アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

孤独と無力から自由へ

2022-10-18 20:37:41 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎あらゆる幽霊を凝視せよ

 

ある人は水子霊だと云い、ある人は狐だといい、ある人は○代前に亡くなった先祖の霊だと言い、ある人は邪悪なバイブレーションだと言い、ある人は単なる曇ったエネルギーのまとまったものだと言う。

 

こうしたものの正体の見分け方を、メキシコのヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥスが説明する。

 

『これからは不思議な亡霊の姿を前にしたら、気持ちをしっかり保って、断固たる態度で凝視するがよい。相手が非有機的存在であれば、それに対するお前の解釈は枯れ葉のように舞い落ちるだろう。もう何も起こらなければ、それはお前の臆病な心が生んだくだらん幻影にすぎん。そもそもそれはお前の心ですらないのだ。』

(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房から引用)

 

非有機的存在とは、霊的存在や、アストラル的生物のこと。

 

実際にカルロス・カスタネダが、自分のことを盟友であると自称する二人の非有機的存在を見つめて見た。

『私は容貌を記憶しようとふたりをまじまじと見つめたが、彼らの容貌は刻々と変化した。見つめる私の気分によって変貌するようだった。

 

そこには思考はいっさい介在していなかった。何もかもが本能的感覚によって導かれていた。長々と見つめるうちに、彼らの容貌が完全にぬぐい去られて、ついに私の前にあるのは、二つの震動する輝く塊だけになった。

 

それら輝く塊には境界がなかった。内部に凝集力があって自らを維持しているように見えた。ときどき平べったくなったと思うと、また垂直方向に伸びて、人間の身長の高さになる。』

(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房から引用)

 

ドン・ファン・マトゥスは、あらゆるものには、減ずることのできない残留物があり、それがエネルギーだとする。そしてカスタネダは、このセッションで、非有機的存在、霊をその本質へ変容させ、自意識を持つ非人格的エネルギーへと変えることに成功し、その本来の姿を見た。

 

ドン・ファン・マトゥスはまた、単なる自分の心理的な思いこみがそんなイメージを作りだしそれを現実の生き物と認識するケースと、他人であるアストラル的生物に出会うケースがあるが、アストラル的生物のエネルギーを直接見ることが人間、つまり呪師であるクンダリーニ・ヨーギにとっては、最重要事項であると評価する。

 

クンダリーニ・ヨーギは、「意識の暗い海」と呼ぶ死の世界で様々なエネルギー体と出会うが、カスタネダの見えた状態が通俗的霊能力者の卒業というべきものなのだと思う。

 

ドン・ファン・マトゥスによれば、この世には600種類以上の世界があり、それぞれの世界と世界への間を移動する場合は時間が非連続となる。これが三千世界の実情なのだろう。

 

慣れていない世界で旅をするのは、孤独と無力感に襲われがちなもので、人の自惚れなど木っ端みじんに打ち砕かれる。我々も病的なほど自己中心的だし、霊なるアストラル的生物も病的なほど自己中心的だからだ。

 

そうした冷厳な世界の中で、戦士であるクンダリーニ・ヨーギは、絶望に陥ったり、発狂したりせずに、勇敢さ、力強さ、謹厳さを失わずに戦い続けられるのは、自分が「無限」(神、宇宙意識、イーグル)とつながっていることを充分に知っているからなのだと思う。

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霊がかりをやめよう

2022-10-18 20:34:24 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎気まぐれな隣人

 

神霊の方では、実のところ我々をどう思っているかというのは、初心者兼野次馬たる我々には関心の高いところである。ドン・ファン・マトゥスの説明では、ここは明快である。彼らは、力はあるかもしれないが、気まぐれで、同情心がないのだ。

 

古代メキシコの呪術師は、神霊を何種類かに分類したが、その中で人間に似ているのが斥候と調査者と呼ばれる存在。その2種は、人間と共生関係を作ることができると考えて、それを盟友と親しみをこめた名前とした。

 

ところが古代メキシコの呪術師たちは、もともと人格など有していない純粋なエネルギーに人間の特性を賦与したり(神々として親しみやすい名前をつけたり)、その神霊(非有機的存在)のエネルギーを利用できると信じた。

 

ところがその神霊は、もともと純粋なるエネルギーであるがため、いかなる努力をも持続することはできないので、神霊によるサポートを期待した呪術師にとっては、しばしばその期待を裏切られることになった。

 

他方、そうではないと考える呪術師のグループもいて、彼らは、神霊と友情を取り結ぶための神霊から人間への要求がいつも法外なものであるため、神霊を人間の親類と見ていながらも、それと友人になることは、無駄だと考えていた。

 

すなわち、神霊も人間もたまたま同じ世界に住んでいるけれど、以下のような理由から、ドン・ファン・マトゥスは、神霊と人間が協力し合って生きることについては、ほとんど無理であると結論づけている。一歩進んで、神霊から来るエネルギーには意味がないとまで断言している。

 

1.人間も神霊も、それぞれに病的なほど自己中心的であり、気むずかしくて、些細なことで腹を立てる。

 

2.人間は彼らを無意識のレベルで知っているが、神霊は人間をはっきりと知覚し、認識している。こうした人間と神霊の意志交換は始終行なわれているが、無意識においてのみである。

 

3.人間は神霊を助けることはできないし、神霊は人間を助けることはできない。

(参考:無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房)

 

この理屈は、古代メキシコの霊的世界だけに通用するものではなく、世界の八百万の神々にも通用すると思う。またこの見方は、出口王仁三郎の守護神霊の見方とレベル的に共通すると感じる。

 

霊がかり好きな人がいるが、霊との相互作用は、マントラ念唱や、向精神薬や過呼吸などと同様に、深い意識レベルにアプローチする方法なのかもしれないが、だからといって人間の絶望や孤独、不安を超越するための確かな方法であるなどと、安易な期待を持ってはいけないと思う。簡単ではないのだ。

 

秋深き 隣は何をする人ぞ (ばせを)

(となりとは、神霊の謂いなるか)

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ヒマラヤ聖者の生活探求

2022-10-18 20:29:25 | 超能力・霊能力neo

◎無私の願望の実現

 

ヒマラヤ聖者の生活探求(霞が関書房)は、最近復刻されたようで、書店で見かけることが増えた。これは、チャネラーであるアリゾナのスポルディング(1953年没)による心霊的な世界観の著作。

 

キリスト教的な心霊観をバックボーンとして、霊界にブッダやクートフーミーやモリヤなど心霊オタクにはよく知られた心霊(大師)の登場する世界観を延々と述べるもの。こうした霊がかりの世界観が好きな方も多いが、そのような高級神霊を頂点とする世界観で本当の「やさしさを超えたやすらぎ」に出会えるというのなら、私はお勧めしないが、それはそれでやむをえないことだと思う。

 

スポルディングは、大師方の平和に満ちた世界観(啓示)に入れば、わざわざ坐禅を組んで三昧に入って大師方と同じ境地を発見し直す必要はないという考え方である。

 

みんなで超能力を開発しようとか、『「私は神である」という真理の内容を完全に悟りきってそう宣言すれば、どんな状態でもたちどころに癒える』と超能力志向だし、ヒマラヤツアーのエピソードでは、大師が思った瞬間に食糧はふんだんに現出するは、豪壮な建物は山中に突然出現するはで、真理を悟って邪悪でなければ、願望実現何でも思いのままという立場である。

 

ところが、私の見る限り、釈迦もイエスも、自分の肉体ですら「思いのままの快適な状態であることを維持し続けたから、それが真理を体現している証拠だ」などということは主張しなかったように思う。イエスが『今、ここが聖なる地である』というのは、身体に傷があったり、持病があったり、金や住居に困っていても、それでも本来人間には何一つ欠けることがない幸福そのものであるという意味だと理解している。

 

何か世俗の願望を叶えることが、人間にとって幸福であり、その幸福を得るためにはヒマラヤの大師たちの唱える真理を信じて、今の自分ではない別の『光輝く別の自分』になろうというのは、私の見方からすると危うい迷路に入りやすいルートであるように思う。

 

大方の人は、毎日の生活の中で思い通りにならない願望があって、その願望が実現しない苦しみというものを抱えているものだ。その願望を叶えようとして、ヒマラヤ大師や街のチャネラーの「神様」や新興・既成宗教の門を叩くこともあるだろう。

 

だからそうした人に、最初から「自分の願望を実現しようとして宗教的なものにアプローチすることは間違いである」などと反論してみせても、だれも聞く耳は持たないのであるが、「それはちょっと違うよ」とささやいておきさえすれば、いつかは気がついてくれることがあるかも知れないと思う。

 

真相はむしろ、願望にもいろいろあって、本当の自分の願望が何かを自分で気がつくためには、冥想などの宗教的トレーニングが必要であって、その結果本当の無私の願望が洗われ出てくる。その無私の願望こそがたちどころに実現する性質の願望である。これを指して大師たちは「想念は実現する」と宣言しているのだと思う。

 

ガラクタの劣情的願望の気ままな実現を保証する大師は、ちょっと違うのではないだろうか。

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一言主の神の由緒

2022-10-18 20:28:40 | 修験道neo

◎善事も一言、悪事も一言

 

役行者を伊豆大島に島流しにした勢力は、一言主の神であるが、一言主の神の出自も実に不思議である。これは古事記に出ている話。

 

雄略天皇が葛城山に登った時、お供は紅い紐をつけた青摺り染めの衣服を賜って着ていた。そのときその向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがあり、天皇の行幸と同じ隊列、装束で登ってきた。

 

それで雄略天皇は、「この大和の国に私をおいてほかに大王はないのに、今誰が私と同じ様子で行くんですか」と問うた。すると先方の行列も「この大和の国に私をおいてほかに大王はないのに、今誰が私と同じ様子で行くんですか」と同じ言葉で問い返してきた。

 

それで雄略天皇は、怒って矢を弓につがえ、お供も矢をつがえた。すると向こうの人たちもみんな矢をつがえた。

雄略天皇は、「それでは、まずそちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放ちましょう。」と言った。

 

向こうは答えて「私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、善いことも一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神である。」と言った。

 

雄略はこれを聞いておそれかしこまって、「おそれおおいことです。わが大神よ。この世の方であろうとは存じませんでした。」と言って、自分の太刀や弓矢を始めとしてお供の者が着ている衣服も脱がせて、拝んで献上した。

 

このときその一言主の大神は、手を打ってその献上されたものを受け取った。そして雄略が帰る時、山の麓に一言主の大神一行が集まって、長谷の入口まで送ってくれた。

この一言主の大神はその時に初めて顕れたのである。

 

『善事も一言、悪事も一言、言い離つ神』とは何か。天皇の行列に、わざわざ贈り物欲しさだけで登場してくる高級神霊はまずいない。

 

これは死者の書や臨死体験でよく出てくる、自分の人生が鏡に一連のドラマとして見せられて、次に一瞬で、その人の行く先を地獄、極楽に振り分ける閻魔大王のことではないのだろうか。あなたの一生で為した数々の善事を一言で、また数々の悪事を一言で、計量、評価してみせられるのは閻魔大王しかいないだろう。

 

だから、これは単に奈良の葛城山のローカル神仙のことではあるまい。

 

従って雄略天皇は、葛城山中で神事を行ったところ、閻魔大王のビジョンを見て、恐れ畏しこみ、太刀、弓矢など献上したというのが真相に近いのではないだろうか。

 

これは、大燈国師が花園上皇に召された時に、上皇が「仏法不思議、王法と対座す」と問うたのに対して,大燈国師が即座に「王法不思議、仏法と対座す」と切り返した様子とシンクロしている。

 

後世に一言主の相対的地位は、日本書紀や日本霊異記などで、徐々に天皇より低いものにされていくが、天皇が民間勢力にへりくだるのはまずいという理由があったのだろうが、そもそもはこのようなことだったのではなかろうか。

 

なお、全国の一言主神社は、一言だけ願いを叶えてくれる、人気の神社だそうです。

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恐怖を克服する修行-3

2022-10-18 20:25:43 | イメージ・トレーニング(冥想法1)neo

◎心霊を信じない

 

この事件について、別の学識経験者であるデルゲ(東チベット)の街の博士は、また違ったコメントをしている。

 

ここでは、心霊の存在を信じないことを不信と呼び、

『不信は、まま起こることじゃ。確かに、それは神秘家の最終目的の一つだが、弟子が一定の期間が経つ前にこの境地に至ってしまえば、この修行から得られるはずのもの、つまり恐れを知らぬ心を失ってしまうことになる。

 

それだけではない。師は単なる不信を容認してはいない。それは真理に反することだ。弟子は、信ずる者にとっては神々も悪魔も確かに存在することを理解しなければならない。敬う者には恵み、恐れる者には害となる力を彼らが持っていることを。

 

とはいえ、修行の当初から不信を懐く者は滅多におらぬ。大抵の入門僧は、現に恐ろしい亡霊に出会っているのだ。』

(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)

 

デビッドニールは、こうした儀式を行う中で、現実に魔物が出現するというオカルトな出来事が起こることは、稀であることを知っていたが、彼女は、そうした心霊的存在が幻覚ではなく、実際にいるのではないかと考えていたようだ。

 

デルゲ(東チベット)の街の博士の見解はこれに対して、心霊が実際にあると見るレベルもあるし、ないことを知っているレベルもあるとして穏当な見解となっている。心理レベルが落ちていけば、チベットのような荒涼たる大地で冥想しなくとも、何でも起こるものである。

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恐怖を克服する修行-2

2022-10-18 20:24:52 | イメージ・トレーニング(冥想法1)neo

◎観想法から現実の操作へ

 

デビッドニールは、悪霊を招き寄せているときに当の術者が急死するケースをいくつか見聞きしていた。

 

彼女がこのケースの見解について質問すると、学識経験者であるクショグ・ワンチェンは、いつもとは違う声で次のように語った。

 

『「死んだ者たちは、死に至らしめられたのだ。彼らの見た映像は想像の産物である。悪霊を信じないものは、彼らに殺されることは決してない。

 

従って虎の存在を信じない者は、たといこの獣は出会ったにしても、自分が虎に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。

 

それが自発的なものであろうとなかろうと、心に像を描き出すのは、もっとも神秘的な術なのだ。そこに形成されたものはどうなると思う。肉に生れる子と同じく、これらの心の生んだ子らもまた、われわれから生命を分離し、われらの支配を離れて、独自に動きだすのではないかね。

 

またこうしたものを作り出せるのは、我々だけであろうか。そのようなものが世界に存在するとすれば、作り出した側の意志あるいはその他の原因によって、これらと接触する可能性がありはしないか。

 

われわれが思いか行いを通して、これらのものが活動しだす状況を作り出すことが原因のひとつではないのか?

 

たとえを使おう。

 

あなたが、川岸から少し離れた乾いた土地にいるとする。この場合、魚はあなたに近づくことはない。だが川とあなたの間には溝を堀り、乾いたところに池を作れば、水がそこに流れ込み、魚は川から泳いで来て、あなたは自分の目で魚を見ることもできる。

 

不用意に径路(チャンネル)を開かぬよう、よくよく用心することだ。実際無意識という巨大な倉に何が納まっているのかを知っている人間はほとんどいないのだ。』

(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)

 

この事件は、残忍な悪霊トゥオに立ち向かう修行の半ばで、食い殺されてしまった弟の事件である。

 

観想法においては、ありありとイメージを想像するが、その当のイメージにも本物とにせものがある。本物というのは、どんな場所どんな時代においても変化することのないイメージであり、第六身体のイメージである。にせものというのは、第四身体(メンタル)以下の霊界のイメージであり、どんな素晴らしいイメージであろうと、天人五衰と呼ばれるように、いつかは滅び、死する時が来る性質を持つイメージである。

 

クショグ・ワンチェンのコメントは、観想法におけるイメージは、取扱に注意すべきことを語ったものであるが、この分類では、にせもののイメージの取扱ということになる。にせものという呼び名ではあるが、霊界深部に作り出したイメージは、現実に実現していくものがある。だから観想法を修する人間は、よくよく注意しなければならないという警告がまず一つある。

 

そして、霊的な感受性・チャンネルを開いてしまった人間には、そうしたもの(イメージ、霊、波動)が「実在」するものとして干渉してくるのでその危険性を認識せよと二重の意味で警告している。

 

クショグ・ワンチェンのコメントは意味深長である。「虎の存在を信じない者は、たといこの獣は出会ったにしても、自分が虎に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。」。

 

これは、霊能の世界一般の法則だと思う。さらに、「神の存在を信じない者は、たといこの神は出会ったにしても、自分が神に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。」という言い換えも可能である。現代人の無神論の心理的な原型がここにある。

 

大衆のイメージをマスコミのニュース・コマーシャルで操作し、そのイメージを大衆・国民の深層心理に定着させ、やがてはそのイメージを、知らず知らずのうちに現実化させるというやり方は、この原理を知悉した勢力が、政治や経済を誘導する場合の「観想法」を利用した常套手段である。

 

このストーリーは、チベットの山奥で、初心者の坊さんが、トンデモ修行に失敗して、虎に食い殺された気の毒な事件にとどまるものではなかった。

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恐怖を克服する修行-1

2022-10-18 20:23:47 | イメージ・トレーニング(冥想法1)neo

◎深山幽谷での殺人事件

 

これは20世紀初頭にチベットに入ったデビッドニールおばさんが出くわしたストーリー。チベットでは入門早々の僧が、山深い峡谷に入り、木や岩にからだを縛りつけ、残忍な悪霊トゥオに向かって呼びかけるように命ぜられ、どんなに恐ろしくなっても自分の体を縄から解いて、逃げてはならないという修行をさせられることがある。

 

ある兄弟が、一人の師匠(ラマ)について修行をしていた。これはその兄の回顧談。

『師匠のラマは、サグヤンという魔物がとりついていることで知られる森の中に行き、首を木に縛りつけるよう、弟に命じた。サグヤンは虎の姿をとって現れ、この野獣の獰猛な性質もそこから来ていると言われている。

 

木に首を縛りつけたら、自分はサグヤンをなだめるためにつれて来られた牛であると想像することになっていた。その考えに一念集中し、さらに牛と同化するために泣き声をあげる。集中力が十分強まれば、こうしているうちに自我意識を失ってトランス状態になり、食われかけている牛の苦しみを体験できるというのだ。

 

この修行は、まる三日間続けられることになっていた。ところが、四日目になっても弟は戻って来ない。ついに五日目の朝になってラマは兄に言った。

「昨晩変な夢を見たので、行って弟を連れてきなさい。」

兄はこれに従ったが、森では恐ろしい光景が待っていた。弟の死体が半分食いちぎられた状態で木にぶら下がり、血だらけの肉片が付近の茂みのあちこちに飛び散っていた。

 

恐れおののいた兄は、大急ぎで弟の遺骸を集め、師匠のところに持ち帰った。

 

ところが帰って見ると、師匠の庵はもぬけの殻であった。師匠のラマは、経文に祭具、三叉鉾、それに身の周りのものを抱えて、どこかへ行ってしまったのだ。』

(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)

 

迷信を信じないデビッドニールおばさんは、この森では豹がよく徘徊するところを目撃しているので、その豹が襲ったのではないかと推理した。

 

もはや古老となったこの兄は、「師匠のラマは、人間の姿をとって獲物を引き寄せる、魔性の虎そのものだったに相違ない。人間の姿のままでは弟を殺すことはできない。わしが眠っている間に、きっと虎に変身し、森に走って、弟を食ったのだ」と主張している。

これでは、単なる幻想奇譚=迷信物語である。

 

学識経験者の見方はやや違っている。(続)

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修善必ず祐(たす)く

2022-10-18 19:59:57 | 究極というものの可能性neo

◎わかっている人には言わない

 

禅などでは、「そのままでいい。そのままで。」

「迷いのままに悟るのだ。」などと言う。

 

片や、続日本後紀巻七には、

「冥霊の道、至信乃(すなわ)ち応じ

神明の徳、修善必ず祐(たす)く」

とある。これは、クンダリーニ・ヨーガの道では、至信すれば、たちまち応ずることがある、善行に努め励めば、高級神霊のリターン(報い)があるくらいの意味だろう。

 

また明治の古神道家本田親徳なども、霊学は浄心を本とすとし、罪汚れを祓って心を浄くすることを基本とする。二度と悪事を犯すことのない境地は、自己が死んだ先にしかないが、自己が死なぬうちは黙って善を行い悪を行なわないに限る。

 

同じクンダリーニ・ヨーガ系でも、ドン・ファンは殊更に日々善行に励めなどという堅苦しいことは言わない。カルロス・カスタネダの愛の感受性が充分に開いているので、それを言う必要がなかったからだろう。

 

仏教の諸悪莫作衆善奉行(悪いことをしない、善いことをする)は、自己が死んだ後に再誕すれば二度と悪事を犯すことがなくなるという姿のことだが、まだそこまで行っていない人は、務めて善を修めるに限る。

 

漸進型のクンダリーニ・ヨーガだから善を積めと言っているわけでもなく、一発勝負の禅だから善を行ないなさいと言わないというわけでもない。

 

語っている相手が善を積めと言わなければならない場合に言う。つまり語る相手によって使い分けているように思う。わかっている人には今更言わないのだ。

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カルマ理論には穴がある

2022-10-18 19:56:08 | 究極というものの可能性neo

◎地獄なこの世

カルマ理論には前提があって、自分には、過去世も来世もあるということだ。それを地球全体の人口爆発に合わせると過去に地球全体で70億の人間がいたことはないので、古代中世においては、せいぜい世界全体で2億人などという時代では、差し引き68億人の魂のストックが霊界にリザーブされていたという説明が代表的である。

自分には過去世も来世もあるという前提には、反論がある。「来世は自分は馬に生まれ変わる」と断言した禅の高僧もいるし、横死の仕方では来世の生まれ変わりはなく、砕霊になると笹目秀和は言う。そういうのをも過去世・来世と見れば過去世・来世はある。

しかし人間に非ざる過去世・来世に現代人が価値を見いだせるとはとても思えない。現代人は無神論で愛が薄いから。

さて巷間の前世記憶本では、先の過去世においてなぜか悪行を積んでも次の過去世では常に人間として輪廻するという話に決まってなっており、昆虫や猿や馬に転生したなどというシナリオは、なぜか出て来ない。因果応報ならば、きちんと次の出生で結果を出すのではなかったか。

それでは一定以上の悪業を積んだら地獄に転生するという足切りラインがあるのだろうか。

ある日OSHOバグワンが、大学教授に「地獄を信じますか」と尋ねられて、

『あなたは地獄に生きている!あなたはそこに生まれ、それを呼吸し、そこで息をひきとります。そこからでるために精一杯の努力をしなければね』(ダンマパダ2/OSHO/メルクマールP256から引用)
と答えた。過去世の悪業の結果、この地獄に生まれ落ちたのだ。地獄は大学教授の心の中にあり、我々の心の中にある。

悟っていない者に悟りのことがわからないように、地獄を抜けたことのない者に地獄ではない世界のことはわからない。地獄を脱出して初めてそこが地獄だったとわかる。

そこでOSHOバグワンは天国も地獄も「いまここ」にあると断言する。出口王仁三郎なら綾部が世界の中心になるという表現である。

OSHOバグワンによれば、すべてがいまここにあるのならば、(それは時間のない世界での表現だが)、悪行を犯している瞬間に、直ちに自分の肉体に毒を送り込んでいること(怒りが体内に毒素を発生させる)で同時並行で罰を受けていると見る。

実はこれが真相だろう。

カルマの法則は逃れることなどできない。不昧因果。そこでカルマ・ヨーガ、功過格などカルマの法則を見据えた行法がある。
覚者は、諸悪莫作で悪行を犯すことはない。でもそこを一歩抜けることが必要である。それがカルマ理論の穴であると思う。

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ピラミッドのディスクから埋蔵経

2022-10-18 19:51:42 | 究極というものの可能性neo

◎アトランティス古記録

 

ゲーリー・ボーネルが盛んにピラミッドからアトランティスの叡智を集めたディスクが発見されるというようなことを述べているのだが、このディスクが発見されることについては、ゲーリー・ボーネルが初めてではなく、もっと古いだろうと思い、いろいろ調べてみたらエドガー・ケーシー予言のようだ。

 

エドガー・ケーシー予言では、ディスクではなく石盤と訳しているのでタブレットかもしれない。いずれにしてもアトランティス末期のコアなメンバーの一部がエジプトに渡り、ピラミッド内部にアトランティスの叡智を集めた古記録を封入し、近代西欧文明の最末期にならないと発見されないようなレコードを仕込んでおいたというのが、そのエドガー・ケーシーの予言。

 

それが本当にピラミッド至近で核爆弾か何かが爆発して、そのディスクが発見されるようなことがあれば、それこそアトランティス密教の結界の優秀さと精密さを示す事件になると思う。

 

しかし世の中には、誰がそれを読んでも悟ってしまうような文章や書物などはない。仮にアトランティスの叡智を集めたディスクが今マスコミに公開されたとしても、米露中の覇権争いがピタリと止むわけではない。書物や記録の内容が問題なのではなく、それを読む人間がどうかにかかっている。それは禅問答と同じ機微。

 

釈迦在世中は、その教えを文字化することを許さなかった。何百年もたってから法華経のような仏説と称する文書が出来上がってきた。チベット密教ではよく埋蔵経が異次元から発見されたみたいなことを言うが、仏典は釈迦没後の編纂である以上、いわば虚空から書き下ろされた埋蔵経のようなものなのだと思う。

 

 

時間のない世界で書かれた文書、文章というものは確かにある。埋蔵経もそのようなもの。ピラミッドのディスクもそうした部分がかなり含まれているものだろうと思うが、その内容が、人口のほとんどが悟らざる人間達が日々形成する地獄的社会にマッチしたものであるようには想像できない。

 

むしろ、諸悪莫作 衆善奉行 つまり悪いことをしない、善いことをするのが当たり前で、一人ひとりが神を知る、体験とは言えない体験を経ている社会、そうした社会にマッチした内容の古記録であるように思う。

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真の幸福とは何か-4

2022-10-18 08:01:50 | 覚醒のアーキテクチャー

◎霊や超能力の誘惑-1

 

私は、霊能力もないし超能力もない。そういう青年が霊や超能力の誘惑に出会った場合、それにからめとられる場合がある。霊や超能力は何かということを学校でも教えないし、マスコミでも興味本位以外では伝えないし、SNSでは怪しい説が横行し、カルトでは地獄落ちと世の終わり説でも脅すので、とかく不安な気持ちにさせられがちになるものだからである。最近は、コロナによる行動規制と核戦争の懸念が加わった。

 

1.霊能力、高級神霊

欲望満足と生活の向上を当面の目標と考える人々にとって、こうした不安は時に抑えがたいものであり、高級神霊が未来を予告してくれたり、生活の手助けをしてくれる話はまことに魅力的なものである。

 

特に大戦争の後20年くらいは、多くの人が戦争犠牲者の遺族となっているものだから、霊能力へのニーズは高いものである。

 

だが、そういう背景を傍らに置いて、冥想修行に取り組んでいくと、まともな本では必ず、霊能力開発を目標にしたり高級神霊の指導を仰ぐことを戒めていることを発見するものである。

 

こうしたものは、いわゆる『霊がかり』であって、20世紀前半にはその使命を終えたと考えられる。『霊がかり』とは、世界の見方が宗派別や個人別に無数にあるように、多数の見方の一つにすぎない。

 

霊を見れたり感じたりできる人は、実は10人に一人程度はいるものだと思うが、見神見仏できる人の確率がもっと低いものだということは想像できるのではないだろうか。

 

さらに見神見仏は、禅の十牛図でいえば、第三図にすぎず、窮極はさらに先の第八図。真剣な求道者はにかかわっている暇はないはずなのだ。

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