◎ジェイド・タブレット-06-10
◎青春期の垂直の道-10
◎無意識と死の側-5-超常現象・オカルト-1-概説-2-超常現象・オカルトにこだわらない
もう一つの大きな問題点は、超能力、霊能力、高級神霊は、一種の人生のチート技のようにも見えるが、そういうインセンティブを目の前に見せて、人間を惹きつけ金を使わせたり、宗教に入信させたりする動機になることである。これも、無意識=死の世界の操作の一種である。
こうしたものは、一度魅入られると、依存度が高く、脱却するのが厄介な代物でもあるのだ。
ダンテス・ダイジは、超能力、霊能力、高級神霊について、冥想修行においては、そういうことが発生するかもしれないがそれにこだわらないことを旨とし、実質的にほとんど説明しなかった。
その理由は、少しでもその法則や規則を説明すれば、それをとっかかりに応用、悪用する手合いがいくらでも出てくるものだからではないだろうか。
だが、その一方で、占星術や気学など微細身レベルすなわち霊界における様々なメカニズムがあることは否定しなかった。しかしながら、そういう法則の利用は、大悟してから後の話であるというのが一貫した姿勢だった。
また道教の笹目秀和(大本教のご神体を崑崙山に返還した人物)も高山で身体を温める秘印である坎離印は、後に彼がソ連の水牢を堪えぬいた鍵だったが、そのマントラも印も明かすことはなかった。
こうした、スピリチュアルなテクニック、メカニズムに関する秘密主義の所以は、神を知らない人間の超能力、霊能力利用は、結局ダークサイドに堕ちる(闇落ち)ものだからである。
またダンテス・ダイジが、特に強調していたのは、人類全体が神知る人間に進化しようとしている現在、そうした霊界科学的な法則は、従来は精確に稼働していたが、最近は外れ始めているのではないかということ。
その一例としては、例えば暗剣殺。
ユダヤ教・キリスト教における「北東の隅に最初は役に立たない石を置く」は古い言われだが、出口王仁三郎によって北東の艮(うしとら)の金神は実はメジャー神だったのが強調されはじめたことに現れている。
つまり北東は、これまで暗剣殺であって忌み嫌われていたが、じつは最高にポジティブな新時代はそこから出てくるのだということであって、時代はまさにそのように変わりつつあるのだということ。
このように暗剣殺は方位学の基本中の基本だが、人類進化のタイミングを迎え、その根本の意味が逆転している。伝統的方位学は賞味期限切れなのだ。
占いについては、その占術固有のテクノロジーに加え、占術をきっかけに世界をのぞき込むという作法が加わっている。
西洋占星術ホロスコ-プは方位学とは逆に、古代にあった深遠なノウハウが半分以上喪失されたテクノロジー。まず基本は、PCの天体暦で惑星の位置を算出することでなく、日々実際に惑星の位置を観測することから始まる。
現実の事象は、霊界レベルに先に出現し、後に現実化するのだが、惑星-ホロスコープは、その辺縁に位置するシンボル。
同年同月同日同時刻同地域に生まれた二人の人物が全く同じ人生を歩むわけではないからである。先に自分の内面を含む全世界があってそれを象徴したものとしてホロスコープがあると見なければ、将来の人生など読めないのではないか。
よってホロスコープは、自分の内面と自分の過去と将来をのぞき込むきっかけに過ぎないのだ。
昨今のホロスコープは、冥王星が惑星からはずれたり、計算上の細かい惑星が増えたりと、判断を迷わす要素が多くなった。
それでも、ダンテス・ダイジは、太陽の位置、月の位置、アセンダントが基本の解釈の柱であると教えてくれた。だからホロスコープも全く使えないメソッドというわけではない。
冥想修行者にとっては、現実生活は二の次とはいっても日々食べていかなければならないので、そのためにホロスコープを使うという事はあり得るが、そこそこにということ。
また易やタロットの方は、西洋占星術よりもダイレクトに「自分をのぞき込むきっかけ」という性質が強い。象、八卦やタロットカードを解釈するということは、占い者自身がトランスに入り、世界を映す鏡のようになり、霊界微細身レベルを覗き込むということである。