アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

笠地蔵、日本の黄金伝説

2022-10-21 20:02:54 | 究極というものの可能性neo

◎貧しく無欲な老翁、老嫗の物語

 

キリスト教の黄金伝説は、超能力、奇跡のオンパレードで、かつ聖人が主人公なので、謙虚で控えめな日本人にとっては面映ゆいところがある。

 

笠地蔵は、舞台は雪降る年の瀬の寒村。お爺さんが作りためた笠を町に行商に行く。人出は多いのに笠は大して売れず、売れ残った笠を背負って、吹雪の中をお爺さんは帰り道を急いでいると、吹雪に頭から雪まみれになった七体のお地蔵様のところを通りかかった。

 

お地蔵様も寒かろうとて、お爺さんは、笠をお地蔵様にかぶせ、笠が足りなかったので、自分の笠もお地蔵様にかぶせ、最後のお地蔵様には自分の手ぬぐいをかけて差し上げた。

 

帰宅してお婆さんにその仔細を話すと「それは善いことをされました」と喜んでくれた。

 

その夜更け、雪の中、家の外で何かどさっと重い物が落ちた音がする。

 

老夫婦が戸を開けてみると、外には、米俵や餅、野菜・魚に小判などが山と積まれていた。彼らは、これで良い正月を迎えることができた。

 

主人公は、年越しに餅もないような貧しい老夫婦で、雪で吹雪いている中を一日行商して帰る。できる善行も大したことはないがそれでも、お地蔵様に情けをかけても見返りがあるわけではないと知りつつ、自分の笠や手ぬぐいを渡す。

 

雪はしんしんと降るが、餅もない貧しい正月が身の丈ではあると、無事であることのみに感謝しつつ年を越そうとしている。

 

するとまったく期待していなかったのに奇瑞が起きてしまう。

 

清貧という言葉は、キリスト教で頻繁に用いられるが、素の日本人の心情というのは、この老翁、老嫗の姿なのだと思う。聖者も奇蹟への期待もなく、無心、無欲。

これは、カルマ・ヨーガの教科書のようなものだ。

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キャロライン・メイス専攻を神学に変える

2022-10-21 20:00:50 | 究極というものの可能性neo

◎死の受容

 

『エリザベス・キューブラー・ロスの思い出 ファーン・スチュアート・ウェルチ/編集 麻布小寅堂』は、いろいろな人の手によるエリザベス・キューブラー・ロスの追悼文集。

その中にキャロライン・メイスの文も入っている。

 

エリザベス・キューブラー・ロスは、どうしてあれだけアメリカ社会で反発をかったのだろうか。死の受容とは、恐怖や悲嘆や不安と向き合うことである。

 

自由の国アメリカはアメリカン・ドリームがある代わりに下層階級の悲惨な生活もある。そして貧富にかかわらず誰にも死がある。彼女は、臭いものの蓋を開く、ある種の露悪者として、敬遠されたところがあったのかもしれない。

 

キリスト教で、輪廻転生がなく、天国に行けないとなれば、地獄か煉獄行きのわが身を受容せよというのは、日本人が思うほど簡単なことではないのかもしれない。

 

だが、彼女が出たことで、ホスピスとか終末期医療の重要性が世界に認識されたという影響はあるのだと思う。

 

死の受容とは最終的には自分の死の受容だが、それに先んじて近親者の死を受容するイベントが発生することが多い。近親者の死とは他人の死のことだが、それが自分の一部の死であると認識する場合は、死の受容が必要である。

 

死を受容する人は優しい。死を受容する人は他人を傷つけることなどできない。

死の受容は、愛のハートが開くことである。

 

日本では、お盆やお彼岸に墓参りをするが、これは先祖供養という名目ではあるが、そのエッセンスは、親族の死に心を開き、墓参する生者自身の愛のハートを開くことである。

 

エリザベス・キューブラー・ロスは、病院の医者であって、死を受け入れることのできない終末期患者を多数目にし、例の黒人掃除婦の事件で、大いに感得するところがあった。

 

キャロライン・メイスは、エリザベス・キューブラー・ロスのワークショップに初めて参加したことで、ジャーナリズム学科の大学院生だったのが専攻を神学に変えた。

 

肉体死が起こるとその数時間後にエーテル体が崩壊し、アストラル体に之(ゆ)く。それは物理メカニズムみたいなものだが、自分の死さえ死後になっても受け入れられない人もいるし、生きていてもとても生きづらく生きる人もいる。

 

死の受容は日々の冥想習慣に向けた最も身近な糸口のひとつだと思う。

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ヨブへの答え

2022-10-21 19:58:16 | キリスト者の秘蹟neo

◎先進国と発展途上国

 

旧約聖書のヨブ記では、神がサタンの悪意の行使を認めたばっかりに、行ないの正しいヨブが、子供を殺され、財産を失い、不治の病に苦しむことになる。

 

さてこの世には2種類あって、神とサタンがいてその振幅の間を揺れ動く世の中と、神とサタンが結婚(天国と地獄の結婚)した世の中である。

 

大雑把にいえば、発展途上国の人の大半は、神とサタンがいてその振幅の間を揺れ動く世界に生きている。

一方先進国の人の多くは、神とサタンの結婚を主要テーマとして生きている。

 

それはなぜかといえば、発展途上国の人々の多くは社会的成功、西洋流に言えば自己実現という、火星、マニピュラ・チャクラにシンボライズされた人生を生きているからであり、先進国の人の多くは、その先にある、金星でシンボライズされるアナハタ・チャクラ、「愛」、換言すれば、神とサタンの結婚の姿であるアートマン、この「ひとつながりのもの」を目指す人生を生きているからである。

 

ヨブは、先進国に生きる人がモデルである。見神をしたとしても、その人生は傍目には悲惨極まりないものであるかもしれない。

 

唐代の禅僧普化は佛を知る僧であったが、町の人に食を乞う姿はロバみたいだと馬鹿にされると、「ヒヒーン」とロバの鳴き声をして見せ、高僧臨済と一緒に招かれた街の篤信家の設けた御馳走のテーブルを蹴り倒して顰蹙をかうほど、社会性のない人生を生きて見せた。

 

社会性は、火星、マニピュラ・チャクラの側。金星、アナハタ・チャクラは非社会性ではなく、社会性も非社会性も分け隔てなく愛に取り込む。

 

覚者はとてつもなく孤独なものだから、時に孤独と裏腹である非社会性を現ずる。ヨブは、十分に社会性を尽くした人生だから、サタンのいたづらで一時はあるいは一生はひどいめに遭っても、遠からずあらゆるものは整うだろう。

 

だが、人間である以上結局救いはない。不幸と苦悩と不条理のどん底に生きる人生であっても何の問題もない。ヨブ記はそこを確認できるかどうか試しているのだと思う。

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2万4千年周期と次の疫病禍

2022-10-21 19:55:03 | 究極というものの可能性neo

◎ヴィシュヌナビー(宇宙大中心)に大接近

 

2020年の夏の真夏日は50日以上であって、来年以降もそうだったら大変だという予想もあって、二重に猛暑に気もふさぐ夏だった。

 

地球の歳差は、約25,800年であって、地球人類の精神の周期は約24,000年。

 

19世紀インドの聖者ユクテスワによれば、地球文明は2万4千年で1周期。最も神に近づく時代を頂点(ヴィシュヌナビー=宇宙大中心に最接近)として、1万2千年は下降し、続く1万2千年は上昇する。前回の頂点の時期は紀元前11500年。これから1万2千年間、人間精神は下降を続けた。現代は最も神から遠ざかった最も底の時代からわずか1200年ほどを経過したポジションにある。

 

カリ・ユガ期の西暦500年が下降のボトムで、最も神に遠ざかった時代。これより1万2千年は上昇の時代になる。それからカリ・ユガ期は1200年続き、西暦1700年にはドワパラ・ユガ期(2400年間)に入った。

 

現代は、ドワパラ・ユガの300年ほどを経過したところ。ドワパラ・ユガの時代のテーマは、物質界を作り出している原理である精妙な電気的力を理解することだと言われる。電気的力とは、エーテル体レベルの諸力なのだろうと思う。

 

渡米したパラマンサ・ヨガナンダの師がユクテスワ。ユクテスワの師がラヒリ・マハサヤ。そして彼の師が大聖ババジ。大聖ババジは、パイロット・ババジとは全く別の人物。ダンテス・ダイジの出会ったのは大聖ババジの方。

大聖ババジは、何百年周期で現れると言われる人物で、出会うのは幸運であって、相当に準備ができているということ。コネや金でアポイントを取れる人物ではない。

ダンテス・ダイジがクンダリーニ・ヨーガの奥秘を開陳したが、それは大聖ババジから伝授されたもの。

 

次の至福千年は、数万年前のアトランティス最盛時を上回る世界的に素晴らしい時代になると言われるが、夜明け前の闇は一層深い。

 

新型コロナの第一波は過ぎたが、朝鮮の神人姜甑山が見た病劫(パンデミック)は、人類を絶滅しようというほどの勢いであったようだから、こんなものではないのだろう。『この後、怪病が蔓延する時は、寝ていても死に、食事中でも死に、往来する途中で死んでも弔う者がなく云々』

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負けず嫌いとランク付け

2022-10-21 07:23:55 | 時代にFace it

◎熱核戦争を回避する道

 

このように世界中が熱核戦争に着々と進んでいくのを見ると、なぜそうなって行かなければならないかを改めて考えさせられるものだ。

 

中国の例は典型だが、中国は1970年代以前の世界の発展途上国であって、ほとんどの人が人民服を着て、食料自給が至上命題だった時期があった。その頃には、核は保有していたが、運搬能力に乏しく、外洋への海軍展開力に乏しい時代には、太平洋を二つに割ってアメリカと二分割統治しようとか、一帯一路でユーラシア制覇とか、南シナ海独覇とかは言わなかった。ところが、他国を威圧、征服できる軍事力、経済力を保有した途端に、それを他国に行使し始めたのだ。

 

これを個人レベルにあてはめれば、食べられるようになって更に経済的余裕ができると、その金でもって他人の金や権力や名誉を奪おうとする人である。

 

最近の拝金主義や、金とメリット・デメリット、効率性至上の考え方の人には信じられないかもしれないが、そうした生き方は必ずしも人間にとって当たり前の生き方ではないのだ。

 

さて中学でも高校でも人は大体負けず嫌いなもので、それでほとんどの人は嫌な思いをする。まして社会にでれば、病的に自己中心的な人間たちの巷でもある。だから人間関係悪化の原因は負けず嫌いかなどと思うことがある。ひいては戦争の原因は負けず嫌いなのかとも思いつく。負けず嫌いは地獄の始まりか、などとも思う。

 

さて、一方で聖者は負けず嫌いなものではないかとも思う。大聖ババジやダンテス・ダイジの風貌を見ると負けず嫌いであって、やんちゃな少年みたいな印象を受けるところがある。それでいて彼らは、弟子たちには、当たり前だが厳しい。彼らは、正直であり、他人を傷つけず、親切であり、謙遜であり、フランクであり、情熱的であるが、嘘を言わず、自分個人を優先する悪事を行わない。

 

つまり負けず嫌いとは、肉体を持つ人間にとって自然なものであって、それ自体善でも悪でもないのだと思う。

 

戦争に進み、世の中全体を地獄に進めようとする推進力は、他人との競争心なのだと思う。他人を押しのけ傷つけても自分が優位に立ち、一位になることを望んでいく願望である。昨今の自己実現の風潮はこれを自明のものとしているので、世の中全体がこのように混乱の巷になっている。他人との競争心と負けず嫌いの違いは、負けず嫌い本来は他人を侵さないということ。

 

これについても中国は、典型であって権力闘争における歴代の権謀術数の限りを書いた資治通鑑を愛読書としていたのが毛沢東であって、歴史的に権力を得るためには、騙す陥れるなど仁義のないところが中国四千年の歴史の特徴だった。

 

欧米でもキリスト教のバックボーンはあるが、映画007シリーズの英国は、ドレイクの頃から特にそういう面が顕著だったし、特に欧州は戦争を繰り返してばかりきたところがあるように思う。

 

今や、功利的思想を基盤とする70億人が闊歩する近代西欧文明が世界中に広まり、あらゆる情報が詰まったスマホ片手の知的ライフ・スタイルが世界共通になる一方で、合法であれば悪行をしてもよいという発想の下、相手を隙あらば蹴落とし騙し利益を得ようとする人がひしめく時代となっている。

 

このように多くの人が意識下に地獄を湛えた時代に、最終的にそれが国家レベルでまとまって行けば核戦争になるのは必然。やる方も仕返しがこわいから、最初は核を持っていない国が狙われるのだろう、非核三原則。

 

戦わずにあるいは戦いを最小限に収めるには、万人が神仏を知り、人間はそもそも他人を傷つけることなどできないことに目覚めねばならない。それが愛、大慈大悲。

 

ランク付けが争闘の原因かと言えば、実はそうでもない。古事記に181位階が出ていて、トップは大神、2番は天皇陛下なのだが、次の天国的時代には全員がこのランク付けに安んずることになっている。つまりランク付けそのものが悪いのではなく、万人がトップを狙う権利があるというような、自分を知らぬ分不相応な、欲望の極大化を是認する風潮が原因なのだ。

 

それを証明するように、日本には笠地蔵という美しい童話が残っている。衣食住が最低限満たされれば、それに安んずるのが自然な姿なのである。

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