アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

船頭になった巌頭和尚

2022-10-30 15:43:20 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎杜鵑 月に叫んで夜三更

 

巌頭和尚は、徳山の嗣法。845年会昌の破仏に遭遇し、寺を焼かれた上、追放されたため、還俗して船頭をやりながら修行。最後は賊に襲われて首を斬られて死ぬがその「 吽 ( うん ) 」と叫ぶ声が数里の外まで響いたという。

 

一休が、巌頭和尚を歌った詩がある。

 

会昌以後 僧形を破る

一段の風流 何似生

トウ(木へんに早)を舞わして未だ為人の手を懐にせず

杜鵑 月に叫んで夜三更

 

巌頭は杜鵑が月に叫ぶような自然法爾に生きたと歌っている

 

白隠は、この巌頭の無残な最期を知って、当初は修行を積んだ高僧でも賊に首を斬られて死んでしまうのなら、禅も大したことはないなどと高をくくっていたが、後に、「巌頭はまめ息災であった」と悟る。

 

今は国家による信仰弾圧こそないが、風俗紊乱で冥想修行が難しい時代、社会であることには変わりはない。まず自分から。

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見神、見仏、見性の限界

2022-10-30 15:39:51 | 現代冥想の到達点neo

◎見性だけでは不徹底

 

イエスは見神体験は有していたが、神人合一を得たのは十字架上だった。

 

見神、見仏、見性とは、禅の十牛図でいえば、第三図見牛であり、全然最初のほうであり、その後の人生の送り方によっては、悪に陥ることすらある。

 

江戸時代の白隠は、多数の出家・在家の弟子を見性せしめ世間的には評価の高いところであるが、なぜかダンテス・ダイジは、白隠を不徹底であるとして評価していないところがあった。

 

その理由を想像するに、見神、見仏、見性だけでは、いわゆる最終解脱ではないからである。禅の十牛図でいえば第八図の円相までいって届く。筆で円を描いたからといってその人が人牛倶忘であるということではない。

 

第三図の境涯しか持たぬのに人を指導してよいのかというところすらある。

 

ただし世間的には、見性した人すら極めて少なく、見性すれば悟った人と称して差し支えはあるまい。

 

そんな中、同じ禅僧でも至道無難は、見性だけの人の危険性を指摘しており、わかっている禅僧であると思う。

 

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イースター復活祭

2022-10-30 15:29:46 | キリスト者の秘蹟neo

◎イエスはいつ大悟したか

 

イースターは、イエス・キリストの復活の祝い。肉体でなく、アストラル体での復活っぽいが、例によって現代科学で検証するすべはない。現代科学はそもそもアストラル体など認めていないので。

 

イースターと言えば、卵型のチョコがスーパーなど店先に並ぶのがキリスト教国の習いだが、日本ではまずあまりみかけない。

 

さてイエスはいつ悟ったかというのは問題である。超能力がばんばん使えたからといって、それは覚醒の証拠とはならない。

 

小学生の頃、旧約聖書を読んでいて、イエスが十字架上で、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいしか」とつぶやくのを読んで、あれ、イエスは神の子なのに何を言っているのと不審に思ったものだ。

 

要するに、このつぶやきの時点で、人と神は別であり、神人合一は未だ成らなかったのだ。その後神と人との境目がなくなったと見るのが穏当な推理なのだと思う。

 

逆にイエスは、神の側の立場でなく、無力な一個の大工として、その愛のゆえに十字架にかかることから逃げなかった無私と勇気こそ、人として驚異的な生き様であったと思う。

 

釈迦成道では、最初四禅から入ったなどと実況中継よろしく解説する神秘家がいたが、イエスの場合は、西洋人向けには神秘主義からの解説は良しとされなかったのか、十字架上でのプロセスを解説するものは出ていない。

 

それにしても、イエスは、あれだけこの21世紀の危機の時代のことを「終わりの時代には・・・」とその生涯で語ったからには、その昇天による影響のターゲットは現代人に向けられていると考えるのが素直だろう。

 

彼は本当によくやったし、成功した。けれども一人の大工の影響力には限界があった。今一人ひとりが自分に向き合わないと。

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呪殺の論理

2022-10-30 15:25:32 | 超能力・霊能力neo

◎勘違いの所業

11世紀チベットの大霊能力者ドルジェタクは、霊能力者としては一流だが、求道者としては、どのような位置づけとなるのだろうか。

 

まずドルジェタクの言い分は、呪殺(度脱)の動機は、慈悲菩提心を起こし、衆生を救済しようという気持から出ているとのことであるから、その人がそれ以上悪いことをしないように、早々に命を奪うことが、慈悲であるというようなものである。

 

実際は、ドルジェタクが自分が呪殺される危機に瀕して、呪殺合戦になり、呪殺合戦の勝者が正義であり、慈悲であるという論理で、数しれず呪殺を繰り返している。

 

一体どんな修行をすれば、人殺しでも、他人の財産の略奪でも、何をやってもいんだという心境になるのだろうか。

 

さて、その手がかりとなるような記事が2つある。

 

ひとつは、江戸時代の禅僧至道無難の「悟ったと同時に、万事は、これだと教えると、大方悪人になるものだ」というものである。その人には、確かに神を見る、窮極を見るという体験は、間違いなくあるのだが、それを至上のもの、最終的なものであると見誤ると、「俺は、すべてを知った。だから何をやってもいいんだ」という本人の自覚のない増上慢に陥るのだと思う。そして、その後、悪業三昧ということになるのではないだろうか。

 

もうひとつは、ダンテス・ダイジの「で、このくらいまで行けばさ、もうブラック・マジックも成立しない。ブラック・マジック、つまり破戒っていうけど、破戒無慙とか破戒僧とかいうのはね。ゼロポイントのひとつ手前に留まるんだ。」。

一方で神や仏の実在を確認はしているものの、他方で物欲や性欲、名誉欲、財産欲など、この世的な欲望を棄てきれない状態にあると、このような勝手気まま、なんでもありというとんでもない状態があることを示唆している。

 

このような人は、何しろ神仏のことは実体験として知っているから、議論をしても向かうところ敵無しだろうし、ましてや霊能力がつかえるとなれば、ドルジェタクのように無類の強さを発揮するというのも不思議なことではないと思う。信者も沢山集まるだろう。

 

そしてこのような人が自分の恐るべき行動を後付けで理由をつけたのが、呪殺も慈悲の名の下にどんどんやっていいというロジックになるのだろう。そういうロジックは、本当の愛や慈悲とは無縁のものだから、本質的なところでは、決して通用することのないものだと思う。

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神降ろし

2022-10-30 15:21:21 | 夢と真実neo

◎神降ろし

 

神降ろしについては、古神道には古くからの歴史と伝統があって、また善悪真偽深浅取り混ぜて巷のあちらこちらで見聞きすることがある。チャネラーやシャーマンもその一種である。

 

これは、神と出会うのでも一体化するのでもなく、我が身に一時的に引き入れるものである。大正10年以前の出口王仁三郎が盛んにこのやり方を広めようとしたが、結局邪霊の発動がしきりであったようで、結局うまく行かなかった。入れ物である人間の浄化の程度に応じて憑る神霊の程度が変わるので、人間の御魂の磨き具合がいま一つだとかかる神霊もいま一つということのようなのだ。

 

平たく言うと、たとえば泥酔すると乱暴になる人は、その深層意識が表面化して乱暴になるのだが、憑依においても、その依代(よりしろ)の深層意識の程度に応じて憑依してくるという法則があるようだ。

 

つまり憑依、神降ろしは、憑依される方の人間と、憑依してくる神霊のレベルの2要素で決まる。

 

出口王仁三郎は、依代としての適性については、年齢性別など細かく適不適のあることを指摘している。結局依代として、老女は不適当、子供は早すぎる、中年以降の人は総じて不合格ということなので、「神降ろし」という技術は万人に適用できる技術とはなり得ないと最後は見切っていたようである。

 

一方憑依する神霊のレベル付けは次のようなものである。神がかりには3種類あるとする。

(注.精霊とは、肉体に宿るもののことで、エーテル体以上の総称。)

 

『1.帰神

人間の精霊が直接大元神(主の神または大神)に向かって神格の内流を受け、大神と和合する状態

 

2.神懸(しんけん)

大神の御神格に照らされ、智慧証覚を得、霊国にあってエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に下り来たり、神界の消息を人間に伝達すること。

 

3.神憑(しんぴょう)

外部より、人件の肉体に侵入し罪悪と虚偽とを行うところの邪霊を悪霊または副守護神というが、副守護神に侵入されたこの状態を神憑という。

 

チャネリング(交霊術)の達人には、神憑が多く、このような副守護神は、地獄の団体に籍を置き、人間の善霊を亡ぼし、肉体をも亡ぼそうとするもの。

 

大神が予言者と物語りたまう時は、太古すなわち神代の人間におけるがごとく、その内分(霊覚)に流入して、これと語りたまふことはない。大神は先ず、おのが化相をもって精霊を満たし、この満たされた精霊を予言者の体に遣わしたまふのである。ゆえにこの精霊は、大神の霊徳に充ちて、その言葉を予言者に伝ふるものである。かくのごとき場合は、神格の流入ではなくて伝達というべきものである。伝達とは、霊界の消息や大神の意思を現界人に対して告示する所為をいふのである。』(霊界物語第48巻/天声社から引用)

 

神降ろしとはこのように非常に達成条件のきつい技術であるが、成功の暁には、その神の言葉を一生抱いて、その感動の中に生きることもできたのではないだろうか。

 

ただし神降ろしの場面では、審神者のコメントはよく出てくるが、依代となった人の体験談はまず伝わっていないので、いわば依代の人格はないがしろにされており、依代はあまり相手にされてこなかったという印象を持っている。

 

その意味で,神降ろしは自己主張の盛んな現代人にとっては、レトロな技術と位置づけられるのではあるまいか。

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悟る仕方は三種。神仏に憑依される、神仏を見る、神(仏)人合一

2022-10-30 06:51:41 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第二章】神仏と冥想の関係

2.悟る仕方は三種。神仏に憑依される、神仏を見る、神(仏)人合一

 

人が神仏を悟るやり方の区分は次の三種類。

(1)神仏に憑依される

(2)神仏を見る

(3)神(仏)人合一

 

(1)神仏に憑依される

「神仏に憑依される」(帰神)の神仏は、大神、根源神、主神、大神、大日如来など無形の神を指すのであって、八百万の神、天使、菩薩、邪神、邪霊などの有形の神霊は含まない。

「神仏に憑依される」の欠点は、大神が憑依している際、本人は神仏の言葉を語るが、それを聞く他人は何を語っているかわかるが、当の本人はわからないということ。よって本人は、やがて「神仏を見る」などの方向を目指すことになる。

 

(2)神仏を見る

見神、見仏、見性、一瞥を神仏を見ると言う。これは禅の十牛図では第三図。これも悟りではある。

世間では、神仏を見ただけの人でも師匠、グル、マスターとして活躍しているということはある。

だが、「神仏を見ただけの人」の欠点は、ややもすればその後、元に戻ったり、悪化する人さえいるということ。それでも神仏を見た人は、現代では悟った人として差し支えないのだろうと思う。

 

(3) 神(仏)人合一

只管打坐の身心脱落、密教で言う入我我入、クンダリーニ上昇してモクシャに至るというようなものが神(仏)人合一。

神仏、ニルヴァーナは言葉で表現できないので、神(仏)人合一も言葉では表現できない。

 

神、仏、タオには2つの顔があり、有の側と無の側である。両方とも神、仏、タオであるが、どちらが奥かと言えば、無の側である。有の側はアートマンであるのに対し、無の側はニルヴァーナである。アートマンのことは、古神道では、天照大御神と素盞嗚神の事であり、ニルヴァーナ、無の側が、天御中主神。天御中主神の特性は無形、無声、無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊(出口王仁三郎説)。いわゆる大神とは、無の側の方である。

 

神(仏)人合一にあっては、既に見ている自分はないので、「体験とは言えない体験」と呼ばれる。禅の十牛図では第八図。

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