アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

プロティノスの窮極体験

2022-10-08 16:46:33 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎体外離脱から神人合一

古代ギリシアの哲学者には、ソクラテスやヘラクレイトスなど、窮極を知っていたと思われる哲人が輩出しているが、プロティノスもその一人。

プロティノス(Plotinos, A.D.204- 269)は、エジプトのアレクサンドリア生まれの哲人。プロティノスは、最近はさっぱり読まれなくなったが、久松真一や西田哲学隆盛なりし戦前には、随分と読まれた形跡がある。

 

彼の神人合一体験は、体外離脱から語られるのが特徴的である。

『私はしばしば肉体(の眠りを)脱して(真の)自己自身に目覚め、他のすべてのものから脱却して私自身の内部へとはいりこみ、ただただ驚嘆すべき素晴らしい美を観ることがあるが、この時ほど、自分が高次なるものの一部であることを確信したことはなかった。

その時の私は最善なる生を生き、神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ、あの最善の生命活動を通して他の一切の知性的なものを超えたところに自らを据えていたのである。』

(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P322から引用)

 

「ただただ驚嘆すべき素晴らしい美」は、プラトンが言うイデア界のことであろうから、不変の世界、第六身体アートマンのこと、「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」とは有の世界のことであるから、不壊の神の世界である第六身体にとどまっていると思われる。

 

この「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」という言葉は、我と神が合一している状態の表現としてはそのようなものだろうかと思う。

 

『しかるに、全く単純(単一)なものに対しては、どのような逐次的思考が(有効で)ありえようか。否、英知的に触れることだけでも、十分なのだ。そして触れた人は、触れている時には、かのものについて何も言うことはできないし、その暇もない。ただ後になって、それについて考えてみることはできるが。

そして人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。そして、ちょうど他の或る神が、だれかが勧請した時に、家へ入って照らすばあいのように、かの者が(魂を)照らした時に、その時こそかの神は(魂に)現前しているのだ、と人は信じなければならない。

さもなければ、神はそもそも来もしなかったので、(家を)照らさなかったわけだ。同様に魂も、光に照らされていない時には、かの神を欠いているのである。

しかし、照らされた時には、魂は自分が求めていたものを持っているのだ。そして、これこそが魂にとって真実の目的(完成)である。すなわち、あの光に触れること、そしてそれ(あの光)でそれを観ることが、他者の光でではなく、魂がそれで(諸有を)見るところのまさにその光を(その光で観ることが)。なぜなら、魂がそれで照らされているそのもの(光)、これこそが観られねばならぬものなのだから。なぜなら、太陽にしても、他のものの光で(見られるの)ではないのだから。

では、どうすればそのことが成就するのだろうか。

一切を取り去れ。』

(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P449-450から引用)

 

『人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。』という部分は、最高者たる神により、神自身を見ていることがわかる。この段階の、神人合一の際に、見ている自分は、『自分は見たのだと信じなければならない』と言い聞かせなければならないほど怪しいのだろう。荘周胡蝶の状態である。

 

弟子のポルフィリオスによると、プロティノスは、生涯に4回ほどエクスタシーに入ったと言われる。また肝心の冥想方法については、只管打坐型でなく、クンダリーニ・ヨーガ型のように思われる。というのは、ダイレクトな体外離脱の表現に加え、プロティノス伝の11にあるが、彼を敵視するアレクサンドリア出身のオリュンピオスが魔術でプロティノスを攻撃してきた際に、それを不成功に終わらせたほどの霊能力を有していた模様だからである。

 

最後の『一切を取り去れ』は、自分と自分の宇宙をすべて捨てなさいということ。

 

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アヴィラの聖女テレサのエクスタシー

2022-10-08 16:46:33 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎天使に槍を突きさされる

 

アヴィラの聖女テレサは、全世界を一望のもとに世界を見渡す経験をするほどの精神的高みにあるけれども、女性としての至福という色彩が色濃く残る、官能的な印象がある絶頂体験も経ている。

 

聖女の法悦(ピーク・エクスペリエンス)にも二種類あって、一人の人間としてのエクスタシーと、一人の女としてのエクスタシーの二種類があるように思われる。どちらのケースであっても、神が結婚相手として現れることがあるが、その結婚の描写の仕方は、著しく異なるものであることがすぐわかる。

 

このことから、男性にとって至福と言った場合、常に絶対なるものへの探求、すなわち宇宙意識(タオ、仏、神)そのものが常に念頭にあるのに対し、女性にとっての至福というテーマは、求める相手を男性とする至福と、求める相手を宇宙意識に据えた至福の二種類に分かれるように見える。このことは、女性にとっての人生の目的が、もとより男性とは異なるものであることを、象徴していることの一つであると思える。

 

『有名な例にアヴィラの聖女テレサがある。改革カルメル会の修道女テレサは、ある日の神秘体験を次のように書き残した。「私は、すぐそばに、左側に、肉体のある天使を見ました。(・・・)背は高くなく、小さくてとても美しく、顔は炎に包まれたようで、愛に燃えた天使の中でも最も高貴なように思 えました。名乗りませんでしたが、多分ケルビム(智天使)だと思います。(・・・) その天使が、手に長い黄金の投げ槍を持っていました。その先は鉄で火がついているようでした。彼は槍で私の心臓を貫き、はらわた深くまで突き刺したようでした。それを抜いたときはまるではらわたが一緒に抜かれたようで、私は全身が神の無辺の愛で沸き立つ思いでした。苦痛があまりにも激しく、うめき声をあげずにはいられませんでした。けれどもこの比類のない責め苦によって引き起こされた甘美さが強烈だったので魂はそれが終わることを欲さず、神の外では何ものにも満足できなくなっていました。』

(聖者の宇宙/青土社/竹下節子P199-200から引用)

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オルガスムの法則

2022-10-08 16:44:34 | 【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo

◎エーテル体レベルでの現象

 

ライヒの説くオルガスムの法則とは、緊張→荷電→放出→弛緩。特に性器の構造から説明すると、

 

『1.器官が流動的で充満する。つまり機械的な緊張による勃起が起こる。

 

2.これが強度な興奮に発展する。わたしは、この興奮を電気的性格をもったもの。つまり荷電と仮定する。

 

3.オルガスムにおいて荷電および性的興奮は、筋肉の収縮によって放出される。これを電気的放出と名付ける。

 

4.それに続いて、からだの流動体のながれが逆になり、性器の弛緩が起こる。これを機械的弛緩と名付ける。

 

この四拍子、つまり機械的緊張→荷電→電気の放出→機械的弛緩のことを私は「オルガスムの法則」と名づけたのである。』

(オルガスムの機能/ライヒ/太平出版社p371から引用)

 

性愛のオルガスムに至るプロセスの中で、クライマックスに達し、リラックスに至る一連の流れが、肉体的興奮と電気的荷電の双方において、並行して発生していることをライヒは直観した。

 

ライヒは、皮膚電位の差などから、二人の肉体表面の電位差からイオンが発生して、その電気的荷電は、性器と腹部に最初に起こり、段々性器に集中していき、蓄積され、オルガスム時に電気的荷電が放出される。つまりオルガスムは、電気的放出であるとしている。

 

ライヒは、電位差などの理論を引いて、その妥当性を懸命に説明しようとしている。周知のとおり、エーテル体と電気は密接な関係があるから、ライヒの仮説は、結果として科学になり得なかったのであるが、大きな発展性を持つ着眼だったように思う。

 

というのは、生体エネルギーであるオルゴンが、生体エネルギーの源泉であり、その展開の代表的パターンがオルガスムであるという心証を持っていたからである。単に、セックスの時に二人の間に電気が発生するだけのものではなく、個生命のエーテル体レベルでのエネルギー交換・エネルギー運動ではないかと見ていたところである。

 

おそらくは、同一の着眼点から、房中術があり、タントラの性愛術が成立しているのだと思う。

 

また心理面での原則として、快楽が拡張に相応し、不安が収縮に相応することも指摘しているが、これまた科学的な証明は簡単ではない。

 

※イオン:原子あるいは分子が、電子を授受することによって電荷を持ったものをいう。電離層などのプラズマ、電解質の水溶液、イオン結晶などのイオン結合性を持つ物質内などに存在する。

(ウィキペディアから引用)

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人と神の「実際のところ」-3

2022-10-08 07:06:35 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-3

 

(原文3)

『私はエクスタシーである。

だからして、

私が死ぬ時

神に返さなくていいものが一つだけある。

「神様、ああ、あなたは私だったのですね」という自覚。

 

それは、そうと思えばそう思える。

こうと思えばこう思える。

すなわち『絶対の孤独』ということだ!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

エクスタシーというのは、一般にトランスの先に見当識まで失ってしまうことを言うのだろう。またトランスと言えば、文化人類学のシャーマニズム研究だったり、テクノポップ&ダンス、催眠、自己催眠、憑依、PTSDで発生したりするが、人類の冥想の伝統では、トランスに遥かな無限の広がりを見据えている。

 

そこで『私はエクスタシーである』という場合、いわゆるpeak experienceのことを指している。世間では、それを心理的肉体的経験と思い込んでいる場合が多いが、それは、体験とは言えない体験を指す。

 

古代ローマの哲人プロティノスは、生涯に四度エクスタシーに入り、クンダリーニ・ヨーガの究極を極めたと思われる。

 

20世紀の聖者クリシュナムルティは、『思考と感情が良く育ち、そして死んでいくとき、瞑想は、時間を超えた動きになります。この動きの中にはエクスタシーがあります。』と瞑想中のエクスタシーの可能性を述べる。

 

またエクスタシーには、男女の差があることも見え隠れし、女性神秘家のエクスタシーの評価は、ニルヴァーナなのかエロティシズムの方なのか見極めが必要と思う。

 

トランスからエクスタシーに至るとは、心理的には、無意識の世界から悟りに至る道のこと。それには無数のバリエーションがあり、基本パターンを発見するのは至難ではあるが、ウィルヘルム・ライヒが、オルガスムの法則というのを出して来ており、それが将来参考になるのではないかと思う。

 

さて『私が死ぬ時』は、肉体の死ではなく、自我の死。神様が私だったのなら、返すも返さないもない。だが、その先に思いもよらぬ孤独が待っている。

 

神様が私で、私が神様であれば、家族も群衆も大衆も他人も、金持ちも貧乏人も、いじめも虐待もなく、『絶対の孤独』がある。『絶対の孤独』については、聖者、覚者はなぜか言及することは少ないが、統合失調症の人の述懐で出てくることがある。

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