◎大物スピリチュアリストとしての聖徳太子
梅原猛によれば、蘇莫者(そまくしゃ)とは、蘇我氏出身の聖徳太子が亡(莫)くなった者だから、聖徳太子の亡霊のことである。蘇莫者は舞楽であり、聖徳太子が最も好んだ曲であり、太子43歳のみぎり、笛をもってこの曲を演奏したところ、山の神が感動して現れ出て舞を舞ったとされる。
梅原猛の、「法隆寺が聖徳太子の不幸な死による怨霊鎮魂寺である説」の重要な根拠の一つが、聖徳太子が亡くなってまもなく法隆寺が建てられ、法隆寺の舞楽「蘇莫者」は聖徳太子の霊を慰めるために当時から舞われていた・・・というもの。
これが法隆寺執事長の高田良信氏によれば、この説を突き崩す次の根拠を示す。
1.舞楽「蘇莫者」が古来法隆寺で舞われた記録がなく、時代は下って鎌倉時代の顕真という寺僧の「聖徳太子伝私記」の尺八の説明の中に、上述の山の神の顕現の話が出てくる。
2.法隆寺の飛鳥・奈良時代の伎楽、平安時代の舞楽面や衣装に「蘇莫者」に関するものはない。
3.舞楽「蘇莫者」は、もともと昭和15年四天王寺楽家の薗家の嫡々相伝であったもので、これを宮内省式部職楽師薗広茂氏より、南都楽所の堀川一郎氏に特に伝授された。これを受けて、昭和16年の太子1320年遠忌に際して、初めて舞楽「蘇莫者」が演じられた。
「蘇莫者」の衣装や面は初めてここで新調されたもので、これ以前は存在しなかった
(出典:法隆寺の秘話/高田良信/小学館)
まあ一般にシャーマン的霊能力者は、死者の鎮魂ばかりやっていることもあって、梅原猛氏も舞楽「蘇莫者」を見て感激した勢いで、舞楽「蘇莫者」を「隠された十字架」に入れてしまったのかもしかれない。
当時は神道と仏教がせめぎ合う時代であって、そのすぐ後の斉明天皇は、道教好き(奈良・牽牛子塚古墳が、道教タイプの八角ピラミッドで斉明天皇陵と特定された)。こうした本当にまともな宗教はどれかと選別しようとする時代環境の中で、怨霊鎮魂というシャーマニズム的な対応を国家を挙げて優先するとも思えないところはある。
ただし、聖者を殺す所業は、その祟りは無視できないものがあり、イエスを殺した某国民は、ディアスポラに苦しんだ。そうしたことを意識すれば、仮に聖徳太子がイエス並の聖人であったとすれば、彼を亡きものにしてしまったリアクションへの対処として、国家事業として怨霊鎮魂をやるというのは合理的対応と言える。
つまりは聖徳太子がどの程度スピリチュアル的に大物だったかという点にかかっているのだが、天台智の師の南嶽慧思の生まれ変わりが聖徳太子という説も中国では広く流布しており、相当な大物だったことがうかがえる。
よって、舞楽「蘇莫者」は古来演じられて来なかったのだが、法隆寺では怨霊鎮魂はやらなかったとまでは言えないのではないか。