アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

一点と世界全体、一瞬と永遠

2022-10-09 17:22:18 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎華厳経とドン・ファン

 

華厳経から

『一一の微塵の中に仏国海が安住し、仏雲が遍く護念し、弥綸して、一切を覆う。

一つの微塵の中において、仏は自在力を現じ、神変することもまたかくの如し。

諸仏及び神力は、盧遮那の示現したもうなり』

(華厳経盧遮那仏品 第二之二)

 

一粒の微塵の中に巨大な仏国土が存在している。

 

これに対してヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥス。

『「一瞬が永遠にもなるということを知ってるか?これはなぞなぞなんかじゃないんだぞ。事実なんだ。

ただし、お前がその瞬間に乗って、自分の全体性をどの方角へも広げていけるようにそいつを利用すれば、

の話だがな」』

(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

 

さらにドン・ファン、

『いまこの瞬間、お前が不滅というものに囲まれているのがわかるか?そして、お前が望みさえすればその不滅というものを利用できることを知ってるか?』

(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

 

ドン・ファンは、一瞬が永遠であることを示し、それすらも利用できることをほのめかす。この言葉に続いて彼は、自分の全体性をまとめて、肉体という境界を越えて出ることすらもできると言う。

 

自分の全体性とは本尊のことであり、アートマンのこと。一即全、一瞬即永遠とは、無味乾燥な戯言にも聞こえるが、そこには体験とはいえない体験の裏打ちがある。

 

肉体から出ると言ってもヘミシンクのことではない。神人合一を見ているわけだ。

 

例の広島県三原の隠遁者エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父も華厳経のことは評価していたようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神に貫通される

2022-10-09 17:03:47 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎自分が悟る覚悟の時代

 

バンジー・ジャンプならば、急速な下降の後、ゴムひもの力で、水面すれすれから正気になって帰って来れることを知っているから、挑戦をしてみようという気持にもなるだろう。

 

しかし自分をすべてオープンにすること、自我を捨て去ることは、再び正気に帰ってこれるかどうかについて、何の保証もない。それに直面した時、悟るか、発狂するか、自殺するかのいずれかになる。どれになるかは何の保証もない。どうしても悟りたいと頑張っても、私にはこんなに金があると誇ってみても、私にはこんな純粋な道心があるとその敬虔さを確かめてみても、悟れることについて何の確証もない。

 

アセンションで空中に携挙されるとは、そのビッグ・チャンスをものにできること。空中携挙されかかっても、手から砂のこぼれ落ちるようにバラバラと地上に落下する人も少なくない。

 

錬金術師ドルネウスが「すなわち、なんびとも汝らの求める天に昇ることはできない、もしも(汝らの求めない)天から降ってくる方がその者を照らし出さないのなら」と語るように、それはある種の天恵、僥倖を待たなければならないことが知られている。

 

それを呼び込むのは、その人のある種の情熱の多寡だし、素直さみたいなものなのだろう。

 

必要なファクターはそれだけかと問われても、そんな単純なものではないだろうと思うけれど・・・単純な概念規定を超えているから、覚者は皆言葉では説明できないと言っている・・・・くらいのことしか言えない。

 

人間を超えることだけが、人間としての苦悩を超えることだというのは理屈としてはわかるが、そのルートを辿っていけば、最後に人間をやめる、人間を飛び越すステージが必ず出てくる。これも論理的帰結。ダンテス・ダイジは、これを「神に貫通される」と表現した。

 

人間的営為の青臭さにほとほと愛想が尽きた現代人。

しかしこのようなハイリスク・ハイリターンなことに、財産も社会的地位も家族の団欒も、これらすべてを賭けるほど馬鹿ではないとも言えるし、賭けに出れないほど人生に対する洞察力が足らないとも言える。

 

「人間らしく生きる」とは、大死一番を死に切ってから初めて言える言葉。ロハスや、無数の気づきの積み重ねや、出口のないアストラル・トリップの先にあるものではない。

 

大多数の人がこうした勝負に出なければならないと考えないのは、その魂の成熟度がいまひとつなせいだけなのだろうか。冥想というメソッドとその結果の真相・真価について、いささか世間に知名度が足らないせいもあると思う。

 

高価なブランド品にも、芸人のお笑いにも飽き足らない人々。そんな人々がこのようなリスクが高いものに至るライフ・スタイル=冥想にチャレンジする「大人の覚悟」を持つ人が増える時代こそ宗教の終りの時代なのだと思う。イエスや釈迦や老子などの他人の悟りの真似をするのではなく、自分が悟る覚悟の時代。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地でのオープン・マインド

2022-10-09 16:58:31 | 時代のおわりneo

◎人間の現実と救い

『リフトンはdeath in lifeの中で被爆初期の状態を「被爆直後の経験で心理学的に最も重要なことは普通の生活体験から急激に、しかも完全に驚くべき死と遭遇したことである。死そのものを想像すること以外に生と死が交錯し、転倒し、もはや区別できないという感覚に襲われた被爆者も数多くあった。

生と死の交錯に深い関係のあることは、個人的社会的秩序の崩壊すなわち人間関係の喪失と物理的環境の喪失である。秩序の突然の崩壊は人の心に深い影響を及ぼした。」』

(原爆放射線の人体影響1992/放射線被曝者医療国際協力推進協議会編/文光堂P146から引用)

 

これは原爆の被爆者についての記載である。だが、この状態は、3.11の津波の被害で家を失った人も同じである。帰って安らぐ家を失い、家族、隣人が亡くなったからである。

伝統的な心理学では、被災者は「心理的閉め出し」とよばれる、心の扉を閉ざし意図的に無感覚となる状態に入り、やがて徐々に旧知の人との人間関係を復活させながら社会性を回復していくものとされる。

現代アメリカの覚者ケン・ウィルバーは、この初期段階で、あえてオープン・マインドにすることが大切であると説く。

この残酷で、非人間的な光景にさらされた、人間にとって最も先入観が揺らいだ心理状態において、心を開いて見よと、ケン・ウィルバーは勧めるのである。

昨日までの社会性が、突然崩壊した中で、あえて正気でいなさいと言う。

NHKの番組の被災者からのビデオ・レターで、何人もの被災者が「私は、生き残って元気です。」と語った後に、被災者はまず泣くものだ。

不条理に直面せよ、人間の現実を直視せよ、と言うは易いが、残酷なものだ。でもそこを越えていかないと、人間のあらゆる苦悩を超克するなんてのは夢物語なのだろうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人と神の「実際のところ」-4

2022-10-09 06:36:51 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-4

 

(原文4)

『すべては不可能であると知ること———

それが、自殺と発狂と悟りへの出発点である。

充分以上の情熱のみが、不可能と可能との区別を忘越せしめる。

 

思考は常に解答を出したがる。

たとえば「不可解」だとか「全体性」だとか。

こんなものどもは、ガラクタでさえない。

快楽こそ悟りなのだ!

 

快楽が、

あなたのものでもないように

悲しみも不安も

あなたに属しはしない。

では、あなたとは何だ?』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

人間の営為は、死によってすべて奪われる。そこまで俯瞰すれば、『すべては不可能であると』知り、絶望のどん底に叩き落され、自殺と発狂と悟りのスタート地点に立つ。

その事態に立ち至るほどの情熱がなければ、目も耳もふさぎ石のようになって、それまでの世界観に逃げ込もうとし、東日本大震災時にアメリカの覚者ケン・ウィルバーにオープン・マインドを呼びかけられたような羽目になる。

 

情熱の多寡の問題は、実は『自殺と発狂』と『悟り』の分岐の原因にもなるのだが、その点については、『充分以上の情熱』だけが『悟り』を可能ならしめると示す。

 

「不可解」とは、明治36年旧制一高の学生であった藤村操が華厳滝で投身自殺したのだが、その遺書に万有の真相は不可解だから自殺するというのがあったことが念頭にあるのだろう。

また「全体性」とは、クリシュナムルティの本に『生の全体性』というのがあり、それを指すのではないか。ダンテス・ダイジは、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」の巻頭で、クリシュナムルティの教えが世に聞き入れられるならばこの本を出す必要はなかったと呈示しているが故に。

 

そこでいきなり『快楽こそ悟りなのだ!』と故意に誤解を生む言い回し。快楽の意味は次の二つの用例でわかる。

 

『人間に与えられた

至上の喜悦は 

なにもないというなにもないという体験だ

快楽の中の快楽の中の快楽・・・

まるで、この12月の暖かい一日のよう 

まるで一目ぼれのようなもの』

(老子狂言/ダンテス・ダイジ/【なにもかもいいんだ】から引用)

 

さらに

『神秘体験はいいものよ〜〜 

すべてを越えた快楽はいいものよ〜〜

絶対無・空・解脱・ニルヴァーナ・神は、

いいものよ〜〜〜』

(上掲詩【なにもかもいいんだ】から引用)

 

すべてを越えるのが快楽。だが、その快楽はあなたのものではない。ニルヴァーナとは、なにもないこと。

 

一休は、狂雲集で自分は70過ぎていながら30代の目の不自由な森女と爛れた快楽の日々を送った。室町の当時は一休だけが悟っていた時代だが、今のあなたの快楽は、それでは許されますまい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする