アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

エーテル体と雷

2023-12-02 20:55:38 | チャクラと七つの身体neo

◎雷電で世界を滅ぼさんとする

(2017-08-24)

 

朝から熱風の吹く晩夏の一日の始まりである。

人間は、電気の肉体であり、電気とは神経や筋肉である。神経系とほぼ似た位置に経絡であるエーテル体がある。

エーテル体は半物質であって、物質の性質が半分であって、経絡であるが故に電気的な性質も有している。

最近の名古屋地区や東京の一時に何千発もの落雷があって、巨大積乱雲スーパーセル直下では何千発もの雷が発生することが知られるようになった。

 

ギリシア神話に、神はこの世を滅ぼそうとして、いきなり洪水にしようと思ったのではなく、最初に雷でやろうとしたというのがある。

時代は、金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代と進み、既に敬虔と正義は人の心から失われた。そこで大神ユピテルは、日々罪という罪を犯しまくり、大地の広がる限り荒々しい狂乱の支配している人類すべては罰を受けねばならないとし、いつも愛用の武器である雷電でもって人類を滅ぼそうと考えていた。

ユピテルは、既に無数の雷電を地上の至るところにばらまこうとしていた。

ところがユピテルは、雷火では、地上の火が天上に延焼し、天の軸が端から端まで燃え、海も地も天上の宮殿も燃え上がり、宇宙全体が滅亡するかもしれないと懸念し、急遽無数の雷電による人類滅亡から、洪水による滅亡に切り替えることにした。

つまり無数の雷電とは核ミサイルのことであり、世界中に配備完了し、いつでも世界滅亡できるのだが、なぜだか、大洪水に切り替えるということ。

スーパーセル下の多数の落雷も核ミサイルも広義の雷電。大洪水前に雷電を見せるのは、スーパーセルだけでなく、核戦争も派手な雷電の打ち合いではある。

対エーテル体ということでいえば、スマホ、携帯電話の電磁波でエーテル体に影響を与えながら生活するのもプチ落雷のようなものである。

ギリシア神話もなかなかに意味深長である。

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一休-3-生きる姿-3-ダライ・ラマ6世との類似

2023-12-02 03:27:04 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-35

◎青春期の水平の道-34

 

一休宗純の狂雲集にこんなのがある。

 

愛念愛思胸次を苦しむ、

詩文忘却して一字無し。

唯だ悟道あり道心無し、

今日猶お愁う生死に沈まんことを。

 

これは前半が愛欲に目がくらむ自分の現実を表現し、後半がニルヴァーナを経て生死を超えたはずだが、戒律を守る清純な生き方はしておらず、今日なお生死の区別ある迷いに沈む自分を愁うくらいの意味だろうか。

この世はドリームでもあり、リアルでもあり。『如』なる現実感覚でもって愛欲生活に沈潜すればこういう感慨になるのだろうか。

 

一方ダライ・ラマ6世(1683-1706年)の恋愛詩は、一休の狂雲集のそれとは違って、単純に甘い恋の出来事を断片的に描写するものが多いものの、狂雲集ばりの詩もある。

 

『たった一夜といえども、 一人で過ごしたことはない。

私の床にはいつもすばらしい美女たちがもたらされた。

だが一瞬たりとも道(空性が歓喜となって顕現する大楽の体験)を踏みはずしたことはない。

なぜならば私は”普遍的な心(ユニヴァーサル マインド:一切の命あるものを苦界の輪廻から救済するという普遍的な責任を受容した純粋な意識)”を決して見失ったことはないのだから』

(14人のダライ・ラマ/グレン・H・ムリン/春秋社(下)P5-6から引用)

 

ダライ・ラマ6世も一休同様に、ニルヴァーナ・道というものを持ちながら女犯をするという立場にあったことは同じ。

 

また一休の性愛遍歴を見れば、求道としてのカーマ・ヨーガではないように思う。理由はパートナーをどんどん変えているからである。

さらに、こうしてみるとカーマ・ヨーガは、確かに男性側の修行法なのだろうが、かたや女性においてはカーマ・ヨーガは修行ではないという位置づけに、男女の魂の完成プロセスの別を感じさせられる。ある生では男性として生き、次の生では女性として生き・・・などという事情もあり。

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