アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

神主主義社会への展開

2022-10-16 22:37:13 | 究極というものの可能性neo

◎愛、大慈大悲、mercy

 

神主主義とは、イデオロギーや哲学や思想ではない。神主主義を生きることのできる人は最低でも神(ドン・ファン・マトゥスの言う無限、タオ、宇宙意識)に出会った人だけである。

 

神を知る手法は大別して3種あり、只管打坐、クンダリーニ・ヨーガ、そして神降ろしがある。只管打坐とクンダリーニ・ヨーガはこのブログでは多々言及しているので説明は要らないと思う。神降ろしは、出口ナオに大神が懸かったような類を言う。

 

手法は問わず、神を知った者だけが愛、大慈大悲、mercyというものを生きることができる。神主主義とは、神の七つの属性の一つである愛を知った者だけがいる社会において初めて実現するものであって、無私の愛や、他の人のために自分が損をしたり自分が犠牲になることをほとんど評価しない風潮の今の社会では、実現など夢物語である。

 

神を知り、愛を生きる人間の態度、生きる姿勢は、神と自分が直接につながっているのがベースとなる。神は自分であり、自分は神の一部であることを知っている。しかし自分はいつか必ず死すべきものであることを知っているが故に謙虚である。そして神の一部であることを知っているが故に、自分が殺されようが傷つけられようがそんなことにはこだわらない。

 

神を知り、愛を生きる人間の生き方は、過去の時代もこれからの時代も本質的には大差なかったのだろうと思うが、これから先の時代には違ってくるところがある。それは次のような意味においてである。

 

現代文明は、個人の自己を社会において実現するというテーマを持っているマニピュラ・チャクラ型社会であり、個人の願望を実現することが是とされる社会である。それによって、社会の中において、ともすれば自分は、果てしない権力欲や金銭欲だったり、すてきな異性をモノにしたいという欲望を持ちがちなものだ。すなわちこうした個人的欲望の大きさという点では既に神に匹敵しており、自我の極大化はピークに達していると言える。

 

個人の欲望がこれ以上ないところまで膨れ上がれば、夫婦、恋人、家族から始まって社会の中の人間関係がうまくいかなくなるのは当然の流れである。

 

そして肥大化した自我には、人間であるがゆえの絶望が必ずついてまわることになる。

 

個人が大勢存在する社会での自己実現がテーマである社会は、それに相当する上部構造を持つ。それが、古神道でいえば主神1を含む181段の神々のヒエラルキーであり、密教で言えば曼陀羅の諸仏ということになる。主神は人間社会の王と同様に個人の遥か先に位置するものであった。

 

こうした神々のヒエラルキ-を強調することは、神知らぬ民心を動揺させることなく、社会全体を安定的に発展させる宗教形態として好ましいものであったたため、殊更にこのヒエラルキーが強調されてきたものであると見る。

 

この意味で、ドン・ファン・マトゥスが、アストラル世界での冒険をリードしながら、全く神々のヒエラルキーを語らないことこそ、アヴァンギャルドな行き方であると思う。中間を省略して、無限対個人、神とたった一人で向き合うのがスピリチュアルの最先端となったのだ。

 

さて多くの現代人の意識が極北に至り、神との直接コンタクトが可能な状況になっている以上は、いたずらにヒエラルキーを強調するのはいわば時間の無駄。たとえば古神道ならば、スサノオとか、アマテラスとか回り道していないで、天御中主神に直撃すべき時期が来たというような言い方になるだろうか。

 

そして、こうした神とのダイレクト・ディールが、一体どのくらいの人にとって、切羽詰まった問題になっているかということが、考慮すべきテーマとなる。

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謙虚の聖者パオハリー・バーバー

2022-10-16 22:26:03 | 現代冥想の到達点neo

◎霞を吸う聖者

 

ヴィヴェーカーナンダがベナレスをめざして旅をしている時に、ガージープルで「かすみを吸って生きている聖者」パオハーリー・バーバーと知り合いになった。

 

『パオハーリー・バーバーはベナレスの近郊でバラモンの両親のもとに生まれた。青年時代に、彼はインド哲学の、諸学派を学んだ。のちに彼は世を捨てて、禁欲生活に入り、ヨーガやヴェーダーンタの教えを実践し、そしてインド中を旅して歩いた。最後に、彼はガージープルに落ち着き、その町のガンジス河畔の人目につかないところに小屋を建て、時間のほとんどを瞑想のうちに過ごした。そして何もしないで暮らしていた。それで人びとから「かすみを吸って生きている聖者」というあだ名をつけられた。

 

すべての人は、彼の謙虚さと奉仕の精神に感動を受けたのである。あるとき、彼はコブラに咬まれた。激しい痛みに耐えながら、「おお、わたしの最愛の方からの使者よ!」と言った。

またある日、大が彼のパンをくわえて逃げた。あとを追いかけながら、「どうぞ待ってください。わたしの主よ、あなたさまのためにパンにバターをぬらしてください」と慎ましやかに言った。

 

しばしば、彼は乞食や遊行僧に自分の乏しい食物を与えてしまっては、飢えているのだった。パオハーリー・バーバーは聖ラーマクリシュナのことを聞き、彼を神の化身として大変尊敬し、自分の部屋に師の写真を飾っていた。遠くから、また近くから、人びとがバーバーを訪ねてきた。瞑想をしていないとき、彼は壁の陰から彼らと話しをするのだった。

 

死ぬ前の数日間、家に閉じこもっていた。それから、ある日、肉の焼ける匂いと一緒にひっそりとした小屋から、煙の立ちのぼっているのに人びとは気づいた。この世の終わりが近づいているのを知った聖者は、至高の犠牲(いけにえ)として、主への最後の供物に自分の肉体を捧げたということが発見されたのである。』

(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯 スワミ・ニキラーナンダ/著 法律文化社P95から引用)

 

ヴィヴェーカーナンダは、何度もパオハーリー・バーバーに弟子入りを申し入れたが、彼は最後まで弟子入りを認めなかった。

 

まず、コブラに噛まれても、犬にパンを奪われても、自分のことなどどうなっても自分の知ったことではないという姿勢が自然にあることに驚嘆させられる。

そして自分の乏しい食物を与えねばならない場面がきたときに、それを与えることに躊躇がなく、与えることに勇気すらも必要としていないことに真の謙虚さを見る。

 

最後には屍解して肉体に執着のないことを見せている。いったいどのような動機で屍解するのだろうか。一つの謎である。

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資金運用と地獄的想念

2022-10-16 22:04:33 | 時代のおわりneo

◎ちょっと地獄的意識

 

資金運用とは、利息を取って貸した金を返してもらうことである。つまり生産的な活動とは言い難いところがある。最近盛んになってきた投資信託なんかも元本保証はないが、一定額を預けて、まとめられた金を株や債権に投資してもらって、その利益を分配してもらうというものである。

 

その利益とは、もともとは自分の金ではなく、誰か他人の金であるので、労せずして誰かの金を合法的にもらってしまおうという仕組みと云える。

 

かつてのキリスト教の支配的な社会では、金貸しはキリスト教徒はやらずにユダヤ人がやっていた。イスラム社会では利息を得ることは禁じられていた。日本でも江戸時代でももともとは○○的な職分の者や士農工商最下位の商人が金貸しをやっていた。つまり、こうした金貸や資金運用仲介は、歴史的にタブーに近い生業だったのだ。

 

さる信者が教派神道の教祖出口王仁三郎に地獄の様子を訊いた。

『F:地獄のほうは、そんな職業はないのでしょうか。

出口王仁三郎:それはない。生産的のことはない。争議団を興して他人のものを分配して食おうというようなことを考えてばかりいるのだ。』 

(出口王仁三郎全集二/あいぜん出版から引用)

 

合法的かどうかは別にして、生産的な活動なくして、他人ものを取ろうという心理こそが地獄的なのである。そうしてみると宝くじなども合法的だけど地獄的意識を蔓延させていることに変わりはない。

 

つまり地獄的意識を当たり前と見る現代社会がここに広がっており、社会から見て正常であるとは、ちょっと地獄的な意識であるとも言える(鬱の人も増えるわけだ)、というとんでもない状況である。

 

こうした中で、合法的なら他人のものをとっても平気であると考える輩が増えるのは、昨今の風潮では何の不思議もない。

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他人を働かせて自分が楽をする

2022-10-16 22:03:43 | 時代のおわりneo

◎真剣な行為の喪失

 

今の時代は、他人を働かせて自分が楽をして、金を儲けたり利益を得ることが、まるで善いことのように思われたり、当たり前のように思われたりしている。

 

ユダヤ人が農業みたいに手で稼ぐことをあまりせず、金利や鞘取り、キャピタル・ゲインなどの資金運用で儲けることは知られている。こういうのを広義の「他人を働かせて自分が楽をする」商売と見る。不動産売買、不動産賃貸などもその一種。

 

金を儲けること自体は、白でも黒でもないが、それが行き過ぎると誠の心、物事に真剣に取り組むことから離れてしまう。神は真剣な行為の果てにきらめくことがあるからである。

 

日本庶民の生活は、電気炊飯器、電気洗濯機、電気・ガス風呂釜を始めとし、家電によって、幸か不幸か、炊飯を真剣に行う、洗濯を真剣に行う、風呂を真剣に沸かすということから離れてしまった。

 

つい50年前くらいまでは、このように日常の生活に必要な行為そのものが真剣な取り組みを必要とする時代だった。

 

時代は下がって、一日24時の行住坐臥の中に一個も真剣な行為なしで済ませている人間が大量に出現した。これが新種族「歩きスマホ人」出現の原因である。戦後の家電の普及により、大衆は余暇の拡大を得たが、その余暇は、スマホ&モバゲーによってほとんど奪われたのだ。ほとんど無思考で、ほとんど娯楽だけで、物事に真剣に取り組むことを知らないこんにゃく人間みたいのが、闊歩している。

 

大本神諭大正元年旧七月三十日に「悪のやり方は我が楽をしてひとの苦労で出世致そうとするから、強い者勝ちのくらがりの世になりて云々」などとある。

 

10年くらい前は、悟りのさの字くらいは意識の端に上っている人が多かったが、今はそれすらも見えないほど人々の暗がりが深まったかも知れない。

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真の幸福とは何か-2

2022-10-16 07:41:27 | 覚醒のアーキテクチャー

◎社会における自己実現な世界観との相剋

 

世俗的幸福一般は、永続せず、不安定だと見れば、進学して、就職して、結婚してあるいは結婚せず、子供を持って、組織で就職したり、起業したりするというモチベーションは一気に下がる。

 

だが、社会人として暮らしていけば、属する組織や集団の目標を達成するために、あるいはその分野で一位になるために他の組織、集団を排除するというような、本来地獄的な行動を余儀なくされることはある。

 

最近の人事評価では、個人の業績目標は必ず集団目標と連動しているもので、優秀で従順な構成員であればあるほど、他のものを楽して取ったり、力関係が当方が優位であれば強引に奪ったりとする行為が求められる。このような行為は世間では悪いことだとはあまり意識されることはないのだが、何年もこうしたことを繰り返していくうちに、それが習い性となってしまう人と、堪えられなくなっていく人の二種に分かれる。

 

特に自分の行った功績を報告するなどというのは、冥想修行者の基本行動パターンである『自分を小さくしていく。謙遜、無私、見返りを求めない。』とは逆方向となり、いつも当惑させられたものだ。

 

なお悪とは、自分を大きくしていくことである。出口王仁三郎によれば、地獄の人は、自分は働かないで楽して他人のものを奪うことや、自分のメリットのために他人を殺すことばかり考えたりしているという。これは、現代では、投資と呼ばれたり引き寄せの法則と呼ばれたりしているが、実はいずれも地獄の生業である。

 

このように、冥想修行者は常に自我をなくしていく方向性で考えたり行動することを求められる一方で、世間で生きるには、地獄的な集団や組織の規則、社会通念に従うことを求められる。なおかつ日本は同調性を強く求められるので、他人と違う天国的な行動パターンは嫌われるので、どうしても目立たないようにすることが必要となる。

 

世間は、このように地獄的であり、世間を渡りつつ冥想修行を継続するには、社会的な自己実現をしていこうとする一見前向きだが地獄的世界観と、天国至高の無私・謙遜・正直の世界観を、平行して生きるということがどうしても必要になる。二重の世界観である。

 

だが厳しく見れば、精神は天国的一本で行けるが、肉体は物質であるがゆえに地獄的なところは避けられないところがある。こうした理屈はわかっていても二重の世界観はなかなかに苦しいものである。

 

この二重の世界観を考えれば、幸福について、単純に願望実現が幸福だなどと嘯くことはできない。

 

また一方で、世俗的幸福一般は不安定なものだと人生を見れば一気に厭世となり、釈迦在世当時の釈迦教団では自殺者が続出したという。

 

修行時代というのは、そういうものであって、世間一般に幸福と考えられているものも、その先の将来を考えれば単純に喜ぶわけにはいかない。

 

一方で、聖者覚者も、身内が死ねば泣くし、親しい者に世間的慶事があれば喜ぶし、不愉快なことがあれば怒りもする。

 

こうして二重の世界感を前提にした何が幸福かということについて、割り切りの仕方は人それぞれだが、冥想修行者は隠れて善行を行い、隠れても悪いことはしないというのは基本パターンなのだと思う。

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