アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

その体験の評価

2022-10-10 10:53:33 | 現代冥想の到達点neo

◎感受性と智慧と至福千年

 

精神世界を語る上で最も重要なポイントと思われるのが、神秘体験や窮極の体験である。

しかし体験だけでは、何も先へ展開しない。評価できないと他者へ伝達することが難しいからである。

 

体験の中でも特に重要な体験は臨死体験と神人合一の体験である。

臨死体験の場合、一部の人はその体験を語ることができるのに、一部の人はその体験を語ることはできない。なお臨死体験には、窮極に至らないハズレも多い。

 

神人合一の体験に至っては、体験していない人は勿論それを語ることはできないし、体験した人でもその体験は言葉では語り得ないものであるがゆえに語ることはできない。

 

体験には評価する者がいて初めて他人がその体験を正当に論ずることができる。

 

それでは臨死体験を語れる者と語れない者の差は何か。しかしそれ以前に、体験者が臨死体験をどのレベルで見ているかという問題があって、語られた臨死体験の内容が必ずしも正しいものではないということがある。

 

よって臨死体験を語れる者と語れない者の差は、単に起きた出来事を言葉にできるかどうかの差であって、その内容が真正なものかどうかとは別の問題であるように思う。

 

古神道ではこの点をクリアできるように審神者というものを置く。審神者は、臨死体験の判定者兼解釈者ではなく、憑依してきた神霊の判定者兼解釈者なのだが、求められる役割は臨死体験評価でも同様である。

 

神人合一体験であっても審神できる人物もいる。釈迦が涅槃に入るというのも神人合一なのだが、以下のように釈迦が涅槃に入る様を段階別に精緻に審神できた人物がいたわけだ。

 

『その時に世尊は(はたしてアヌルッダの答えたとおりに)、

滅想定から出て(無色界にもどって)、有想無想定に入り、

その有想無想定から出て、不用定に入り、

その不用定から出て、識処定に入り、

その識処定から出て、空処定に入り(ここで四無色定を終えて)、

その空処定から出て(色界に戻って)、第四禅に入り、

その第四禅から出て、第三禅に入り、

その第三禅から出て、第二禅に入り、

その第二禅から出て、初禅(第一禅)に入り(三たび繰り返して)、

 

その初禅から出て第二禅に入り、

その第二禅から出て第三禅に入り、

その第三禅から出て第四禅に入り、

その第四禅から出て、ここに仏は完全なるニルヴァーナを遂げました。』

(阿含経を読む(下)/青土社P952-953から引用)

 

神人合一を審神できるような人物であれば、過去に窮極の体験は経ているだろう。評価するには、それが起こったことを感知する感受性が要る。更にそれが何を意味するのかを理解する智慧が要る。

 

それら二つを兼ね備えた人物ならば、その感受性と智慧はその行住坐臥に自ずと表れる。このように悟りが所作・行動に現れることを敢えて『悟りとは態度である』という場合がある。

 

昨今悟りについて体験至上主義みたいな扱われ方をする場合が多いが、悟りはそれがどんな高みを持ったものであっても一時であって、永続することはない。しかし経験した者からは、その体験をしたことによる恵みが一挙一動から溢れ出る。それが『悟りとは態度である』ということ。

 

世の中に覚醒とは何か、悟りとは何かを感ずるのが当たり前の人ばかりになった時、それを霊的文明あるいは千年王国と呼ぶ。覚醒も悟りも、死からの恐怖、自分の死、自分のまわりのすべてのものの死を超克した先にあるものだから、死を越えている。

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悟りは体験ではない

2022-10-10 10:39:44 | 現代冥想の到達点neo

◎文字通りいつでも死ねる

 

ダンテス・ダイジが、「悟りとは、神秘体験ではない。悟りとは態度のことだ。」と語っているところがある。

 

この態度のことを、冥想者の日常的な態度である、

常に、素直であること

常に、正直であること

常に、情熱的であること。

常に、リラックスしていること

のことだと思い込んでいたが、そうではなかった。

 

いつでも悟りが到来する態度のことである。それは何度でも悟れるということ。何度でも悟れるというのは、2度目の悟りというピーク・エクスペリエンスを待つ準備ができていないと2度目はないし、3度目4度目ともなるとさらに何回もの人生をかけた準備が必要となるだろうと思う。

 

ところがつらつら思い出してみると、まさに悟りの到来をいつでも待っているという態度を生きた人物がいた。それはクリシュナムルティ。

 

クリシュナムルティの冥想録をみると(講演集は別)、悟りがothernessなどの名詞でもってしばしば到来するという表現をもって書かれている。

 

これに対して、道元は、天童如浄の下で最初の身心脱落し、2度目への憧憬が正法眼蔵という哲学書になったと見ることができると思う。

 

出口王仁三郎は、最初の死と称する高熊山の洞窟での死の修行が最初の悟り。以後、彼の死の記録にはお目にかからないが、彼は六度死んだという。死の体験後しばらくは体調が戻らないようなので、長期間寝込んでしまった期間を探れば、いつ死んだかがわかるかもしれない。

 

身心脱落、中心太陽への突入という2種の究極の悟り、最終解脱は、呼吸停止、心拍停止を伴うとされる。そしてそれは、何かの拍子に生の世界に戻らないことになるかもしれない。

 

悟りとは態度だということは、文字通りいつでも死ねるということであって、素直だ、正直だというたぐいの人格的なことでは全くないということに最近思い当たった。

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命の悲しみ

2022-10-10 10:37:08 | 現代冥想の到達点neo

◎本当に本当に悲しめよ!

 

七つの身体、七つのチャクラ、イダー、ピンガラー、任脈、督脈、そんな神秘生理学のことなどどうでもよい。高級神霊、帰神、他神の憑依した神懸または神憑、霊言、過去世の因縁、カルマ、アストラル・トリップ、そんな霊的なことどもは、どうでもよい。柔軟体操、クンバカ、ヴィパッサナー、陀羅尼、マントラ、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、シッディ、体験至上主義、そんなことはどうでもよい。

 

そこでダンテス・ダイジは、そんなものは全部ままごとであって、「悟りとは命の悲しみのことだ。」と喝破する。

 

しかし命の悲しみにまともに向き合うことに、通常の常識人、社会人は堪えられるものではない。モバゲーやら、趣味やら、いろいろの自己欺瞞や言い訳でもって、瞬時にそれと直面することを回避しまくっている。

 

この渇いた時代、乾燥しきった地獄のような時代に社会適応するためにはそういう「命の悲しみ」に向き合うことを瞬殺する技が必要かもしれない。しかしそれに頼っていては、何も本質的なことは起こらない。

社会への適応の名の下に自分の中の真人間を殺しているのだ。

 

いろいろ読んだ中で、何の行や冥想もわきに置いて、命の悲しみに直面できて悟ったのは、キュブラーロスの出会った黒人の掃除婦である。実際にそういうことが起きた例は無数にあるのだろうが、それに気づいて世に伝えられることは少ない。

 

あらゆる理屈や、神秘的パワーや、素敵な体験にこだわることなく、『本当に本当に悲しめよ!』ってダンテス・ダイジは言い残した。

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ダンテス・ダイジの著作と断簡について

2022-10-10 10:34:10 | ダンテス・ダイジの風光

◎どうでもいい、には二つある

 

ダンテス・ダイジの著作は、「超宗派的冥想」、「メディテーション・トラベル・ガイド」、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」と「アメジスト・タブレット・プロローグ」だけである。

 

詩集「絶対無の戯れ」は遺稿をまとめたものであり、講話録としては、渡辺郁夫氏のまとめた4冊の「雨宮第慈講話録」(十三番目の冥想、素直になる、君がどうかい、最高に生きたい)がある。

 

この他に最近ネットに出てきたものに、

老子狂言

戯れに冥想を

などがある。

 

基本線は、「著作」は万人向けに読まれることを意識したものであって、それ以外については、ダンテスの係累(弟子、知り合い)向けに限定的に残された断簡であるということだと思う。

 

著作については、冥想道についても冥想体系全体と冥想への取り組みがある程度論理的に説かれているが、そのロジックは、ニルヴァーナの体現者としてニルヴァーナに日常から出てきているものであって、通常の社会人の常識から理解することが困難な部分が多々ある。

 

絶対無の戯れは、勿論珠玉の作品が集まっているが、彼の詩の中でも社会人がすんなり読めるようなのを集めた印象がある。

これに対して老子狂言などは、いわゆる通俗社会人や駆け出しの冥想修行者が読んでも理解不能なものがほとんどである。

 

 

例えば「どうでもいい」【老子狂言】から

「どうでもいい

 

どうでもいい、には二つある。

始めの、どうでもいい、は、

キマッテいない。

終りの、どうでもいい、は、

ステキだ。

 

そして、

初めも終りもないどうでもいい、は、

どうでもいいもどうでもいい!

 

みんな、

どうでもいいんだ。

みんな、

オレなんだ。」

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

これなどは、表面的に意味が取れるだけに、あらゆる低級俗悪なパフォーマンスを惹き起こしえる危険な詩である。

 

私ならこの「どうでもいい」は、悟った者が言う「どうでもいい」は正しいが、悟っていない者が言う「どうでもいい」は嘘であると説明するだろう。

 

ダンテス・ダイジは1950年生まれだから存命していれば72歳。彼は次の転生でフロリダ沖に再浮上してくるネオ・アトランティス大陸に現れると予言したが、それまでの大峠・大転回はいまだ到来していない。はて、人間はそれに耐えられるほど成熟したのだろうか。

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ダンテス・ダイジの人類史観-6

2022-10-10 10:32:57 | ダンテス・ダイジの風光

◎人類史としてのまとめ

 

ダンテス・ダイジの断簡の一つ「戯れに冥想を」では、彼は7万年前に地球へやってきたとある。それは21世紀の人類にとって、あまり重要ではなく、肝心なところは、今から1万2千年前のアトランティス滅亡によって、当時の支配的宗教だったアトランティス密教が世界に散っていったこと。

 

そのアトランティス密教伝道チームは、エジプト、ギリシア、中米、北欧、日本などでそれぞれに神話、古伝承など、つまり旧約聖書、ゾーハル、北欧神話、エメラルド・タブレット、あるいはプラトンがアレクサンドリアの神官ソロンから聞いた伝承、古事記などを形成していった。

 

このことは、1万2千年後の現代において、アトランティス黄金期を上回る至福千年が始まることを予定して、かの時代から布石を打っていたということ。

 

アトランティス人は、感情・想像・記憶パワー全開の感情人であって、アトランティス時代は3期あって、初期、神を人が生きる黄金期、我欲に混乱する末期があった。現代人は知性人だが、まだ1万2千年前に予定されていた万人が神知る時代となってはいない。

 

アトランティスという比較的小さな大陸が沈没しただけで、感情人が知性人に切り替わるのか。そこは、アトランティス以外は、文明的にも劣っていたし、都市発展の規模も小規模だったのだろう。アトランティス滅亡後は、アトランティス密教の神髄も、アトランティス物質文明の精華も徐々に失われ、精神も物質も下降の一途をたどった。

 

ユクテスワの説く地球人類の2万4千年周期説では、前回の頂点の時期は紀元前11500年。(それから13500年後が現代。)これから1万2千年間、人間精神は下降を続けた。現代は最も神から遠ざかった時代からわずか1200年ほどを経過したポジションにある。前回の頂点の時期は、微妙にアトランティスの黄金期を示唆する。

 

かくして、人間精神が感情人の残滓を払拭し、知性人としてこの21世紀に神が人とともに生きる新たな千年王国建設の方向性が定まったのが、紀元前3120年。

 

紀元前3120年は、古代エジプトの第一王朝で上エジプトのナルメル王が下エジプトを征服しエジプトを統一した頃。ここから、神の現存を確認しきれぬもやもやした中有的な5千年が始まった。

 

人類は、最終的にその知性で物質文明、火力エネルギー主体の文明を極め、知性人としての成熟を20世紀末までに図る。

 

知性の成熟の先には、自我の死の自覚、それは自分だけでなく、家族も死に、街も死に、海も死に、空も死に、地球も死に、宇宙が死ぬということだが、それが起こって初めて本当の愛に出会う。

 

肉体が死んでもまず自我は死なない。だからチベット死者の書のようなものがある。

 

『知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている』とは、死なくして本当の愛を知ることはできないということ。本当の愛とは、大慈大悲。本当に悲しいこと、悲しみの極みが愛の極み。

 

人間は、欲望をエンジンとして、文明という回し車を回転させている。その回転により、感情人は、知性人に進化し、21世紀にアトランティス文明をはるかに上回る規模の地上天国を実現させようとしている。

 

欲望のゲーム、喜怒哀楽のゲームは常に満足と苦悩の間を往復し、決して終わることがないがゆえにそのゲームは既に終わっている。

 

『現在の地球ロゴスは、まだ人間に固定観念と抑圧と

を必要とする階梯にあるからである。』

(戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用)

 

ほとんどの現代人は、固定観念と抑圧をなくすることから冥想修行を始めなければならない。現代社会というのは、固定観念と抑圧そのものだが、そういう環境、出生直前にそういう子宮を選んできたのが自分自身だということも、死ぬものとて何一つない未知なる国に生きるには重要なファクターだと思う。

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ダンテス・ダイジの人類史観-5

2022-10-10 10:31:14 | ダンテス・ダイジの風光

◎パーフェクト・チェンジング・モメント

 

ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。

『どうやら、欲念相続としての現代人類は、知性理性を「知恵」にまで進化させ、全人的統合を果たさねばならぬらしい。それも、いかなるルールも方法も保証もなしで・・・

 

 私は私に直面しよう、知性を英知に変容せしめる何ものかを。

 あなたはあなたに直面しよう、理性を知恵に変容せしめるサムシングを。

 

 なぜなら

 欲望の遊戯に終わりはないだろうから

 なぜなら

 マーヤのゲームに果てはないだろうから』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

欲念相続は、正念相続からの造語なのだろう。あらゆる欲望を繰り返し持ち続けるという意味、欲望の遊戯。

 

『知性を英知に変容せしめる何ものか』、『理性を知恵に変容せしめるサムシング』の何ものかも、サムシングも、それを語った途端に嘘になるから言わない、言えない。

 

ここでは、自分自身に直面するアプローチで説明する。やれ楽をして金を得たい、素敵な異性と知り合いたい、うまくやりたい。やれ努力はせずに名誉も地位も引き寄せたい、志望校に合格したい、精神も肉体も健康になりたい、云々。人はそうした夢の途上で、自分自身に直面せざるを得ない。

 

なぜならば、人は、一つの願望、欲望、夢が成就すれば、必ず次のそれを作り出して、それを無限に繰り返すものだからだ。そしてその夢追いは、必ず終わる時期がある。それを精神的成熟ともいう。それは、今生かもしれないし、来世かもしれない。だが時代全体は待ったなしのカウントダウンに入っている。

 

ダンテス・ダイジの老子狂言には、サムシングという別の詩もある。ここでは、サムシングそのものがストレートに語られているが、それは、多くの人が想像しているサムシングではないだろう。夢も時間もない、だが、「あらゆる」であり、何もかもなし。

 

『サムシング

 

人は、

その夢の途上で倒れる。

ただ、

夢も時間もない、

あらゆる絶対体験—

パーフェクト・チェンジング・モメント—

あらゆるかたちでの、

エクスタシーのサムシングのサムシング。』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

そのサムシングをゲットするには、いかなるルールも方法も保証もない。だが、その全人的統合にトライする時節がやって来たのだ。

 

※全人的統合:原人間(アントロポス、アダム・カドモン)、伊都能売(いづのめ)のイメージ。

※ルールも方法も保証もない:特定の宗派も特定の冥想法の限定もなく、大悟覚醒に必ず至ることができるという保証もなく。

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ダンテス・ダイジの人類史観-4

2022-10-10 10:30:57 | ダンテス・ダイジの風光

◎知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている

 

ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。

『現代西洋商工業都市文明の私達人類は、知性を中心として人間性の統合を果たさなければならない。ウサンクサイ、まやかしのオカルティズムや、単純な自然回帰という退行的願望や、センチメンタルな意味での愛情や友情やカウンター・カルチャーに逃げ込むことなぞできはしないのだ。

 

だからこう言える。二〇世紀末の現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っているのだと。これは決して異論ではない。花が花としての限界に来たとき、実が出てこざるをえない。それは、花にとっての絶体絶命の闇である以外になく、実にとっては新しい未知なる光明への第一歩なのだ。

 

もっとも、知性・理性・自我の虚無ゆえに肉体的な意味で死んだとしても、そこに本当の安らぎなぞありはしない。それは、肉体的に死んでみたら納得できることだろう。』

(ダンテス・ダイジの老子狂言から引用)

 

知性の時代は自己実現の臍のマニピュラ・チャクラの時代であって、自我の死を経ないと愛のアナハタ・チャクラに進むことができない。これは、神秘生理学的な視点だが、わかったようで何もわかっていない説明である。

 

『知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている』とは、死なくして本当の愛を知ることはできないということ。本当の愛とは、大慈大悲。本当に悲しいこと、悲しみの極みが愛の極み。

 

死によって本当の愛を知ると説くが、彼は死に方そのものを問題にしている。知性の限界を試すとして、知性・理性・自我の虚無ゆえに自殺しても本当の愛には届かない。

 

ここで言っているのは、単なる病死、自殺、天変地異・核戦争などでの大量死などの肉体の死ではなく、自我の死のことである。

 

そのことを確認したければ、実際に死んでみたらよいと、彼はダメを押している。クンダリーニ・ヨーガは死の技術と言われるが、肉体死の技術ではなく、自我の死の技術なのだろう。

 

まことにこの辺は、世間的には、大いに誤解や批判を生む言説となり得るが、イエスだって、釈迦だって、「自分勝手な自我」の死を説いていることに変わりはない。ダンテス・ダイジの説明の仕方が、あまりにもストレートなだけである。

 

チベット死者の書では、耳元で死に方を囁くのだが、その根本となっている原理を率直に説明しているだけなのだ。我々は、二〇世紀末を越え、二一世紀の現代人として、進歩して見せねばならぬ。

今こそ、絶体絶命の闇。それを越えて行くのだ。

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ダンテス・ダイジの人類史観-3

2022-10-10 10:29:49 | ダンテス・ダイジの風光

◎死ぬものとて何一つない未知なる国をわれは歩きぬ

 

ダンテス・ダイジは、アトランティス大陸沈没後の紀元前九千年頃、彼は呪術師にして賢者ということで、当時のエジプトの年若き王子ネメシス四世の家庭教師であった。その日、ダンテス・ダイジは、ギリシア地方を、ネメシス四世とともに旅に出ていた。そしてアトランティス滅亡直前に流行した次の歌を口ずさむ。

 

『死ぬものとて

 何一つない

 未知なる国を

 われは歩きぬ----

 

確かに私は、この国に生まれた。しかも私は、この国のものすべてが、何もかもが凍りついた見知らぬ獄舎となるのを見た。

 私が地獄なのだ

 それに間ちがいない。

 宇宙が地獄なのだ

 それに間ちがいない。

 

 私は宇宙の

 トラワレ人で

 頼るものなぞ

 何一つとてない。 

 

しかも私は生きている。一つの小っさな火が一つの夢を、一つの地獄を一つの天国をもたらす

。一つのサクランもだ!

 

一つの小さな煙の名は、ウミトと呼ばれることもある。

私はこれを呪術師ドン・ファン・マトゥスの霊から授かった。まるで専売公社の自動販売機から、セブンスターを買うほどの努力によってだ。』

【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】

 

この一節は老子狂言からではないが、この光景は現代日本とシンクロする。

 

『死ぬものとて 何一つない 未知なる国』とは、神秘そのものである、生死、男女、陰陽などあらゆる区別差別を超えた『有』なる第六身体。

 

ダンテス・ダイジは、近代西洋文明崩壊前夜の日本という国に住んでいる。それにシンクロして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

 

さらに、この国がSNSなどネット、TV、監視カメラ、生体認証などでの行動、思想、信教、言論のコントロールにより、社会全体が一つの獄舎になろうとする光景を見た。出口王仁三郎も同様のシーンを幻視している。

 

そして、アトランティス大陸が沈没したあとのダンティスのギリシアでの一場面を回想してリフレインしている。

 

『死ぬものとて

 何一つない

 未知なる国を

 われは歩きぬ---

 確かに私は、今、この日本という国に住んでいる。そして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

 そして、この国が一つの獄舎になろうとする光景を見た。

そして、アトランティス大陸が沈没したあとのダンティスのギリシアでの一場面を回想している。

 

確かに私はニルヴァーナに安息した存在として日々を生きている。

ダンティスもソムルス酒(エジプト・ギリシヤ方面では、ソーマラスはソムルスと呼ばれていた。)の酔いの中で同じ歌を歌った。

 

  われ神自身

  時々おもえり

  ニルヴァーナこそ

  サクラン

  ではないのかと---』

【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】

 

サクランとは錯乱の音である。しかしサクランとは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスの呪術におけるこの世の戯れの始まりである煙であるウミトであり、古事記に見えるこの世の始まりの煙みたいな葦牙であり、ユダヤ教なら黒い炎であり、霊界物語の最も重要とされる天祥地瑞巻での神々の不倫のことである。

 

死ぬものとて何一つない未知なる国こそ覚者の日常であり、そういう日常がない自称覚者は偽ものである。日々是好日とはそういう日常。

 

神とともに生きる時代への方向性の基礎を固めた紀元前9千年頃。

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ダンテス・ダイジの人類史観-2

2022-10-10 10:28:32 | ダンテス・ダイジの風光

◎シリウスからエジプトへ

 

ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。

『現代西洋文明の合理的理性から見た仮説としての人間観から人間進化を位置づけてみよう。

そうするとレムリア人種は、意欲人間、アトランテス人種は、感情人間、現代西洋人種は、知性人間ということになろう。現代西洋人種とは、地理上の西洋・東洋を意味するのではなく、紀元前3120年以後の人類全体のことである。』

 

ダンテス・ダイジの断簡を読んでいると、レムリアとは明示していないが、大聖者メルキゼデクの悲劇的最期が追憶の一節として登場し、またダンテス・ダイジが人馬合体の姿のケンタウロスであったことも出てくる。当時は、人間の肉体、あり方自体が現代人の想像もつかぬ有様だったのではないか。

 

その延長線上に、彼自身の故郷であるらしいアルファ・ケンタウリ(地球から最も近い恒星、距離4.3光年)の少女と、シリウスから銀色に輝く空飛ぶ円盤で地球に降り立った彼の姿が見え隠れする。シリウスは、犬星というやや傾(かぶ)いた、或いは照れたような表現で、漠然と言及されている。

 

レムリア人の客観的な手がかりはないが、その上で彼はレムリア人を意欲人と規定、アトランティス人を感情人、現代人を知性人と見る。知情意を完備した姿が人間の完成形なのだ。

 

紀元前3120年は、古代エジプトの第一王朝で上エジプトのナルメル王が下エジプトを征服しエジプトを統一した頃。勿論この年代は、地政学的な意義を語っているのではなく、中有的な時代、神の現存を確認しきれぬもやもやした5千年の始まりであって、最終的にその知性で物質文明、火力エネルギー主体の文明を極め、社会と人間において上面だけに神がいる5千年をもって知性人としての成熟を図る。

最終段階たる現代では、アトランティス末期同様に人類絶滅兵器を使用できるようになるが、人類が絶滅を回避できるかどうかは、神のみぞ知る。

 

この5千年は、闇を無視し光を珍重するアポロン的時代。あるいは、生のポジティブ面だけを強調し、死を隠す時代。死の極みは愛の極みに近いがゆえに、死の見えない時代は、愛なき時代でもある。

 

紀元前3120年において、現代の方向性を定めたと唱えるダンテス・ダイジは、それに先行して紀元前九千年頃エジプトに出現して、以降の足がかりを築いている。

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ダンテス・ダイジの人類史観-1

2022-10-10 10:27:45 | ダンテス・ダイジの風光

◎説明不能の部分-いまや文明は終わった

 

ダンテス・ダイジの老子狂言から。

以下の部分は、全体として彼の歴史観を端的に示した数少ない部分である。ダンテス・ダイジは、この文明を中有タイプの文明と評価している。天国でもなく地獄でもなく不分明だが、天国と地獄の結婚の先へも行けない、と。

 

『○

 

感情とそれからにじみ出す想像力は、欲望として以外にありえぬ個生命—人間にとって実に巨大な力を与えていた。

アトランティス文明の黄金時代は、人類の感情・想像・記憶を司るアストラル・パワーの開花の時だといってよい。

自我意識、合理的理性が未だ発達していないアトランティス人種は、合理的科学法則とはまったく異質の多くの夢を実現することができた。しかし、人類の進化は、そこでとどまることをゆるさない。あらゆる個生命は、欲念を原動力として流動転変せざるを得ないからである。欲念相続には、完全満足なる到達点はあり得ないことは言うまでもないだろう。

 

欲望は欲望を滅尽させるために欲望としてある。欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手なのだ。』

(ダンテス・ダイジの老子狂言から引用)

 

アトランティスは3期あり、その黄金時代は、神の宮アメンティにトオス以下神人がおわしまして、神政一致の政治をとっていた。アトランティスは、最初から黄金時代であったわけでもなく、また最終盤は、黄金の輝きを失った我欲の時代となり、全島沈没の憂き目を見ることになった。それをいち早く、予感した人々は、エジプト、ギリシア、中米、北欧、日本などに避難していった。

 

感情人の時代だったアトランティスは、感情・想像・記憶を司るアストラル・パワーを十全に活用し、自我意識、合理的理性が発達していないにもかかわらず、文明都市を作り上げた。最後にはピラミッドを建設し、そこに文明の精華を封印したなどと言われるのは、現代科学からみても驚異と言えよう。

 

だが、欲望のゲーム、喜怒哀楽のゲームは常に満足と苦悩の間を往復し、決して終わることがないがゆえにそのゲームは既に終わっている。

ここは、アトランティス時代限定ではなく、現代も同様の部分。

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虚無を見るあるいは死を恐怖する

2022-10-10 10:25:59 | 究極というものの可能性neo

◎非現実的な妄想

 

自我が最高レベルに発達した人間にとって、死から逃れられないということは、この上のない恐怖である。死からは誰も逃れられない。それが証拠に釈迦もイエス・キリストも死から逃れられず、とっくに死んでしまった。釈迦もイエスも、あなたが死から逃れることを手助けしてくれるどころではなかったのだ。

 

失恋した、就活に失敗した、リストラされた、離婚した、老いて孤独になった、厄介な病気になった、社会的に成功したが肉体を失えばもとの黙阿弥であることに気がついたなどなど、調子よく進んでいた人生が実は何の保証もないことに気がついて、死の不安におびえ、人生そのものが虚無であることに気がつく瞬間はいくらでもある。

 

そうやって自我の発達の極点に立たされて、死の暗黒に怯え、人間の虚無に直面して、立ちすくんで、何をしても価値を見い出せなくなった者は一体どうすればよいのだろうか。

 

先賢は言う。虚無を見るのも、死を恐れるのもその人の責任ではなく、それに執われ苦しむのも、そしてそこから離脱するのも、すべてその人の責任ではない。それはその人にとって甚だしい苦痛を伴う発達のプロセスに過ぎない・・・・と。

 

しかし、そのためには、その苦悩と絶望が一過性のものであり、それがプロセスだと見切る視点のジャンプが必要だなどと思いついたりするが、視点の変更では解決にはなるまい。あるいは、虚無に直面するということは、まぎれもない恐ろしい現実そのものだが、それが実は単なる悪夢であったと見切ればよいなどと思うが、見切りで片付く問題ではあるまい。

 

あるいはまた、死の恐怖を超えるとは、死の恐怖に耐えられる強靭な自我をつくることでもなく、不老不死の超能力をつけることでもなく、自分という人間のないところこそが真の現実であることを知ることである。

 

自分がなければ、この世もあの世もなく、生も死もなく、ニルヴァーナ(涅槃)もマーヤ(無明)もない。それは常識人にとっては、非現実的な妄想にすぎないが、覚醒した者にとっては、そうした常識人の通念こそが非現実的な妄想なのだ。

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人と神の「実際のところ」-5

2022-10-10 06:42:11 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-5

 

(原文5)

『悟りという体験の思い出———

何という足かせだろうか!

 

恐怖があることを恐怖するから、

あんたは、あたりまえの恐怖を

生きられなくなっちまうんだ。

 

「どうでもいい!」と

君は本当に叫べるか?

 

悟りは、悟りとは何の関係もない。

犬が鳴いている!

ワン·ワン·ワン・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

『悟りという体験の思い出』が足かせであるとは、『悟り』があまりの愛の極み、大慈悲の極み、何ものにも例えられない心地よさの極点であるため、とても懐かしく、すてきなものであると、覚者たちは全心身の感動をもって、うっとりと思い起こすことがある。

 

それを聞いた弟子たちは、『悟りという体験』はどのようなものであるか想像すらもできないが、その覚者本人の感動の印象だけは直に伝わるので、それがなんだかとてつもなく素晴らしいものであるらしいことだけはわかる。

 

『悟りという体験』が素晴らしいものであることは、禅語録に散りばめられており、道元の正法眼蔵は、その感動が膨大な著述へと突き動かした印象を受ける。もっともその感動は、いわゆる感覚刺激に類する話なので、覚者は大げさには語らないものだし、読者もあまりちゃんと取り合わない癖がついているものなのだが、ダンテス・ダイジは、敢えて言ってみせる。

 

だが、そこを強調しすぎると、「悟りとは体験である」という体験至上論に堕し、体験する者が最後まで残る原因になったりする。よって、ダンテス・ダイジは、「悟りとは態度である」などと殊更に唱えたりしている。

 

誤解を恐れずに言えば、覚者にとって悟りとはそれほどにのっぴきならない思い出なのだ。

 

恐怖については、自分自身に向き合う恐怖。個人が全体に出会う直前の恐怖。

ダンテス・ダイジの老子狂言の【いつも私は評価する】という詩に恐怖が語られている。

 

『人が絶対の至福を求め始めた時が、

絶対の至福を失う時だ。

———それが恐怖だ!それがわけのわからぬ不可解だ!それが人間のものでない久遠の至福だ!

 

死が恐ろしいものだと誰が決めた?

——あなただ。

不安と不満と苦悩と苦痛とをいけないものにしてしまったのは誰だ?

———『あなた』だ!!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

そして「どうでもいい!」。これは、自分個人が世界全体、宇宙全体と合一したからには、どうでもよいのであって、また最初から合一しているからどうでもよいのである。

 

これは、この表現を覚者が言うなら本当だが、未悟の者が言うなら嘘になるものの一つ。

従って、悟りは、悟りとは何の関係もなく、ワン·ワン·ワン。

 

・・・人間として世界から片足を踏み外して謳っている詩ではある。

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一休 鴉の声を聞き反省あり

2022-10-10 05:26:49 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎森女との爛れた愛の生活を鴉が笑う

 

一休禅師の狂雲集538番より

『鴉(からす)を聞き省あり

 

豪機(ごうき) 瞋恚(しんい)識情の心

二十年前 即今に在り

鴉は笑う 出塵の羅漢果

日影玉顔の吟(ぎん) 奈何(いかん)せん』

 

大意:

鴉の声を聞き反省あり

荒々しい心や怒りや欲情は、大悟徹底した20年前と変わらず今ここにある。

鴉は、この俗塵を超えて一休が羅漢果を得た(悟った)ことを笑う

盲目の森女が日光の中で詩を吟ずるのをどうしようか。

 

 

一休は2度大悟したが、そのうちの一回はカラスが鳴くのを聞いて大悟した。大徳寺開山宗峰妙超は、大悟の後聖胎長養20年を命じられ鴨の河原で乞食生活に入った。一休は77歳で盲目の森女と同棲し、愛欲を尽くしているので、大悟20年というのは、実際の20年でなくシンボリックな20年とみる。

 

狂雲集では、この詩の前後に森女との爛れた愛の生活の漢詩が並ぶ。

 

悟っても、働かねばならなかったり、炊事洗濯掃除など家事をしないといけなかったり、愛欲に溺れたりしなければならなかったりするが、それはその人が本当にその人らしい人生を送るというもう一つの姿。人間だから人間の面は残る。

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