◎感受性と智慧と至福千年
精神世界を語る上で最も重要なポイントと思われるのが、神秘体験や窮極の体験である。
しかし体験だけでは、何も先へ展開しない。評価できないと他者へ伝達することが難しいからである。
体験の中でも特に重要な体験は臨死体験と神人合一の体験である。
臨死体験の場合、一部の人はその体験を語ることができるのに、一部の人はその体験を語ることはできない。なお臨死体験には、窮極に至らないハズレも多い。
神人合一の体験に至っては、体験していない人は勿論それを語ることはできないし、体験した人でもその体験は言葉では語り得ないものであるがゆえに語ることはできない。
体験には評価する者がいて初めて他人がその体験を正当に論ずることができる。
それでは臨死体験を語れる者と語れない者の差は何か。しかしそれ以前に、体験者が臨死体験をどのレベルで見ているかという問題があって、語られた臨死体験の内容が必ずしも正しいものではないということがある。
よって臨死体験を語れる者と語れない者の差は、単に起きた出来事を言葉にできるかどうかの差であって、その内容が真正なものかどうかとは別の問題であるように思う。
古神道ではこの点をクリアできるように審神者というものを置く。審神者は、臨死体験の判定者兼解釈者ではなく、憑依してきた神霊の判定者兼解釈者なのだが、求められる役割は臨死体験評価でも同様である。
神人合一体験であっても審神できる人物もいる。釈迦が涅槃に入るというのも神人合一なのだが、以下のように釈迦が涅槃に入る様を段階別に精緻に審神できた人物がいたわけだ。
『その時に世尊は(はたしてアヌルッダの答えたとおりに)、
滅想定から出て(無色界にもどって)、有想無想定に入り、
その有想無想定から出て、不用定に入り、
その不用定から出て、識処定に入り、
その識処定から出て、空処定に入り(ここで四無色定を終えて)、
その空処定から出て(色界に戻って)、第四禅に入り、
その第四禅から出て、第三禅に入り、
その第三禅から出て、第二禅に入り、
その第二禅から出て、初禅(第一禅)に入り(三たび繰り返して)、
その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て、ここに仏は完全なるニルヴァーナを遂げました。』
(阿含経を読む(下)/青土社P952-953から引用)
神人合一を審神できるような人物であれば、過去に窮極の体験は経ているだろう。評価するには、それが起こったことを感知する感受性が要る。更にそれが何を意味するのかを理解する智慧が要る。
それら二つを兼ね備えた人物ならば、その感受性と智慧はその行住坐臥に自ずと表れる。このように悟りが所作・行動に現れることを敢えて『悟りとは態度である』という場合がある。
昨今悟りについて体験至上主義みたいな扱われ方をする場合が多いが、悟りはそれがどんな高みを持ったものであっても一時であって、永続することはない。しかし経験した者からは、その体験をしたことによる恵みが一挙一動から溢れ出る。それが『悟りとは態度である』ということ。
世の中に覚醒とは何か、悟りとは何かを感ずるのが当たり前の人ばかりになった時、それを霊的文明あるいは千年王国と呼ぶ。覚醒も悟りも、死からの恐怖、自分の死、自分のまわりのすべてのものの死を超克した先にあるものだから、死を越えている。