◎神仏を知りクリーンにしてクリア
兄である源頼家を北条に惨殺されて将軍になった弟源実朝の性格は、頑固だが、情に厚いとされる。
金槐和歌集は、古来清澄と評されるが、その歌から彼の悟境を探ってみる。
(春)
正月一日よめる
今朝みれば山も霞みて久方の天の原より春は来にけり
コメント:春は上なる世界から来ると感じていたのだろうか。
春のはじめ
かきくらし猶(なほ)降る雪の寒ければ春とも知らぬ谷の鶯
コメント:寒さに震える私と寒さを知らぬ鶯の二重の自己認識は、普通ではない。
青柳の糸もてぬける白露のたまこきちらす春のやま風
コメント:青柳から山風に移る視点のダイナミックさは、常のものではない。
(夏)
夏の暮れによめる:
昨日まで花のちるをぞ惜しみこし夢か現か夏もくれにけり
コメント:花の散ることばかり気にしていたら、夢幻のように夏も暮れてしまっていた。
夏はただこよひばかりと思ひ寝の夢路にすずし秋の初風
コメント:夏も今夜だけと思って寝入ったら、もう秋の初風に涼しさに気づく。
(雑)
あら磯に浪のよるを見てよめる
大海(おほうみ)の磯もとどろによする波われてくだけてさけてちるかも
コメント:大海も自分、波も自分。大海はアートマン、波は自分。
平安時代以前には、神人がとてもすばらしい和歌を詠んで現実にある難問を解決するのが当たり前とされる通念があった。
よって皇族、公卿が和歌をたしなむとは、和歌を楽しむということではなく、和歌で為政するということ。和歌とは言霊であり、言霊が現実を左右し、現実を操作するというのは、古神道家では当たり前の認識なのだろうが、和歌と言霊と政治の関係についてさんざん目にしてきていたはずなのに、今頃わかったことが恥ずかしい。なおその操作の仕方は、常に天機、天命に依るのであって、恣意はありえない。
また言霊家は、まともな和歌を歌えなければ一人前の言霊家とは言えまい。
出口王仁三郎は、その辺の呼吸を説明しているが、気がついている人は少ないのだろう。
さて実朝の心中は、まるで澄み切った鏡のようであり、大はマクロで自然全体を見た次にミクロの草木事物を見て切れ目がない。只管打坐的なクリーンさと申せばよいのだろうか。クリシュナムルティの自然描写を見るが如くでもある。
賀茂真淵や正岡子規という歌人からの評価が高かったのも首肯できる。
参考までに、和歌と言霊と現実操作の連動についての出口王仁三郎の言及を挙げる。
『今日にては神人が優雅にして高潔なる歌をもつて、その意志を述ぶるもの甚だ尠く、ただ上位の神人の間にわづかに行はれ居たりける。ゆゑに今回の常世の会議においても、神人の自由にまかせ、直接の言辞によるものと、単に歌のみに依つて意志を表白するものと、言辞と歌とを混合して口演するものとありしなり。言霊の清く朗かなる神人は、凡て和歌によりて難問題を解決せむと努力したりける。』
(霊界物語 第4巻 第16章 善言美辞から引用)
さらに、
『天祥地瑞の物語中、神々の御歌詠ませ給ふとあるは、御言葉の意なり。神代は現代人の如く不成立なる言語なく、互に天地の音律に合へる三十一文字を用ひ給ひしが、所謂今日の和歌となれるものにして、歌ひ給ふと言ふは、申し給ふ又は仰せ給ふ、語り給ふ、宣り給ふの意義と知るべし。神代の神の言葉を、現代人は総て歌として扱へるを知るべし。』
(霊界物語 第80巻第16章 火の湖から引用)