アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想体験としての老子

2022-10-20 20:43:35 | 老子neo

◎老子第16章 致虚極

 

「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ、万物並び作(おこ)れども、吾れ以てその復るを観る。」

 

これは冥想体験そのものと見ることもできる。

 

「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ」とは、冥想の一つの目標である想念停止をイメージしているように見える。

死のプロセスの中で呼吸が止まれば想念の動きも停止し、『原初の光』を見ることになる。

つまりこの「虚を致すこと極まり」の部分は、呼吸、好き嫌いの感覚、情動、想念まで停止した死のプロセスと似た状態が、老子の冥想体験の中で発生したことを指しているようにも読める。

 

そして、その深い三昧の先に、「万物並び作(おこ)れども、吾れ以てその復(かえ)るを観る。」とは、あの世のあらゆる事物が生成しては、崩壊、滅亡していく姿を時間軸、空間軸をまたいで鳥瞰することができるポジションに進んで、次にそれらが一つのタオというポイントに帰っていくのを見るという意味にとれる。

 

※老子第16章の和訳

万物が並び作(おこ)っているこの現象の姿がしかも同時にまた無へ帰っているそれであることを観ることができるというのである。まことにすべての草木がそれぞれに繁茂しているけれども悉くそれは、その根に帰ることをしているのである。

 

この根に帰るのを(乃ち無に帰して行くのを)静というのである。そしてこの静に帰ることをあるべき自然の姿にもどると謂う。人が命に帰るのをまた古今変わりなき本来の姿という。この本来の姿を知ることを明と呼ぶ。

 

人があるべき本来の姿を知らなければ、必ずみだりに物事に動作して、不幸な目に会う。本来の姿を知ったならば、すべてを無為として容れることができる。このようになる時すべてを無為として受容すれば、真に公平無私である。

 

このように真に公平無私でありえたならば、それは王足り得るのである。王足り得たならば、それはまた天そのものである。天そのものであったならば、それはすなわち道である。

 

道であったならばそれは永遠である。だから身を没するまで、あやういということがない。

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公案のメカニズム

2022-10-20 20:22:55 | 丹田禅(冥想法8)neo

普通の人はまず公案なんて知らないし、禅語録なんて読みもしない。そこでまず公案クイズの紹介。

 

◎両手を合わせて打てばポンとなるが、片手ではどんな音がする?(隻手の公案)

◎釜の中から富士山を取り出して見てください。

◎仏とはなんですか。    

 回答例:1200グラムの麻です。(洞山)

   (なぜそういう回答になるかが公案)

◎仏法の意味はなんですか 。

 回答例:(棒で質問した人をぶんなぐる。)(黄檗)

   (なぜそういう回答になるかが公案)

◎仏法の大意は何ですか。  

 回答例:(かあっーーーーと怒鳴る)(臨済)

   (なぜそういう回答になるかが公案)

 

これら公案は、日常生活ではまず起こらないような、しかも常識では解けない、また相当に深い思索によっても解けない問題が多い。

そしてこれらの問題には唯一の正解があることを前提に考え抜く。

 

様々な公案を解く努力の中で、知性による方法論は、結局人間のさまざまな欲望に使役され、その欲望満足という仮に構築された実用性の中で成立していることに気づく。そして、実用性を超えた絶対に至るためには、最後には知性は全否定される運命にある。

 

公案の与える知的洞察は、言葉と知性によって構築されるのであるが、純粋経験と呼ぶべき見性(本来の自分を見ること。見仏。宇宙意識をちらっとでも見ること。悟りの一種。)にまで昇華される必要がある。その結果知性や分別的立場は、全面否定され、喝や棒という根源から来る一撃によって粉砕される。

 

公案での思弁のように、知性がその限界を見切るような動きになる時、知性は知性自体の力によって自滅し、深遠な智慧としてよみがえる。その智慧とは、究極・宇宙意識の一属性(七チャクラの属性の一つ)である「智慧」である。

 

一般にジュニャーナ・ヨーガ(知性のヨーガ)はその時代の固定観念を破壊する。

20世紀ではクリシュナムルティの思弁がそうであったように、古代ではソクラテスの対話もそうであった。また禅問答もそのタイプの思弁であった。

 

そしてテレビ、スマホを始めとする洗脳メカニズムは、そういったまともな洞察に与えるエネルギーを消耗させる形で機能している。

 

大東亜戦争から復員してきた人が禅寺に入って早々、住職から「公案など役には立たないかもしれませんが・・・」などと言われることがあったほど、戦争の現実は容赦ないものであったろう。同様に、現代を生き抜くのも全身全霊の努力を必要とするものであるから、現代も実は、戦争中並みの理不尽、不条理の嵐の連続であって、これを「生きる現実そのものが公案となっている」と言えよう。

そこで現代では、「公案禅」ではなく、いわばスワジスターナ・チャクラ(丹田)強化onlyの「丹田禅」となるのである。

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依り代と審神者

2022-10-20 20:18:47 | 古神道の手振りneo

◎依り代から見神へ

 

チャネリングでは、憑依される人である依り代の浄化度が真っ先に問題にされる。だが、依り代の持つ定めとして、大神が憑依している間のことは依り代本人には自覚がないという問題点がある。

 

神を知るには、三種あり、神に憑依してもらう、神を見る、神人合一だが、大神の憑依も立派な神を知る技ではある。古神道では、冥想法を総称して鎮魂帰神と云うが、帰神の方が憑依である。

 

そうは言うものの依り代本人には自覚がないというのは、如何にも頼りないもので、周囲の質問者にとっては、依り代本人は誤りのないご託宣を伝えてくれるありがたい人物だが、大神の憑依していない時間帯はどんな様子なのだろうと思う。

 

そこで「そのような高級チャネラーもやがて依り代から脱皮して自ら意識しながら神とコンタクトする方向に一歩踏み出すものだ」と、出口王仁三郎が明かしている場面がある。

 

これによれば、チャネラー出口ナオ教祖は、明治二十五年より大正五年まで大チャネラーであって、その間見神はしなかったが、その後見神したのではないだろうか。彼女は大正7年没。

 

一方出口王仁三郎(女子)は、チャネラーは明治三十一年から2年間だけで、以後は見神(見真実)したと述べている。これは出口ナオ(男子・教祖)より18年早かったなどと言わずもがなのことを述べている。

 

『私はもはや止むに止まれない場合に立到つたので、露骨に事実を告白しておきます。要するに教祖は、明治二十五年より大正五年まで前後二十五年間、未見真実の境遇にありて神務に奉仕し、神政成就の基本的神業の先駆を勤められたのである。女子は入道は明治三十一年であるが、未見真実の神業は、同三十三年まで全二ケ年間で、その後は見真実の神業である。霊的に言ふならば教祖よりも十八年魁けて、見真実の境域に進ンでゐたのは、お筆先の直筆を熟読さるれば判りませう。』(霊界物語 第7巻総説より引用)

 

そうでなければ、出口王仁三郎は、審神者をできるものではない。

 

人間には浄化が必要だが、それを求め窮めて大道に進むルートと、浄化を言わず煩悩のままに、この身このままで悟ると表現するケースがあるが、よくよくその意味の違いを疑ってみるべきだろう。

 

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スーパーチャネラー-2

2022-10-20 20:14:40 | 超能力・霊能力neo

◎出口ナオ-2

出口ナオは、学歴が無いので字は書けなかった。

1893年 大槻鹿造(長女の夫)はナオを座敷牢に40日間閉じ込め、ろくに食べ物を与えなかったので、ナオは神に教えられて、掌をしゃぶって、ひもじさをしのいだ。その時ナオは神の命ずるままに落ちていた古釘で柱に文字らしきものを柱に書きつけた。これがお筆先の始まりとされる。後に和紙に墨のスタイルのオートライティング(自動書記)が主流となった。

                                       

出口ナオにかかった神は、『艮の金神』(うしとらのこんじん)。これは、陰陽道でいう、鬼門の祟り神で、人格神としてはトップクラスの神。ところがこれは、大神(唯一神)の働きのことを言っており、『艮の金神』とは、『はじめの神』であり、『とどめの神』であるとしているので、実は、唯一神である。

艮の金神の主張は、世界の刷新(立替え立直し)を行い、千年王国(万劫続く松の世)を築くことであった。

《参考:大本神諭 天の巻/東洋文庫》

 

出口ナオは、後に日清戦争、日露戦争を予言することになるスーパーチャネラーである。

通常ここまで高い神霊がかかるのは、日常生活を完全に捨てた修行専門の環境で、修行できた者が多いが、ナオは、主婦の生活を通じて、このような高いレベルの神がかかるまでの境地に達したというのは稀有なことである。

 

つまり、唯一神のバイブレーションを直接に受け取ることができるほどの精妙な感受性があったことと、それを夾雑かつ理不尽な家族関係と、極貧で困難な生活な生活の中で、維持し続けたことこそすばらしいことだと思う。

 

修道院生活を続ければ、神を見ることは比較的容易とも言えるが、それを騒然とした邪境とも呼ぶべき日々の生活の中で維持することは極めて困難なものなのである。だからこそ出口ナオの境地は評価される。

 

日常生活で、ここまで、これでもか、これでもかと、理不尽、不条理な出来事に迫られても、それを逃げることなく、見つめることができなければ、霊界の最上位クラスの神霊がかかるものではない。

 

通例ここまで苦労した場合、人を恨み、世を恨み、神を恨み、自分の身を呪うというパターンに陥りがちなのであるが、そういうこともなく、真正面から生活に取り組み続け、発狂することもなく、ほとんどその悪業が消し尽くされ、純粋な空っぽの入れ物になったからこそ、唯一神が、かかったのだろうと考えられる。

これが窮極の霊媒の姿である。

 

『口と心と行いと違わぬものでないと、この神の御用は聞けんぞよ、誠を貫くものでないと、神のお取次はできんぞよ、我が身がかわいいようなことでは、このお取り次ぎはできんぞよ』《大本神諭》と、利己心がないのが必要条件となっている。

 

キリスト教に『召命』ということばがある。「神の恵みによって神に呼び出されること。」である。大本神諭にもナオが召命を受けたことを意識している表現がある。『艮の金神の御用聞かせるのは、我のあるくらいでないといかず、(略)』とそのメッセンジャーになるためには、「自分」というものがないと駄目だと言っているのである。

はからずも「チャネラーは、自分というものを捨ててはチャネラーになり得ない」と説明しているのだ。また神の側から、ナオがチャネラーとして適した者として、召命したのである。

                        

というわけで簡単な神事とかトレーニングを経ただけでチャネリングできる場合、その霊や神の高さは、十分に怪しいことが推測されるのである。

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スーパーチャネラー-1

2022-10-20 20:11:39 | 超能力・霊能力neo

◎出口ナオ-1

 

日本の代表的チャネラーと言えば、まず出口ナオ。

神様におもちゃにされたとしか思えない境遇の中で、発狂せずに生きてきたというのは、それだけで、常人にはできないことであり、生活そのものが、禊(みそ)ぎに見える。

 

出口ナオ(1837-1918)は、大本教の開祖である。

ナオは、天保の大飢饉のさなかに京都府福知山の貧しい大工の家に生まれた。

9歳で父を失い、住み込み奉公を続けて、出口家の養女となり、18歳で四方豊助を夫に迎えた。

夫は腕の良い、お人好しの大工で、酒好きの浪費家であった。幕末、出口家は次々と田畑・家屋を手放して、没落を続けた。

 

ナオは、47歳までの25年間に11人の子を産み、そのうち8人が成人した。

夫妻は子供が10歳になると、次々に徒弟や住み込み奉公に出したが、大工仕事のわずかな収入では、夫の浪費に追いつかず、1884年には、一家は破産、夫も脳卒中になり、ナオは饅頭屋を開いて細々と生計を立てた。翌年夫は仕事場で重症を負い、そのまま病床に伏してしまった。

 

その頃長男の竹蔵は、大工の徒弟に出ていたが、仕事のつらさに堪えかねて、ノミでのどを突き、重症の身で実家に帰って来た。ナオは二人の重病人をかかえ、三人の幼児を育てるために、重労働のボロ買いや糸引きの賃仕事で生活を支えなければならなかった。

 

1887年夫は病死し、ナオは51歳で未亡人となった。

長男は傷が癒えると家を飛び出し、行方不明となった。

次男清吉は兵隊にとられた。

長女よねは農家へ嫁いだが、半年でばくち打ちの大槻鹿造の許に出奔した。

次女ことは、家の貧しさに堪えかねて、姉よねのもとへ逃げ京都に出た。

三女ひさは、人力車夫福島寅之助に嫁ぎ、夫妻で金光教を信仰していた。

家には幼い四女りょうと五女すみがいた。

 

更に1890年9月三女ひさは、産後の肥立ちが悪く、逆上して暴れ出したため、座敷牢に入れられて、しばしば神の幻影を見るようになった。続いて1891年11月長女よねが発狂した。よねの発狂ぶりは特に激しく、家の前に見物の人が立つほどであった。

 

このように当時にあっても稀なほどの苦労をした。

 

ナオは、1892年2月に初めて激しい神がかりになり、それからチャネリングをはじめるのである。

    《参考:大本神諭 天の巻/東洋文庫》

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真の幸福とは何か-6

2022-10-20 06:27:22 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ニルヴァーナと幸福感

 

ダンテス・ダイジは、人間が悟りを得るルートは、禅の無字や隻手などの公案で入る知のルート、情から入る「弥陀の本願に救い摂らせ参らせる」などという念仏などの情のルートがあるという説明をしているシーンがある。

 

人間が感じる幸福感というもので比較すると、情動の行動に与える影響は圧倒的であるから、情のルートが知のルートよりもまさる。だが、ニルヴァーナでの幸福感は、そうしたものの何兆倍とでもいうべきものだと、未体験者にとっては非常に説得力の薄い話を敢えてしている。

 

このニルヴァーナでの幸福感は、まことに名状しがたく、筆舌尽くしがたいものであることをアヴィラのテレサも述べているので、そういうものだが、追体験しない限り、是認しがたいものであるとわきまえるしかないのだろうと思う。

 

翻って、快感、あるいは幸福感のためにニルヴァーナを求めるのは、体験至上主義であって危ういところがある。なぜならばニルヴァーナは、体験ではない体験であるから。修行者の立場で言えば至高の体験を求めて道に入るが、最終段階では結局体験する者がいなくなるからである。

 

シャーマニズム、神下ろしで言えば、主神が降臨したとしても、シャーマン自身は、その時何が起こったかはわからないままであるという現象があることは参考にすべきだろうと思う。彼ら彼女らは、最後まで見ている自分を棄てられなかったと言われる。

 

出口ナオは、主神を降ろせる優秀なシャーマンだったが、何が起こったかをわかるようになったのは晩年近くだった。

 

その快感、幸福感は、言葉ではとても表現できるものではないが、それを体験した者からは、その感動、そのバイブレーションが伝わってくるものだ。

 

そしてニルヴァーナ体験者は、見たり感じたりしただけの人(禅の十牛図でいえば第三図)と神人合一した人の二種に分かれるが、見たり感じたりしただけの人は、まだ見ている自分が残っている。

 

冥想修行者の立ち位置としては、ニルヴァーナには、幸福感、絶頂感というものが伴うが、体験とは言えない体験であるがゆえに、そこだけを求めるわけには参りますまい。

 

また世間的には、無駄なもの、効果のないもの、メリットのないものの一つが、ニルヴァーナ、神、仏なのである。

世界宗教にあっては、それでは信者が集まらないので、うまいことを言って信者を集めるものなのだが、真相を見る目のある人は少ないが、いるものなのだろうと思う。

 

真の幸福とは、社会的な自己実現ではなく、感覚的満足感でもなく、人が神と共に生きることにまちがいないと思う。

 

ダンテス・ダイジは、布教した約10年の最初のうちは、ニルヴァーナを目指さなくてもよく各人が各人らしいライフ・スタイルを発見することでも十分だということを主張している時期もあった。だがやがて、そんな悠長なことは言っていられないと気づき全員がニルヴァーナを求めるべきだという主張に変わった。

 

さて、今まさに世界は一斉に全面核戦争の準備を始めた。今日も冥想を。

 

それを伺える相の数々。世界は一斉に熱核戦争に向かっていると見える。

○ CIA: Central Intelligence Agencyの公式instagram(10月14日)に東京はエリアに38百万人以上が集積する大都市だという思わせぶりかつ意図が怪しい記事が出た。

○ロシアはウクライナで核を使う可能性を言及しているが、2022年10月後半NATO14か国はSteadfast Noon作戦という核即応演習を実施する。米国から核爆弾シェアを受けている国が数か国あってそれが演習に参加するらしい。

○英国トラス首相は、2022年8月24日まだ外相だったが、Times Radioのイベントで「地球滅亡を引き起こす可能性があっても核兵器による報復を命じる覚悟がある」と示唆した。

○2022年10月16日、習近平国家主席は共産党大会冒頭の演説で、台湾を統一するためには武力行使も排除しないと表明した。

○アメリカのアントニー・ブリンケン国務長官は、同17日、中国が以前の予想より「はるかに速いスケジュールで」台湾の統一を目指していると述べた。

ブリンケン氏は、中国政府が現状をもう受け入れられないと判断したとした。

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