◎ジェイド・タブレット-06-13
◎青春期の垂直の道-13
歴史上の有名人で、超能力、霊能力を使いまくり、なおかつ我がために利己的にそれを用いなかった代表的人物といえば、イエス・キリストである。彼こそが垂直の道の代表的人物と言えるが、あいにく大悟が人生の最後の十字架上で起こったので、神人合一から生還してその希有な体験を世間に伝えるということはなかった。だがそのパフォーマンスは、超能力でパンを増やしたり、ワインを増量したり、水の上を渡ったり、悪霊祓いをしたりと典型的な広義のクンダリーニ・ヨーガ系の修行者のパフォーマンスであって、傍目にも超能力の使い過ぎを心配されるほどだった。
そのような一介の貧しい大工でありながらのスーパーマンは、官憲と民衆に反感を買いがちなものだから、不幸にも磔刑に遭って憤死した。
なお脱身ということで言えば、彼が脱身から神人合一したかどうかを霊視した者はいない。ただし、後の公会議でイエスは神の子認定され、父と聖霊と神の子という三位一体の教義の重要なピースであることが認知されたという経緯はある。
要するに、イエスは、垂直の道の行者として活躍したが、磔刑後は、イエスの信者たちは、奇蹟・超能力を認めるという垂直の道の部分を残しつつ、マントラ、観想法などどちらかという水平の道の行法メインの宗教を組み上げた。
イエスが活躍した時代には、垂直の道は、グノーシス、エッセネ派、ユダヤ教にも残されていたが、イエスの信者たちがカトリックとして水平の道メインとなるにつれて、そうした垂直の道は、潜航していくことになった。
ここでは、カトリックに残された垂直の道の例として、七チャクラの例を挙げる。
『「振り向くと、七つの金の燭台が目についた」(ヨハネの黙示録1:12)
「それらの燭台の中央に、足まで垂れた上着を着、胸に金の帯を締めている人の子のようなものがいた。」(同上1:13)
「それらの右手に七つの星を持ち・・・」(同上1:16)
「あなたがわたしの右の手に見た七つの星と、七つの金の燭台の奥義はこうである。すなわち七つの星は、七つの教会のみ使いであり、七つの燭台は七つの教会である。」(同上1:20)
「右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の真ん中を歩く者が次のように言われる」(同上2:1)』
(聖なる科学/スワミ・スリ・ユクテスワ/森北出版p84から引用)
スワミ・スリ・ユクテスワは、これについて、「右手の七つの星」とは、神に至る正しい道筋にある聖霊の光であると言っているので、窮極の属性を有するメンタル体チャクラのことであると思う。
また七つの金の燭台は、尾てい骨のムラダーラ・チャクラから頭頂のサハスラーラ・チャクラまでの肉体に相応する位置の七つのチャクラのことであり、自我意識(人の子)はこの七つの中枢を通って神に向かって上昇していくと説明している。
聖者が迫害された類似例として、OSHOバグワンがアメリカ官憲に拘束され、世界中で村八分にあったり、戦前の古神道家出口王仁三郎(彼も超能力使いまくりだった)が、二度にわたり計8年ほど牢獄に入った例がある。聖者は本物であればあるほど、そのような仕打ちに遭いがちなのだ。
なおOSHOバグワンは、サイババみたいに物を増やしたり出したりする霊能力、超能力を見せなかったが、出会った人物に関する情報収集ではそれを日常的に使用していた。おまけにその言説のほとんどは、分析的なクンダリーニ・ヨーガ行者のそれだった。
またイエスは、青年期の冥想修行の様子が伝えられていないので、インドで修行したという説まである。だが出身母体とされるエッセネ派に然るべき正師がいれば、わざわざインドまで赴く必要はなかっただろう。あるいは、むしろ村の一人の大工として地味に働いて家族(弟4人妹2人?)を養ってきた期間が長く、それは聖者の伝記としてはふさわしくなかったのでカットされてしまったのだろうか。