◎愛、大慈大悲、mercy
神主主義とは、イデオロギーや哲学や思想ではない。神主主義を生きることのできる人は最低でも神(ドン・ファン・マトゥスの言う無限、タオ、宇宙意識)に出会った人だけである。
神を知る手法は大別して3種あり、只管打坐、クンダリーニ・ヨーガ、そして神降ろしがある。只管打坐とクンダリーニ・ヨーガはこのブログでは多々言及しているので説明は要らないと思う。神降ろしは、出口ナオに大神が懸かったような類を言う。
手法は問わず、神を知った者だけが愛、大慈大悲、mercyというものを生きることができる。神主主義とは、神の七つの属性の一つである愛を知った者だけがいる社会において初めて実現するものであって、無私の愛や、他の人のために自分が損をしたり自分が犠牲になることをほとんど評価しない風潮の今の社会では、実現など夢物語である。
神を知り、愛を生きる人間の態度、生きる姿勢は、神と自分が直接につながっているのがベースとなる。神は自分であり、自分は神の一部であることを知っている。しかし自分はいつか必ず死すべきものであることを知っているが故に謙虚である。そして神の一部であることを知っているが故に、自分が殺されようが傷つけられようがそんなことにはこだわらない。
神を知り、愛を生きる人間の生き方は、過去の時代もこれからの時代も本質的には大差なかったのだろうと思うが、これから先の時代には違ってくるところがある。それは次のような意味においてである。
現代文明は、個人の自己を社会において実現するというテーマを持っているマニピュラ・チャクラ型社会であり、個人の願望を実現することが是とされる社会である。それによって、社会の中において、ともすれば自分は、果てしない権力欲や金銭欲だったり、すてきな異性をモノにしたいという欲望を持ちがちなものだ。すなわちこうした個人的欲望の大きさという点では既に神に匹敵しており、自我の極大化はピークに達していると言える。
個人の欲望がこれ以上ないところまで膨れ上がれば、夫婦、恋人、家族から始まって社会の中の人間関係がうまくいかなくなるのは当然の流れである。
そして肥大化した自我には、人間であるがゆえの絶望が必ずついてまわることになる。
個人が大勢存在する社会での自己実現がテーマである社会は、それに相当する上部構造を持つ。それが、古神道でいえば主神1を含む181段の神々のヒエラルキーであり、密教で言えば曼陀羅の諸仏ということになる。主神は人間社会の王と同様に個人の遥か先に位置するものであった。
こうした神々のヒエラルキ-を強調することは、神知らぬ民心を動揺させることなく、社会全体を安定的に発展させる宗教形態として好ましいものであったたため、殊更にこのヒエラルキーが強調されてきたものであると見る。
この意味で、ドン・ファン・マトゥスが、アストラル世界での冒険をリードしながら、全く神々のヒエラルキーを語らないことこそ、アヴァンギャルドな行き方であると思う。中間を省略して、無限対個人、神とたった一人で向き合うのがスピリチュアルの最先端となったのだ。
さて多くの現代人の意識が極北に至り、神との直接コンタクトが可能な状況になっている以上は、いたずらにヒエラルキーを強調するのはいわば時間の無駄。たとえば古神道ならば、スサノオとか、アマテラスとか回り道していないで、天御中主神に直撃すべき時期が来たというような言い方になるだろうか。
そして、こうした神とのダイレクト・ディールが、一体どのくらいの人にとって、切羽詰まった問題になっているかということが、考慮すべきテーマとなる。