◎体外離脱から神人合一
古代ギリシアの哲学者には、ソクラテスやヘラクレイトスなど、窮極を知っていたと思われる哲人が輩出しているが、プロティノスもその一人。
プロティノス(Plotinos, A.D.204- 269)は、エジプトのアレクサンドリア生まれの哲人。プロティノスは、最近はさっぱり読まれなくなったが、久松真一や西田哲学隆盛なりし戦前には、随分と読まれた形跡がある。
彼の神人合一体験は、体外離脱から語られるのが特徴的である。
『私はしばしば肉体(の眠りを)脱して(真の)自己自身に目覚め、他のすべてのものから脱却して私自身の内部へとはいりこみ、ただただ驚嘆すべき素晴らしい美を観ることがあるが、この時ほど、自分が高次なるものの一部であることを確信したことはなかった。
その時の私は最善なる生を生き、神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ、あの最善の生命活動を通して他の一切の知性的なものを超えたところに自らを据えていたのである。』
(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P322から引用)
「ただただ驚嘆すべき素晴らしい美」は、プラトンが言うイデア界のことであろうから、不変の世界、第六身体アートマンのこと、「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」とは有の世界のことであるから、不壊の神の世界である第六身体にとどまっていると思われる。
この「神的なものと(完全に)合一してそのなかに自らの居場所を与えられ」という言葉は、我と神が合一している状態の表現としてはそのようなものだろうかと思う。
『しかるに、全く単純(単一)なものに対しては、どのような逐次的思考が(有効で)ありえようか。否、英知的に触れることだけでも、十分なのだ。そして触れた人は、触れている時には、かのものについて何も言うことはできないし、その暇もない。ただ後になって、それについて考えてみることはできるが。
そして人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。そして、ちょうど他の或る神が、だれかが勧請した時に、家へ入って照らすばあいのように、かの者が(魂を)照らした時に、その時こそかの神は(魂に)現前しているのだ、と人は信じなければならない。
さもなければ、神はそもそも来もしなかったので、(家を)照らさなかったわけだ。同様に魂も、光に照らされていない時には、かの神を欠いているのである。
しかし、照らされた時には、魂は自分が求めていたものを持っているのだ。そして、これこそが魂にとって真実の目的(完成)である。すなわち、あの光に触れること、そしてそれ(あの光)でそれを観ることが、他者の光でではなく、魂がそれで(諸有を)見るところのまさにその光を(その光で観ることが)。なぜなら、魂がそれで照らされているそのもの(光)、これこそが観られねばならぬものなのだから。なぜなら、太陽にしても、他のものの光で(見られるの)ではないのだから。
では、どうすればそのことが成就するのだろうか。
一切を取り去れ。』
(プロティノス全集第三巻/プロティノス/中央公論社P449-450から引用)
『人は、魂が忽焉として光をとらえた時に、その時に自分は見たのだと信じなければならない。これ(その光)こそかの者から来たのだし、かの者自身なのである。』という部分は、最高者たる神により、神自身を見ていることがわかる。この段階の、神人合一の際に、見ている自分は、『自分は見たのだと信じなければならない』と言い聞かせなければならないほど怪しいのだろう。荘周胡蝶の状態である。
弟子のポルフィリオスによると、プロティノスは、生涯に4回ほどエクスタシーに入ったと言われる。また肝心の冥想方法については、只管打坐型でなく、クンダリーニ・ヨーガ型のように思われる。というのは、ダイレクトな体外離脱の表現に加え、プロティノス伝の11にあるが、彼を敵視するアレクサンドリア出身のオリュンピオスが魔術でプロティノスを攻撃してきた際に、それを不成功に終わらせたほどの霊能力を有していた模様だからである。
最後の『一切を取り去れ』は、自分と自分の宇宙をすべて捨てなさいということ。