12:31 | 只管打坐neo

◎想念停止

 

非思量底の禅とは、道元のキャッチフレーズの一つ。道元以前にも思量しない禅が議論になった。

 

ある時薛簡が六祖慧能に対して、「首都の禅の先生方は、「仏法を悟るためには必ず坐禅しないとならない。坐禅しないで悟った人は、過去例がない」と主張していますが、本当でしょうか」という質問状を送った。

 

これに対して六祖慧能は、「仏法の真理は心で悟るものである。そのための手段として坐禅は最もよいものではあるが、坐禅に執着してはいけない。」と回答している。また仏教教学を学んで知識を増やすことで煩悩をなくそうとするのも間違いだとする。

 

更に「明(迷い)と無明(悟り)は、その本質は、同じであり、実性=真如の両面である。実性=真如は、煩悩にあってもなくなることはなく、禅定に居てもなくなることはない。それは、その中間にあるのでも、その内や外にあるのでもなく、不生不滅であり、永久に変わることがない。」

 

また「外道の説く生と滅は、前提として、生も滅があるところからスタートしているので、滅は滅しないから、生は無生と説明する。

私の説く不生不滅は、実性=真如にはもともと生も滅もないので、外道の説明とは違う。

 

あなたがもし本当のところを知りたいと思うならば、ただ一切の善悪すべて思量すること莫(な)かれ。

 

そうすれば、自然に清浄なる実性=真如(心体)に入ることができ、静かに落ち着いた境地にあって、絶妙な数限りない働きをするだろう。」

 

一切の善悪すべて思量しないとは、想念停止なのだろうか。坐禅して、思量することがなければ、そこに入る。カルロス・カスタネダは、この世の思い出すべてに別れを告げる準備を終えてからその状態に入ったことから見ると、単なる坐禅時の心の持ちようや坐相(姿勢)だけでは、そこに入れるものではないと思う。

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平和、平和と唱えているうちに亡国になった国

2022-10-23 21:08:06 | 時代のおわりneo

◎亡国のビジョンは頻発しているか

 

平和、平和と唱えているうち亡国になった国があった。

それは、チベットのことである。

 

チベットは、七世紀に唐から文成公主を嫁入りさせた頃が最大の軍事大国であったが、聖王統治も次第に国力を弱体化させ、17世紀清朝成立後は、清朝に服属したものの、清朝はチベット密教尊崇国家であるがゆえにあからさまなチベット侵略に出ることはなかった。

 

18世紀になる頃には、チベットの内紛を平定するために、テレビドラマ『宮廷の諍い女』でイジメ役として名を馳せた華妃の兄年羮尭が青海に軍を進め乱を治めた。

 

しかし清朝のチベット支配は、徐々に力を失い、20世紀に入ると、ロシアと英国の侵略の脅威に挟み撃ちとなり、ヤングハズバンド率いる英領インド軍のチベット侵攻と虐殺事件などで、チベットはますますその国力を衰退させていった。

 

1905年、四川総督の趙爾豊は四川軍を率いてチベットに侵攻、1910年、ラサに入城した。ダライ・ラマ13世はインドへ逃れたが、1912年辛亥革命で清朝が滅亡するとラサに戻った。

 

以後英国、ソ連、中国の角逐の中で、1950年までチベットは自治国として維持されていく。中共は、1950年から東チベットを侵略開始し、ダライ・ラマが1959年インドに亡命して、ここに事実上チベットは滅亡した。

 

チベット密教の聖職者が、中国人民解放軍によってチベットが占領されるビジョンを見た話は、20世紀のチベット物を読むと至るところに出て来る(日本でもそういう話をよく聞くようになったら危ないということでしょう)。ダライラマは、1959年の自身のラサ脱出までは、中共といえども話し合えばわかるなどと考えており、結果から見て、見通しが甘かったという批判はあるかもしれないが、聖王というものはそのように動くものだろう。覇王ではないのだから。

 

軍事的に見れば、チベットは、結局自衛に足る軍備を18世紀以降持たなかったために、以後国際政治のリアリズムに翻弄され、結局亡国となった。

 

日本は核の傘を借りて、通常兵器部分だけで、「自衛」軍備としている。ところが軍備は国を守る力の半分に過ぎず、残り半分は情報(インテリジェンス)である。日本には、対外情報組織はないに等しく、情報サポートのない軍備は、子供が立派な真剣を振り回しているようなもので、ものの役にはたたない。ミッドウェーに向かう大日本帝国海軍は、暗号を解読されたことで、壊滅的打撃を受けたが、それはインテリジェンスの差であった。きちんとした在外情報機関があった戦前であってすらインテリジェンスで敗北したのに、目も耳も効かない今の日本はそれよりも更に危ういのではないか。

 

憲法9条に平和を謳っているからずっと平和でいられると思い込んでいる国は、中共侵攻前に「話せば中共もわかってくれる」と唱えていたダライラマのチベットにも似ている。そういうのもマインド・コントロールと呼ぶのではないか。

 

国が危ないのは、原発や放射能や経済や政治もさることながら、人心が危ないことを云う。

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最後の審判はなぜあるのか

2022-10-23 21:05:08 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎かつて死んだ者も生きている者も

 

最後の審判というのは、人間が死後中有において、閻魔大王の前で個人的に生涯の善悪の軽重を確定させられて、天国や地獄に行くイベントではなく、この世の生きている人のみならず死んでしまった人すべてが再度呼び出されて、みんなまとめて裁きを受けるもので、キリスト教にある。

 

『よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

 

そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』

(ヨハネによる福音書5章25~29節。)

 

『また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。

 

かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。

 

それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。』

(ヨハネの黙示録20章11~15節)

 

『死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。』とは、凡夫の耳も菊の年であって、誰も彼もが切羽詰まって神を祈る時期。

 

これはイエス存命中には起こらなかったが、起こるのは今の時代だろう。我々と全然関係なさそうな過去の死者が呼び出されるというのが注目ポイントである。

 

最後の審判はキリスト教だけでなく、似たようなのがゾロアスター教にある。

 

ゾロアスター教では、歴史は3区分であり、第一期創造、第二期混合(善悪が混じり合っている意)、第三期分離(善悪が分離する意)。

 

第三期の始めに善と悪は分離し、悪は永遠に撲滅される。このイベントがフラシェギルドと呼ばれ、最後の審判に該当し、この時歴史は終結する(北欧神話でも歴史の終わりは似たようなものだ)。

 

チベット密教では、中有(メーノーグ)の中で個人の審判が為されるが、中有とは善と悪が混じっている状態。善と悪が混じっている状態は、ゾロアスター教では、最後の審判フラシェギルドまで続き、この時天国に行った者も、地獄に落ちた者も一旦大復活を遂げる(大地は死者の骨を引き渡す)。

 

そこで復活したものも、生きている者も、まとめて善と悪とが立て分けられる。邪悪な者は第二の死を迎えて地上から消滅するであろう。その後人間は不死者となって地上の神の王国を満喫する。

(参考:ゾロアスター教 3500年の歴史/メアリー・ボイス/筑摩書房P37-42)

 

これらは、アトランティス滅亡時に、次の1万2千年を見据えて準備した神話の一つであろう。ここ1万2千年は、善悪の入り混じる中有(バルド)的世界だったが、ここで善のみの至福千年に切り替わる。その際に、生者の世界は、善人のみに切り替わるが、生者は、毎度死の世界から出てきて死の世界に帰って行くことを見れば、死の世界に残された煉獄なる中有の住人や地獄の人々も一掃しなければ、世界全体の至福千年は完成しない。よって死者向けの最後の審判イベントがある。

だが、この説明はとても人情味に欠けた話ではある。

そういう話を生者向けにする必要があったのだろうか。

 

またこの最後の審判説はマンツーマン輪廻を否定している話でもある。

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平和ぼけと悲惨の同居

2022-10-23 06:21:48 | メインストリーム予言と先行モデル

◎ふつうの観光客の行けないところ

 

これは、モロッコの話。

『福永

盲女がいちばん女性としての純粋さ、美しさを発揮 するという考え方は、中国の広東にありますね。六祖慧能の郷里です。広東では少し容色のすぐれている女性は、小さいときに目をつぶすわけですね。そして盲妹というのに仕立てる。

 

古田

そうですか。それに関連があるかもしれませんね。 入矢

ええ。かもしれませんねえ。

 福永

われわれ男性の側からいっても、女房がめくらであったらどんなに美しく純粋であろうかという気もときどきしま すが(笑)。

 

 入矢

いまの話で、ちょっと余談になりますけども、昨年聞いた話で、中身はひどい話です。アフリカ航路に乗り組んでいる船員の話です。たぶんモロッコだと思いますが、はっきりとは港の名前はおっしゃらなかった。そこへ碇泊して、なじみのモロッコ人に案内されて、ふつうの観光客の行けないところへお連れするといわれて、入り組んだ奥のほうの酒場に行き、お酒をごちそうになっていい機嫌になって日本の民謡をその人が歌いだしたら、四人の一見して日本の女性が、しかも全部めくらで、奥のほうから現われて、懐しい日本の歌を聞いたと身の上を明かしたそうですが、ある女子短期大学の学生四人で旅行している間にさらわれて、そういうところに・・・・。

 

古田

いきなりめくらにされたんでしょう・・・・?

入矢

ええ、いきなりまず目を・・・・それは逃亡を防ぐ意味と、いま福永さんがおっしゃった意味と両方あるわけです。 無残な話です。』

(日本の禅語録 2  道元の別冊付録の「鼎談 日本禅と中国禅」(福永光司、古田紹欽、入谷義高)P7から引用)

 

これは、一休の愛妾の盲目の森女から発展した話題。

海外にいるとこうした話題は耳にすることがあるもの。女性が世界を闊歩する時代になって、女性マッチョ・ヒロインが映画でもどんどん登場しているが、

女性を社会的に平等と見ているのは先進国だけである。例えば中国の中央政治局常務委員会には女性はいない。

 

発展途上国では、一皮むけば女性への蔑視、残虐が広がっており、日本人女性が、そういう場面に巻き込まれることはあるものだということは、このモロッコの話のように密かに伝わることがあるが、裏が取れないのでマスコミには出ない。

弱者、女性への蔑視、残虐は、先進国では、まだまし。

 

万人が悟りを開く時代が言われて久しいが、それは先進国においての話であって、発展途上国では、そうとは言えまい。まず人は自己実現をある程度成し遂げて後、ようやく道を求める気運になるものだからだ。男女とも同等に働くことが認められ、平和に老いていくことがある程度保障される社会でなければ、日々冥想して人生の不条理と理不尽を越えていくという社会慣習はできてこないのではないか。

 

また全国家が先進国になるわけではないから、世界70億の万民が同時に覚醒するかと言えばそうではないのだと思う。

 

2022年10月22日に開かれた中国共産党大会の閉幕式で、習近平総書記の隣で最前列に座っていた胡錦濤前総書記が突然強制退席させられたらしい異例の一幕があった。

権力闘争が激しい国家の隣に世界でも異例の平和ぼけ国家がある。香港の次は台湾、その次は日本と言われている。平和平和と唱えてばかりいて亡国となったチベットの先例もある。

 

仮に日本がそういうシーンを迎えるのであれば、それを幻視する人も続々と出てくるのではないか。そしてそれは自分でも感じとれるはずでもある。

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