◎熱核戦争を回避する道
このように世界中が熱核戦争に着々と進んでいくのを見ると、なぜそうなって行かなければならないかを改めて考えさせられるものだ。
中国の例は典型だが、中国は1970年代以前の世界の発展途上国であって、ほとんどの人が人民服を着て、食料自給が至上命題だった時期があった。その頃には、核は保有していたが、運搬能力に乏しく、外洋への海軍展開力に乏しい時代には、太平洋を二つに割ってアメリカと二分割統治しようとか、一帯一路でユーラシア制覇とか、南シナ海独覇とかは言わなかった。ところが、他国を威圧、征服できる軍事力、経済力を保有した途端に、それを他国に行使し始めたのだ。
これを個人レベルにあてはめれば、食べられるようになって更に経済的余裕ができると、その金でもって他人の金や権力や名誉を奪おうとする人である。
最近の拝金主義や、金とメリット・デメリット、効率性至上の考え方の人には信じられないかもしれないが、そうした生き方は必ずしも人間にとって当たり前の生き方ではないのだ。
さて中学でも高校でも人は大体負けず嫌いなもので、それでほとんどの人は嫌な思いをする。まして社会にでれば、病的に自己中心的な人間たちの巷でもある。だから人間関係悪化の原因は負けず嫌いかなどと思うことがある。ひいては戦争の原因は負けず嫌いなのかとも思いつく。負けず嫌いは地獄の始まりか、などとも思う。
さて、一方で聖者は負けず嫌いなものではないかとも思う。大聖ババジやダンテス・ダイジの風貌を見ると負けず嫌いであって、やんちゃな少年みたいな印象を受けるところがある。それでいて彼らは、弟子たちには、当たり前だが厳しい。彼らは、正直であり、他人を傷つけず、親切であり、謙遜であり、フランクであり、情熱的であるが、嘘を言わず、自分個人を優先する悪事を行わない。
つまり負けず嫌いとは、肉体を持つ人間にとって自然なものであって、それ自体善でも悪でもないのだと思う。
戦争に進み、世の中全体を地獄に進めようとする推進力は、他人との競争心なのだと思う。他人を押しのけ傷つけても自分が優位に立ち、一位になることを望んでいく願望である。昨今の自己実現の風潮はこれを自明のものとしているので、世の中全体がこのように混乱の巷になっている。他人との競争心と負けず嫌いの違いは、負けず嫌い本来は他人を侵さないということ。
これについても中国は、典型であって権力闘争における歴代の権謀術数の限りを書いた資治通鑑を愛読書としていたのが毛沢東であって、歴史的に権力を得るためには、騙す陥れるなど仁義のないところが中国四千年の歴史の特徴だった。
欧米でもキリスト教のバックボーンはあるが、映画007シリーズの英国は、ドレイクの頃から特にそういう面が顕著だったし、特に欧州は戦争を繰り返してばかりきたところがあるように思う。
今や、功利的思想を基盤とする70億人が闊歩する近代西欧文明が世界中に広まり、あらゆる情報が詰まったスマホ片手の知的ライフ・スタイルが世界共通になる一方で、合法であれば悪行をしてもよいという発想の下、相手を隙あらば蹴落とし騙し利益を得ようとする人がひしめく時代となっている。
このように多くの人が意識下に地獄を湛えた時代に、最終的にそれが国家レベルでまとまって行けば核戦争になるのは必然。やる方も仕返しがこわいから、最初は核を持っていない国が狙われるのだろう、非核三原則。
戦わずにあるいは戦いを最小限に収めるには、万人が神仏を知り、人間はそもそも他人を傷つけることなどできないことに目覚めねばならない。それが愛、大慈大悲。
ランク付けが争闘の原因かと言えば、実はそうでもない。古事記に181位階が出ていて、トップは大神、2番は天皇陛下なのだが、次の天国的時代には全員がこのランク付けに安んずることになっている。つまりランク付けそのものが悪いのではなく、万人がトップを狙う権利があるというような、自分を知らぬ分不相応な、欲望の極大化を是認する風潮が原因なのだ。
それを証明するように、日本には笠地蔵という美しい童話が残っている。衣食住が最低限満たされれば、それに安んずるのが自然な姿なのである。